「事業の達人」福沢諭吉に学べ ― 2025/10/12 07:54
Eテレ「100分de名著」『福翁自伝』第1回「カラリと晴れた独立精神」は9月4日に、第2回「自分を高める勉強法とは」は9月11日に、第3回「人生の困難を切り拓く」は9月21日に、当日記に書いた。 いよいよ、最終第4回「事業の達人に学べ」である。 福沢諭吉は築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で始めた蘭学塾を慶応4(1868)年、35歳で芝新銭座に移し、時の年号を取って「慶應義塾」と名づけた。 幾何学、ソシオロジー、サイコロジー、化学書など、独自のカリキュラムを、半学半教、若者を教師にし、同じ立場で学んだ。 授業料制を取り、それを教員の間で分配した。 「慶應義塾の成り立ちは、教師の人々がこの塾を自分のものと思うて勉強したからのことです。決して私一人の力に叶うことではない。人間万事、余り世話をせずに放任主義の方が宜(い)いかと思われます。」
枠組をつくり、やる気のある者に任す。 自分で全部やらない、距離感を持つ。 プロデューサー向きである。 プロデューサー向きの人が、明治初期には必要だった。 いろいろな人がつながって、どんどん立ち上げていく。 時代に求められたテンポ感だった。
明治10年前後、慶應義塾は塾生の数が減って、低迷した時期があった。 福沢は、腹の底に極端の覚悟を定めて、いつ義塾が潰れてもかまわぬ、と決めていた。 メンタルタフネス。 世間の評価や時代に振り回されずに、独立を保てる。
ここで、実業家で作家、著書『人は話し方が9割』のある永松茂さんが登場した。 福沢の出た中津で、2坪のたこやき屋から始めた。 斉藤孝さんの『福翁自伝』『学問のすすめ』の現代語訳を読んで、ヒントを得た。 自分はハコだけつくって、料理や接客は上手な人に任せた。 上京してから、本の執筆や出版のプロデュースを始め、中山秀征『気くばりのススメ』、芥川なお『ストロベリームーン』を出した。 『福翁自伝』から学ぶ、執筆の5原則を挙げた。 (1)読む人に分かりやすく (2)語りかけるように (3)読者を見下さない (4)エゴではなく読む人に役立つことを (5)伝えるために 書く。 福沢は、『福翁自伝』に小見出しを自分でつけた。
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