福沢諭吉と慶應義塾「社中」の由来2026/09/01 07:14

 科学技術・生存システムを研究している友人から、初期の慶應義塾ではなぜ「入社」というのか、と聞かれた。 入塾者の名簿は、「入社帳」と表記されていた。 慶應義塾には「社中」という言い方があり、「先生」と呼ぶのは福沢諭吉だけで、教える者も教わる者も「半学半教」、お互いに教え合い、共に学び続けるので、「入社」なのだろう、と答えた。

 改めて『福澤諭吉事典』の事項索引を見ると、「社中」はないが、「慶応義塾社中之約束」があった。 「明治4(1871)年から30年頃まで出版された慶応義塾の規則集。」「初期の「社中之約束」には、慶応義塾は「福沢氏ノ私有ニアラズ社中公同ノ有」とあり、慶応義塾が「私」の存在ではなく、「公」のそれであることが述べられている。慶応義塾では教える者も教えられる者も同じく「社中」であり、その「社中」の人びとが対等な立場で取り決めた約束として「社中之約束」は存在した。」とある。

 7月号からの新潮社『波』に、三宅香帆さんが(実は、この人のことを、まったく知らなかった)「福澤諭吉をよみなおす」を連載していて、9月号の第3回は「幕末、饒舌は武器にならなかった」だが、そこに福沢の「社中」の起源が書かれていて、なるほどと納得した。 攘夷渦巻く文久元(1861)年、幕府の翻訳方にいた福沢は遣欧使節団に通訳として加わり、一年間、国制、軍制、税制など制度面の調査をみっちりすることができた。 なかでも彼にとって衝撃だったのが――ロンドン滞在中、イギリスの「或る社中」の「建言書」に出会ったことだった。

 それは、イギリスの外交官オールコックが、日本で乱暴を働いたり、まるで征服者のようにふるまっていることを批判する意見書だった。

 ここでいう社中とは、政府が主導するのではなく、民間人が結びついて立ち上げる学校や病院などの自発的結社・組織のことだと指している。 ようは、海外で外交官が横暴を働いていることを、監視し批判する自発的結社が存在する――そのこと自体が福澤にとっては衝撃的だったのだ。 しかもその監視とは、公明正大な国際法にもとづくものだった。 公明正大な世論こそが、政府の権力主義をチェックし得る。 福澤はこのイギリスの世論と社中の力に衝撃を受け、帰国後の彼の人生は、世論をつくる民衆の言葉を自立させそして慶應義塾というひとつの社中をつくることに尽力するものとなる。