戦争犠牲者への感謝と鎮魂2018/03/24 07:17

 宮川幸雄さんが、婦人参政権が戦後授けられたもので、戦争の犠牲者のおか げなので、鎮魂の意味を込めて、100%投票に行くべきだと、語ったのは強く 印象に残った。 宮川さんは、私より3学年下である。 私が志木の高校で3 年生の時、中等部の3年生で、日吉の高校に進み、新聞会に入った。 慶應3 高校の新聞部OBOGの集まりであるジャーミネーターの会でお会いし、ともに 会員の福沢諭吉協会でお目にかかり、中等部同窓会の俳句会「心太会」を本井 英先生が指導されていたことから、俳誌『夏潮』の会でもご一緒することにな った。 だから、お話を聞いたり、『うらら』という同人誌にお書きになるエッ セイを読んだりして、宮川さんのことはいろいろ承知している。

 宮川さんは昭和21年に、満洲の大連から、お母さんと佐世保港へ引き揚げ て来た。 3学年下だから昭和19年(か20年)生まれ、2歳(か1歳)だっ たろう。 お父さんは、昭和20年5月に大連で現地召集され、終戦後、北へ 向かう列車を怪しみ、関東軍から脱走して炭鉱に入って、シベリア抑留を免れ た。 戦後、ご両親が奇跡的に再会し、お母さんの強い力によって、満洲で「残 留孤児」とならなかったのは、ご自身の「人生の幸運」だと思っているそうだ。  お父さんは、先に引き揚げていたという。 この原体験から、戦争の犠牲者の おかげとか、鎮魂という言葉が出てくるのであろう。

 昨年4月29日の「昭和の日」、慶應志木高同窓会志木会の俳句の会「枇杷の 会」で、深川を吟行した。 句会場は近くにお住いの宮川さんに教えていただ いたと聞いた。 句会後、「しか野」という居酒屋で小酌したが、本井英先生が 戦争で亡くなった方々への深い感謝と鎮魂の思いを話された。 先生は終戦直 前の昭和20年7月26日のお生まれだったから、私は不思議な感じがした。 4 歳で空襲も体験していたのに、能天気な私にはそういう気持はまったくなかっ たからで、その時もそうお話をした。 お父上か、そのご兄弟が出征されたの かと思った。

最近になって、先生のその思いの根源がはたと分かったような気がした。 先 月25日の「等々力短信」第1104号<時ものを解決するや春を待つ 虚子>に 書いたように、咽頭癌の療養中で『夏潮』新年会に出席された先生が、まとめ て出版したい本の一つに、『夏潮』別冊『虚子研究号』の「「戦地より其他」を 読む」を挙げられたからである。

「春田」と「ミモザの花」の句会2018/03/23 07:15

 3月8日は『夏潮』渋谷句会だった。 本井英主宰の入院加療は続いており、 経過は順調の由、今回も後選だった。 兼題は「春田」と「ミモザの花」、私は つぎの七句を出した。

耕耘機音高らかに春田かな

半分は耕されたる春田かな

豊年の兆し春田に映り込む

やって来る春はミモザの黄色から

ミモザ持ちポカホンタスが駈けて来る

どうぞお先に今日も一番ミモザの日

ケーキ屋の扉ミモザのリース光る

 私が選句したのは、つぎの七句。

岩木山腰をすへたる春田かな       盛夫

信州の小縣なる春田かな         幸雄

春田打ちはじむと母の便りあり      善兵衛

車窓からここもかしこも春田かな     耕一

女傘かりてミモザの花の中        盛夫

白き家の白き塀より花ミモザ       さえ

黄の房をぼぼぼぼっと花ミモザ      孝治

 私の結果は、<半分は耕されたる春田かな>を幸雄さん、耕一さん、盛夫さ んが、<やって来る春はミモザの黄色から>を真智子さんが採ってくれて、互 選4票、主宰の後選はゼロだった。

 宮川幸雄さんは季題研究で「ミモザの花」を選び、この日3月8日がちょう ど「ミモザの日」、国連が決めた「国際女性デー」に当たることを話してくれた。  1904(明治37)年3月8日にアメリカで女性労働者が婦人参政権を求めてデ モを起こしたことがきっかけで、1910(明治43)年にコペンハーゲンで行わ れた国際社会主義会議で「女性の政治的自由と平等のために戦う」日と提唱さ れたことから、同年「国際女性デー」と制定されたのだそうだ。 その後は戦 争などで一時中止されていたが、1960年代後半からの女性解放運動などで関心 が高まり、1975年には国連によって国際婦人年が制定され、女性の平等な社会 参加の機会を整備するよう加盟国に呼びかけている。

イタリアではこの日は、「FESTA DELLA DONNA(フェスタ・デラ・ドンナ =女性の日)」とされ、男性が日頃の感謝を込めて、母親や奥さん、会社の同僚 などにミモザを贈る。 このことから「ミモザの日」とも呼ばれるようになっ た。

