慈覚大師円仁が開いた目黒不動尊、「独鈷の瀧」 ― 2025/03/15 07:14
その少し前の、大河ドラマ『べらぼう』の後の「紀行」(ナレーションは鈴木奈穂子アナ)で、目黒不動尊、瀧泉寺(りゅうせんじ)を取り上げていた。 田舎出の若者がうたた寝する間に見た夢の話、鱗形屋が出版した青本『金々先生栄花夢』の金々先生が立ち寄った場所だというのだ。 金々先生、金村屋金兵衛、目黒不動尊で名物の粟餅を食べようとして、出来上がりを待っている間に、夢を見ることになる。 江戸の近場の行楽地として、目黒不動尊や品川宿が人気だったという。 目黒不動尊は、徳川家にとってもゆかりの地で、三代家光がこの近くで鷹狩りをしていて、鷹がいなくなったのを、この寺で祈願したら戻ってきたという。 番組が映したその記念の碑は、辻さんが正面階段の男坂でなく、右手の女坂で見つけたそうだ。
目黒不動尊、瀧泉寺は、天台座主第三祖慈覚大師円仁が開いた関東最古の不動霊場だという。 正面階段左手に、「独鈷(とっこ)の瀧」がある。 堂宇建立の敷地を定めるに当たり、円仁が持っていた法具「独鈷」を投じた浄地から流れが湧出し、瀧となって数十日間の炎天早魃が続いても涸れることがなく、不動行者の洗心浄魂の場として、今日まで滔々と漲り落ちている、という。 現在は、二つの龍の口から、チョロチョロと間歇的に流れ出している。 「独鈷」は、ドッコともいい、両端が分岐していない金剛杵、煩悩を打ち砕く仏具。
円仁(794~864)が目黒不動尊の開祖だとは知らなかった。 天台宗山門派の祖。 諡号は慈覚大師。下野(しもつけ)の人。 最澄に師事。 838(承和5)年入唐し天台教学・密教・五台山念仏等を修学、847(承和14)年武宗の仏教弾圧を経験して帰国。 常行三昧堂を建立し、東密(空海を祖とする東寺を本山とする真言密教)に対抗する台蜜(日本の天台宗で伝える密教。最澄・円仁・円珍らが中国から伝えた)の基盤を整備、比叡山興隆の基礎を確立した。 エドウィン・ライシャワーに円仁の研究があるのは、聞いていた。
「めいわく」の「行人坂火事」、江戸三大火事 ― 2025/03/14 07:14
3月2日は、三田あるこう会の第575回例会で、「目黒不動尊&林試の森」散策だった。 まあ、地元のような、よく知るところで、志木会の「歩こう会」でも2017(平成29)年10月7日に、逆のコースを三田迄歩いたこともあった。
目黒駅集合、当番の配慮で、行人坂の急坂を避けて、逆「く」の字の権之助坂を下り、大円寺へ。 明和9(1772)年2月29日に大円寺から出火した「行人坂火事」は、折からの強風によって、たちまち白金から、江戸城の櫓、神田、湯島、下谷、浅草、吉原まで焼き尽くした。 大河ドラマ『べらぼう』のしょっぱなの火事が、この火事である。 明和9年、「めいわく」の火事といわれたと、『べらぼう』でもやっていた雑学を、当番の渡邉美保さんに話したら、皆さんに伝えていた。 江戸城の櫓まで焼いたので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかったそうだ。
結婚式キャンセルのニュースがあった雅叙園の前に「お七の井戸」がある。 大円寺のそばに「お七の井戸」があるため、お七の火事と行人坂火事を混同しがちだが、別物である。(なお、お七の火事と「振袖火事」も別物なのを、後で述べる)本郷追分の八百屋お七は、天和2(1682)年12月の大火で焼け出され、駒込の寺に避難して知り合った寺小姓吉三に恋こがれ、吉三逢いたさに自宅に放火して、鈴ヶ森で火刑に処せられた。 吉三は、お七の火刑後、僧侶になり、名を西運と改め、明治13年頃までこの場所にあった明王院に入り、境内のこの井戸で水垢離を取り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行を成し遂げたといわれる。
