「めいわく」の「行人坂火事」、江戸三大火事 ― 2025/03/14 07:14
3月2日は、三田あるこう会の第575回例会で、「目黒不動尊&林試の森」散策だった。 まあ、地元のような、よく知るところで、志木会の「歩こう会」でも2017(平成29)年10月7日に、逆のコースを三田迄歩いたこともあった。
目黒駅集合、当番の配慮で、行人坂の急坂を避けて、逆「く」の字の権之助坂を下り、大円寺へ。 明和9(1772)年2月29日に大円寺から出火した「行人坂火事」は、折からの強風によって、たちまち白金から、江戸城の櫓、神田、湯島、下谷、浅草、吉原まで焼き尽くした。 大河ドラマ『べらぼう』のしょっぱなの火事が、この火事である。 明和9年、「めいわく」の火事といわれたと、『べらぼう』でもやっていた雑学を、当番の渡邉美保さんに話したら、皆さんに伝えていた。 江戸城の櫓まで焼いたので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかったそうだ。
結婚式キャンセルのニュースがあった雅叙園の前に「お七の井戸」がある。 大円寺のそばに「お七の井戸」があるため、お七の火事と行人坂火事を混同しがちだが、別物である。(なお、お七の火事と「振袖火事」も別物なのを、後で述べる)本郷追分の八百屋お七は、天和2(1682)年12月の大火で焼け出され、駒込の寺に避難して知り合った寺小姓吉三に恋こがれ、吉三逢いたさに自宅に放火して、鈴ヶ森で火刑に処せられた。 吉三は、お七の火刑後、僧侶になり、名を西運と改め、明治13年頃までこの場所にあった明王院に入り、境内のこの井戸で水垢離を取り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行を成し遂げたといわれる。
「行人坂火事」「振袖火事」「車町(くるまちょう)火事」を、江戸三大火事というのだそうだ。 「振袖火事」は「明暦の大火」…明暦3(1657)年、江戸本郷丸山町から出火、江戸城は西丸を残して本丸も焼失、死者10万人以上といわれる。 なお、振袖火事の名前の由来となった、丸山町本妙寺の和尚が施餓鬼で因縁のある振袖を燃やした火が本堂に移り大火になったという話は、史実とは言い難いそうだ。 「車町(くるまちょう)火事」…「文化3年の大火」文化3(1806)年3月4日に江戸芝の車町(牛町ともいい現港区)から出火し、大名小路の一部、京橋・日本橋のほぼ全域、神田・浅草の大半を類焼した大火。
何で江戸には火事が多かったのかと、辻さんに聞かれたが、うまく答えられなかった。 「火事と喧嘩は江戸の華」という、江戸に人口が集中、安普請の木造家屋で燃えやすかったのだろう、そしてすぐ建て替えられた、各藩は屋敷の再建に多額の出費をしたことが財政負担になった、紀伊国屋文左衛門など木場の材木屋が儲かった、などと話した。
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