江戸城城門撤去の時期 ― 2006/04/23 08:02
近所の図書館で探したら、川崎房五郎さんという方の書いた『文明開化東京』 (光風社出版・1984年)に「城門撤去と皇居炎上」という章があった。 江戸が 東京となって、まず大きな変化は、江戸城が皇居となったことを別として、外 郭の市中の城門が取り壊されていったことだった、という。 明治5年の8月 日比谷門そのほか21の市中の城門を撤去するという方針がきまり、明治6年3 月から大工事でこれらが壊されていった、とある。 浅草見附、四谷見附、牛 込見附、数寄屋橋御門、呉服橋御門などと呼ばれた城門がどんどん壊されて、 市内の景観は江戸から明治へと新しく変化していった、という。 浅田次郎さ んの「箱館証文」だが、『世界大百科事典』のいうように官庁が週の七曜を採用 したのが明治9年だとすると、それと市中城門の撤去を同時期に描いたのは、 物語を面白く展開するための脚色、いわば「ウソ」ということになる。
ここで、古い江戸城の写真が載った本を持っていたことを思い出した。 新 潮社とんぼの本、芳賀徹、岡部昌幸著『写真で見る江戸東京』だ。 明治4年 に明治政府の制度局御用掛、蜷川式胤(のりたね)が太政官に申し出て、横山松 三郎が撮影した『旧江戸城写真帖』というものがある(東京国立博物館蔵)。 そ の写真説明に、内曲輪(くるわ)諸門と外曲輪諸門の別があった。 内曲輪諸門 は、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常盤橋門、神田橋門、一ツ橋門、雉子 橋門、竹橋門、清水門、田安門、半蔵門、外桜田門、日比谷門、馬場先門、和 田倉門の15門。 外曲輪諸門は、浅草橋門、筋違橋門、小石川門、牛込門、 市ヶ谷門、四谷門、喰違門、赤坂門、虎ノ門、幸橋門、山下門、芝口門、浜御 殿大手門の13門があった。
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