馬場辰猪作の幕末維新物語「悔悟」の意味するもの2026/01/29 07:04

 ここからは、以前に書いた、馬場辰猪作の幕末維新物語「悔悟」<小人閑居日記 2016.7.13.>のその後の部分と、杉山伸也さんの解題である、「悔悟」の意味するもの<小人閑居日記 2016.7.14.>を再録することにする。

 5年の歳月が流れて、1868年の初め、川田と義助は上野の山で官軍と対峙していた。 夜警をしている義助の前に、黒覆面の賊があらわれ、渡り合う。 槍で致命傷を与えると、賊はその槍で自らを突き刺し、覆面を取る。 川田だった。 自らが親の仇であることと、それまでの心情の変化を告白する。 川田は義助に、日本の政治的権威はただ一人であり、朝廷と幕府の分裂は国力を弱める、日本は統一されるべきで、義助は一刻も早くこの地を離れ、尊皇派の中でももっともすぐれた指導者、西郷隆盛、木戸孝允、後藤象二郎に会うようにと、紹介状を手渡す。 新政府に出仕しろ、20年後には能力も気品もない政治家が指導者になるので、今の幕府と同じように瓦解するだろう。 それまで命を無駄にせずに生きろ。 そう言って、川田は腰の脇差で自害した。

 上野の戦さのあとの戦場に、黒衣をまとい黄色の袈裟をかけた若い仏僧があらわれ、兵士たちの命をすくい、苦痛をやわらげ、傷病者に加護を与えた。 質問には何も答えず、名前だけは「悔悟」とこたえた。

 戊辰戦争後、仏僧は山あいの寺に隠遁し、すべてを慈善事業にささげた。 死後「悔悟上人」と呼ばれるようになった。 その法衣の胸襟には、三つの紹介状が入念に縫いつけられていたという。

     「悔悟」の意味するもの<小人閑居日記 2016.7.14.>

 杉山伸也さんは「悔悟」を解題して、「生」と「死」の問題を扱っているとする。 亡くなる半年前、馬場にはもはや生きて明治日本の政治改革に参加する選択肢は残っていなかった。 馬場は明治維新を貴族政治から民主政治の時代へ社会を大きく変化させた「革命」の時代とみて、新生日本の原点として新政府の開明性・革新性に期待した。 馬場は戊辰戦争当時、土佐に帰り、戊辰戦争に身を投じる機会を逃し、それがコンプレックスとなっていた。

 1878(明治11)年5月馬場が二度目の英国留学から帰国した三日後、大久保利通が暗殺され、「能力も気品もない第二世代の政治指導者」が政権をになうようになった。 政局は混迷化し、明治14年の政変で藩閥による支配が確立した。 馬場の期待した民主政治の方向とは真逆の、専制化・圧政化の方向が顕著になり、言論・出版や集会の自由に対する統制が次第に強化された。

 「悔悟」で、川田も義助も、目的であったはずの「復讐」は、ともに果たすことも、果されることも、かなわなかった。 この意味では、明治新時代の方向を逆行させるにいたった明治政府に対する「復讐」、いいかえれば米国の世論による明治日本の外からの改革を果たすこともかなわず、志半ばで逝った馬場の心情を描き出していると考えられなくもない。

 馬場は英国時代を共有した共存同衆をはじめとする多くの友人たちが、政府に出仕している中で、みずからその可能性を断ち切り、在野であることを貫き通し、教育や啓蒙活動など「民心之改革」に専心した。 馬場を踏みとどまらせたのは、明治政府から一定の距離をおき、在野であることを貫き通した福澤諭吉の存在であり、また福澤の「民心之改革」への想いにたいする馬場の共感であったことは否定できない。

 民衆の側に立ち続けることが、武士の血をひく者としてのプライドであり、自分こそが日本における自由党(リベラル)の精神を代弁しているというつよい自負心であったといえよう。

 馬場が明治維新に間に合うようにもう少し早く生まれていれば、新しい明治の時代をもっとふさわしい方向に導くことができたと考えたかも知れない。 しかし、現実の明治日本はどうであったか。 政府だけではなく、民権家もまた民衆も馬場の期待からはほど遠かった。 このように考えると、馬場のいう「悔悟」とは、自分自身の無力さへの実感と、明治維新の時点にさかのぼって再度歴史をはじめるべきであるという明治日本の「悔悟」であったのかも知れない、と杉山伸也さんは書いている。