日本では1890年代末頃から普通選挙権(身分・生別・教育・財産・納税な どを選挙権の制限的要件としない選挙)獲得運動が組織され、第一次大戦後の 民主主義思想の普及と労働者・農民運動の激化とに支えられて、1925(大正14) 年に男子の普通選挙が実現した。 幸雄さんは、日本の婦人参政権が、戦後1945 (昭和20)年12月の選挙法改正で初めて認められた、「授けられた」権利であ り、それは戦争の犠牲者のおかげなので、鎮魂の意味を込めて、100%投票に 行くべきだと、宮川幸雄さんは語ったのであった。

世間に受け入れられなくても、突破口はサービス精神2018/03/22 07:18

 (3)世間が受け入れてくれなかった時の知恵、突破口はサービス精神。 福 沢は明治15年3月『時事新報』を創刊したが、この新聞、なかなか受け入れ てもらえなかった。 あらゆるしがらみにとらわれず、自分の考えのままを主 張する「独立不羈」を掲げ、政府寄りと反政府寄りの間、中立の立場を取った。  インタビューで、これもおなじみ都倉武之慶應義塾福澤研究センター准教授登 場。 『時事新報』は独自のスタンスを打ち出す、政府が薩長出身者ばかりな のはどういうことか、自由民権運動家は個人の不平を言うために権利を振りか ざすな、と主張。 両方から批判された、「ほらを福沢、うそを諭ゥ吉、一向に 信用できぬ」と。 売薬の広告は大口スポンサーだったが、社説で売薬の効用 がないと書いて、広告撤退の大打撃を受ける。

 その突破口は、サービス精神だった。 明治21年から初の天気予報を掲載、 料理コーナー、歌舞伎役者の人気投票、スカイダイビングに『時事新報』の宣 伝ビラをまかせる、など。 当初の1500部が1万部、東京最大の新聞になっ た。 都倉さんは、政治の問題だけでなく、社会の問題、歌舞伎、相撲も論じ た、福沢は気軽に政治を扱えるのが、よりよく世の中を変えて行けると考えた、 と。 明治20年代、福沢は国民への啓蒙活動がうまくいっていないと、苛立 ちを募らせていた。 明治27年、日清戦争勃発、国家主義、社会主義が現れ る。 福沢の考え方は、置き去りになっていく。 著作を、できるだけ多くの 人に手を取ってもらいたい。 尾崎行雄に「猿にもわかるように書け」と言っ た。 『福翁自伝』の最後に「人は老しても無病なる限りはただ安閑としては 居られず、私も今の通りに健全なる間は身にかなうだけの力を尽くす積りです」 と書いて、明治34(1901)年67歳(満66歳)で亡くなった。

 小室さんは、「一定の政党とか、派閥とかに縛られない、中立で客観的にもの を見る新聞。 個人としての中立で客観的。 当時は二つの全体主義が盛んに なって来ていた、「国家主義」と「社会主義」。 どっちも、国家や社会がまず あってという考え方。 福沢がずっと唱えてきたのは、一人一人、まず「個人」 がある。 当時若い評論家は、福沢たちを「天保の老人」と呼んだが…。 福 沢はけして諦めず、フェミニズムの本を何度も出した。 女性の自立、男尊女 卑の否定は、彼の生涯の目標だった。 マイナス思考をしながらも、「最後の決 戦」をしている。」と語った。

『交詢社の百二十五年』2018/03/20 06:53

     等々力短信 第974号 2007(平成19)年4月25日

               『交詢社の百二十五年』

 執筆者の竹田行之さんから『交詢社の百二十五年―知識交換世務諮詢の系譜』 (交詢社刊・非売品)をいただいた。 交詢社には700頁を超す大冊『交詢社 百年史』があり、平成17(2005)年に創立125年を迎えた最近25年の『交詢 社現代史』もある。 今回のご本は、125年の歴史を通読できるように紙幅を 限りながら、最近の福沢研究の成果を取り入れ、交詢社の歴史像の再構築をめ ざしたものだという。 すこぶる面白く拝読したから、作者の意図は十二分に 達成されたと言えるだろう。

 第一に名文である。 「始造」「惑溺」といった福沢の用語がさりげなく使わ れている。 「始造」は創立準備の章の名に、「惑溺」は101頁の2行目に。  いろいろな時間に、銀座の裏通りのあちこちから、新交詢社ビルを見上げるこ とを、すすめている。 壁面ガラスの色は、設計チームによって穏かさの中に 強靭な意思を持つ「ジェントル・ウォームグレー」と名づけられたという。 福 沢諭吉が「西航手帳」に“Gentleman”の一語を書き込み、保守党と自由党の 議員が院外のクラブで歓談しているのを「サア分らない」と考えこんでから数 えて、ビル竣工の平成16年が141年、芝青松寺での発会式から124年、「思想 の核心が現代のかたちとして表現されたのだ」と、竹田さんは書く。

