千年先に残せるような、人さまのための絵 ― 2025/07/13 07:13
祇園会が終わった七月一日、若冲は一人で、煙管屋の木津屋から届いた文を懐に、八坂門前の一角にある寂れた道具屋、壺中屋へ行った。 木津屋の屏風絵がふた月前に壺中屋から納められたと知り、君圭の消息を尋ねに来たのだ。 若冲とさして年の違わぬ老婆が、「するとあんたが、伊藤若冲かいな」。 あの屏風を見て訪ねてくるとすれば、伊藤若冲よりほかおらぬ、と君圭が言っていたという。 「わしはお前の絵が嫌いじゃ。そやさかいあいつのところに行って、これまでどれほど拙(つたな)い絵を描いてきたか、じっくりその眼で確かめてきたらええ」 手許の抽斗から手さぐりで一枚の書き付けを取り出し、それをひらりとこちらに投げた。 「拙い絵と言われたが、意外か。腹が立ったか。そらそうじゃろう。おぬしがかれこれ数十年、京洛の者どもから稀代の画家よ、奇矯の画人よと褒めそやされてきたでなあ。そやけど世間はだませても、わしの眼は誤魔化せへんで、お前の絵はすべて、己のためだけのもの、そない独りよがりの絵なんぞ、わしは大嫌いじゃ」
「おお、そうじゃ。絵というもんはすべからく人の世を写し、見る者の眼を楽しませるべきもの。けどお前の作は自分の胸の裡(うち)を吐露し、己が見たくないものから眼を背けるもんやろが」 「なあ、若冲よ。絵師とは、人の心の影子。そして絵はこの憂き世に暮らす者を励まし、生の喜びを謳うもの。いわば人の世を照らす日月(じつげつ)なんやで」 目の前の媼(おうな)は絵画に淫した若冲の心の弱さを見抜き、嘲(あざ)笑っているのだ。 「それに引き換え、ただただ自分の苦しみを、のべつまくなしに垂れ流しているお前の絵はなんじゃいな。四条の円山応挙は、絵は世間の者のためにあるとよう知っとった。ただ己を空っぽにして、人の眼を楽しませるためだけにその技を使うたさかい、あいつは京洛でああももてはやされたんじゃ」
媼の悪口は、不思議と不快ではなかった。 絵に漂う哀しみ苦しみを読み取った上で「若冲」(「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」)の号を授けた相国寺の大典の如く、世の中にはどうやらごくわずかながらも、己の絵の本質を看取する者がいるらしい。 目の前の媼がその一人であり、己と君圭の関係を知った上で自分たちの絵を腐すのが、何やら有難く思われた。 (わしは――わしらはまだ千年先に残せるような、人さまのための絵を、一つも描いてへんやないか)
石峰寺に駆け戻るなり、若冲はお志乃に手伝わせ、ありとあらゆる反故紙を糊で貼り継ぎ、縦五尺、横一丈あまりの巨大な紙を二枚創り上げた。 部屋中に広げたそれに乗り板を渡すと、若冲は竹炭で紙を六扇に区切った。 まず右隻の中央右寄りに巨大な白象を、左隻に大きく羽を広げた鳳凰を素描する。 巨大な木を二隻の両端にそびえさせ、実をつけた葉叢を天に配した。 その構図は傍目には、君圭の鳥獣図屏風と映ったであろう。 だがあの屏風絵に描かれた鳥獣は、みな若冲がこれまでに描いた絵からの引き写し。 そんな過去の遺物だけで、この絵を仕上げてなるものか。
若冲は、象の傍らに豪猪(ヤマアラシ)、綿羊、山童(オランウータン)、駱駝を、鳳凰の周りには、火喰鳥、高麗鶯、紅羅雲など珍妙な姿態の異国の鳥たちを描いた。 (これは浄土や。そう、わしは浄土を描くんや) 鳥も花もすべて生きることは美しく、同時に身震いを覚えるほど醜い。
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