「行人坂火事」「振袖火事」「車町(くるまちょう)火事」を、江戸三大火事というのだそうだ。 「振袖火事」は「明暦の大火」…明暦3(1657)年、江戸本郷丸山町から出火、江戸城は西丸を残して本丸も焼失、死者10万人以上といわれる。 なお、振袖火事の名前の由来となった、丸山町本妙寺の和尚が施餓鬼で因縁のある振袖を燃やした火が本堂に移り大火になったという話は、史実とは言い難いそうだ。 「車町(くるまちょう)火事」…「文化3年の大火」文化3(1806)年3月4日に江戸芝の車町(牛町ともいい現港区)から出火し、大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域、神田・浅草の大半を類焼した大火。
何で江戸には火事が多かったのかと、辻さんに聞かれたが、うまく答えられなかった。 「火事と喧嘩は江戸の華」という、江戸に人口が集中、安普請の木造家屋で燃えやすかったのだろう、そしてすぐ建て替えられた、各藩は屋敷の再建に多額の出費をしたことが財政負担になった、紀伊国屋文左衛門など木場の材木屋が儲かった、などと話した。
木版から活版印刷へ、福沢の著書と、近代印刷の父・本木昌造 ― 2025/03/04 07:06
木版印刷が、活版印刷になった時期は、いつ頃だったのか、気になった。 『福澤諭吉事典』のIII「著作」に「著作単行書一覧」があり、「印刷技法」と「形態」の欄がある。
万延庚申(万延元(1860)年)の『華英通語』から始まり、『西洋事情』初編(慶応2(1866)年)、『西洋事情』外編『雷銃操法』『西洋旅案内』『条約十一国記』『西洋衣食住』(慶応3(1867)年)、『兵士懐中便覧』『訓蒙窮理図解』(慶応4(1868)年)、『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『洋兵明鑑』『頭書大全世界国尽』(明治2(1869)年)、『啓蒙手習の文』(明治4(1871)年)まで、全てが木版印刷(和装・半紙本が多く、一部大本、中本、小本)である。
『学問のすゝめ』(二編登場以降「初編」と呼称)は、中津市学校に学ぶ青年に向けて明治4(1871)年12月に活版印刷(洋装・四六判)で刊行され、好評を博したが、その活版印刷は紙型による鉛版印刷が未発達で大量印刷に不向きであったため、5(1872)年6月に木版印刷(和装・小本)に改められている。 『学問ノスヽメ』初編として、明治6(1873)年4月木版(和装・中本)で刊行、二編が同年11月木版(同形態)で官許出版、三編が同年12月木版(同)で官許出版されている。 そして四編と五編が、明治7(1874)年1月に活版(和装・中本)で刊行された。 だが、六編は同年2月に、七編は3月に、活版と木版の両方(和装・中本)で刊行されている。 同年4月の八編と、5月の九編は、活版のみで、6月の十編は木版のみ、7月の十一編は活版のみ。 12月の十二編と十三編から、明治8(1875)年3月の十四編、明治9(1876)年7月の十五編、8月の十六編までは、木版のみ。 11月の十七編は、活版のみで刊行された。 明治13(1880)年7月、『学問のすゝめ』として一編から十七編まで一冊にまとめられ、活版(洋装・四六判)で出版された。
日本の活版印刷の歴史を、日本印刷産業連合会の「日本における近代印刷は本木昌造で始まった」というホームページで見てみた。 安政3(1856)年、オランダから船で持ち込まれた印刷機と活字で長崎奉行所は活字判摺立所を開設、オランダ通詞の本木昌造は取扱掛に任命され、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷に取り組んでいた。
安政4(1857)年、オランダに造船を依頼した咸臨丸に乗ってやってきた活版印刷技師が、寄港地長崎・出島に印刷所を設置、持って来た印刷用資機材で蘭書を何冊か印刷した。 本木昌造が感銘し、オランダ貿易商人から印刷用資機材を買い、研究に没頭、片仮名邦文の鉛活字をつくることに成功、自分で書いた本(蘭和辞典)を印刷した。
本木昌造は、明治に入って早々の明治2(1869)年、活版伝習所を開設した。
活版印刷の歴史に、福沢と縁の深い「咸臨丸」が登場したのが、興味深かった。
福沢の出版事業の自営、「福沢屋諭吉」 ― 2025/03/03 07:06