 第二に、歴史物語である。 とりわけ明治13年の発会から、北海道開拓使 官有物払下げ事件をへて、明治14年の政変にいたる、政府と交詢社の関係が まことに興味深い。 福沢が企図した知識交換世務諮詢(世の中の諸事を相談 する)「人知交通の一大機関」「知識集散の一中心」の交詢社は本来、伊藤博文 と井上毅(こわし)が恐怖するようなものではなかったのに、福沢諭吉という ひとりの人物がもつ思想の磁力と、そこに引き寄せられる人々への恐怖は肥大 化して、クーデターは断行される。 伊藤博文と大隈重信、井上毅と福沢諭吉、 欽定憲法路線と民約憲法路線、プロイセン型立憲体制とイギリス流立憲君主議 院内閣制の対立とその結末は、その後のこの国のかたちと歴史に大きな影響を 及ぼし、今日にいたっているのだ。 交詢社の存在は、大きかったのである。

 当初、地方にあっても有力なオピニオンと情報獲得の手段であった『交詢雑 誌』は、次第に、政変の結果福沢のもう一つの事業となった新聞『時事新報』 に取って代られるようになった。 福沢の歿後、交詢社は社交倶楽部として再 発足する。 福沢が「倶楽部」という語彙を使っていなかったという記述(49 頁)は新知識だった。

交詢社のはなし2018/03/19 07:13

 「交詢社私擬憲法」が出てきたので、福沢諭吉の三大事業の一つとして「慶 應義塾」「時事新報」とともに挙げられる「交詢社」について、以前書いたもの を今日明日で再録しておく。 「交詢社のはなし<小人閑居日記 2005.10.18. >」と「等々力短信 第974号 2007(平成19)年4月25日『交詢社の百二 十五年』」である。 なお、慶應義塾大学出版会のホームページの若い研究者た ちによる連載「ウェブでしか読めない福沢諭吉・慶應義塾」に、「近代日本の中 の交詢社」著者:住田孝太郎(首都大学東京大学院社会科学研究科政治学専攻博 士課程・1973年生れ)があり、下記から読める。 http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko.html

     交詢社のはなし<小人閑居日記 2005.10.18.>

 17日、入学以来45年の歳月が経った大学のクラス会を銀座の交詢社でやっ たので、思いついて「交詢社」に関するメモを作って配った。(それに若干加筆) 交詢社は「知識を交換し、世務を諮詢(しじゅん)する」をスローガンに福沢 諭吉の主唱により、明治13(1880)年1月25日に設立された日本最古の社交機 関。 「交詢社」の名はこの中の「交換」「諮詢」から付けられた。 世務…天 下、人の世のすべてのこと。 諮詢…問いはかること。相談。「諮」は諮問(意 見を尋ね求めること)の「諮」。 「社交」を推奨した福沢が、その一つとして 交詢社のような組織を考えたのには、幕末イギリスでクラブを見たことが影響 しているのだろう。

 明治13年といえば、時あたかも自由民権運動の最盛期で、福沢自身も『分 権論』『通俗民権論』『民情一新』『国会論』などの著書を矢継ぎ早に刊行してい た時だから、福沢が中心になって結社ができると聞くと、政党組織を結成する のではないかと、政府筋でも目を光らせ、世間にもそういう目で見る者もいた らしい。 政府の機密探偵が交詢社を注視していたことは、6.25.「等々力短信」 第952号『蝶の舌』に書いた。 交詢社の社員で塾員の矢野文雄と馬場辰猪が、 小幡篤次郎、中上川彦次郎、牛場卓蔵、小泉信吉(のぶきち)、阿部泰蔵、荘田 平五郎等と語らい、イギリス流の議院内閣制、皇室を政治の外に君臨させる「私 擬憲法案」を作り、明治14年4月『交詢雑誌』第45号で発表した。

 創設当初の社員(メンバー)は1800名ほど、官吏、学者、商業、農業が大部分 で、しかも過半数は地方在住、職業や学歴、居住の地域に偏らない、広く社会 で活躍する人材を網羅した組織だった(だから慶應義塾の卒業生だけのクラブ ではない)。 質疑応答を中心とした機関紙『交詢雑誌』の発行は、今日まで続 いている。 毎週金曜日には常例午餐会が開かれている。 現在も女性の会員 を認めていないのは、イギリスの紳士のクラブを倣(なら)ったためだろうか。

 明治13年設立当初、福沢の親友だった宇都宮三郎が煉瓦建の家屋を提供し、 その後増改築を重ねたあと、大正12(1923)年の関東大震災で焼失、敷地を拡張 して昭和4(1929)年に前の7階建のビルディングが建った。 その主要部分を 復元保存した現在の建物は昨2004年10月落成。 ロビーには、福沢諭吉、宇 都宮三郎、小幡篤次郎、鎌田栄吉、門野幾之進という交詢社の功労者の肖像画 が掲げられている。