富田正文先生の『考証 福澤諭吉』上「出版事業の自営」に、慶応2(1866)年『西洋事情』初編に関して、当時の出版の慣行の説明があった。 「著者が原稿を書き上げると、書物問屋(今日の出版業者)がこれを引き受けて、そのアトは版下書き(原稿を版木に掛けるための清書)、版木彫り、版摺り、製本という順序であるが、それらは一切書物問屋が取りしきって、著者は僅かに版下の校正にタッチするだけで、値段のつけかたも売り捌きも一切関係せず、ただ書物問屋のいうがままに「当合(あてがい)扶持」の金を受け取るというのが、長い間の習慣であった。」
『考証 福澤諭吉』に、福沢が『西洋事情』外編3000部の収支計算をしているのがある。 (支出)版木草稿代金1000両、3000部製本料750両(1部に付1歩)、計1750両。 (収入)3000部代金2250両(1部に付 価1歩)、書林に渡し 二割引450両、計1800両。 つまり3000部売って50両の利益があり、それ以上売れた分については、その版元の収入になるという計算である。
福沢諭吉は、こんな扱いに黙っているような人間ではなかった。 数寄屋町(現在の日動画廊付近)の紙問屋鹿(加)島屋から土佐半紙を千両の即金で買いつけて、芝新銭座の慶應義塾の土蔵に積み込み、次に書林(書物問屋)から版摺り職人を貸してもらい、何十人も集めて仕事をさせ、その職人から業界の内部事情を聞き出し、版木師や製本仕立師も次々と引き抜いて、最終的には全工程を福沢の直轄下に組み込むことに成功する。 その一方で既得権益を侵害された書林から苦情を言う者も出てきたので、『西洋事情』初編の版元だった芝神明前の書林、尚古堂岡田屋嘉七を証人として、明治2(1869)年書林の問屋仲間に加入した。 そのときの屋号が、「福沢屋諭吉」である。 (つづく)
出版が商売として成り立つようになる江戸時代 ― 2025/03/02 07:48
2月28日の「教養とは何か、本居宣長と上田秋成」は、『江戸狂歌』の第五章「教養とは何かを考えさせられる」に依った。 狂歌の笑いは、作者の教養と読者の教養が木霊(こだま)しあって生まれるので、ある時代の狂歌を読むと、その時代に住んでいた人たちの教養の水準を知ることができるというのだ。
四方赤良(よものあきら・蜀山人(しょくさんじん))の作に、こういう歌がある。 鶉(うずら)を一羽とり二羽とりして焼き鳥にして食べているうちに、深草の里には鶉が一羽もいなくなってしまったよ、というのだ。
ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ 鶉なくなる深草の里
これは、藤原俊成の、次の歌のパロディーである。
夕されば野辺の秋風身にしみて うずらなくなり深草の里
狂歌のパロディーが成り立つためには、元の歌が当時、広く世間に知られていなければならない。 このような仕掛けで笑った人間が、町人に多かったとなれば、それは町人層の教養の水準を示しているわけである。 かなり高い水準といってよかろう。
では、どうして、そうなったのか。 日本の印刷術は一方ではキリシタンたちが持ち来たしたものである。 他方秀吉の朝鮮侵略時にも朝鮮からもち帰られた、朝鮮の活字印刷術の影響で、印刷術は徳川の初期に大いに発達した。 まず最初に経典の類が出版され、次が、公式の儒学の教科書で、そのあとで文学の本が出る。 当時の大衆は、あらそって古典的な文学作品を買い求めた。 古典が大量に出版され、出版が商売として成り立つと、資本が出版業に集まるようになる。 それに連れて、小説本なども出版されるようになった。 本居宣長の『古事記伝』が成功したのも、そのような背景があったからだ。 こうして、いわゆる作家が職業として成り立つ時代が、到来したのである。 平賀源内たちの現れたのは、ちょうどそのころだった。
この印刷術の話で、蔦屋重三郎の『吉原細見』などの、細かい木版摺りの技術には驚くばかりであるが、私は江戸時代の出版物が木版印刷だったことを、ほとんど意識していなかった。 福沢諭吉の『学問のすゝめ』にも、初めのうち、木版印刷のものがあったのを聞いたことがあった。 (つづく)
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