柘榴坂界隈の今昔 ― 2006/04/26 07:52
柘榴坂というのは、品川駅から高輪方面に上がる坂で、左側が品川プリンス ホテル、右側がパシフィックメリディアン東京と、その先に新高輪プリンスホ テルがある間の坂である。 パシフィックと新高輪の間に、品川税務署がある。 会社を整理していた時、品川区の兄の家を事務所にしていたので、管轄が江戸 川から品川税務署に移り、清算結了まで何度か通った。
ベアトの撮った、侍が警戒している柘榴坂の写真が、新潮社とんぼの本『写 真で見る江戸東京』にある。 右側の薩摩藩島津家下屋敷が主で、現在はホテ ルパシフィック東京になっている、西郷隆盛と勝海舟の江戸城明け渡しのため の第一回会談場所として知られる、と説明にある。
福沢諭吉の出た豊前中津藩奥平家の上屋敷は、福沢が初めて江戸に出て来た 時に着いた木挽町汐留(今の汐留ビル群の銀座寄り郵便施設附近)、中屋敷は福 沢がのちに塾を開く築地鉄砲洲(今の聖路加国際病院の所)にあった。 それは 知っていたが下屋敷が、どこだったか知らなかった。 それが、この柘榴坂を 登りきったあたりにあったわけだ。 明治5年7月になって、奥平の殿様とそ の家族が上京し、三田の慶應義塾にしばらく住んだ後、二本榎に移ったという 話は聞いていた。 その二本榎というのは、この下屋敷の場所か、あるいは近 くの別の場所だったのだろうか。 柘榴坂から桜田通りに出た所が、今の都営 浅草線高輪台駅、私が二本榎の明治学院中学に通っていた頃は猿町という都電 の停留所だった。 脱線するが、柘榴坂から桜田通りに出る間に東京船員保険 病院(現、せんぽ東京高輪病院)があって、高校受験の願書を作る身体検査に行 った。 その4年後の昭和36(1961)年暮、高輪プリンスホテルでの巨人軍の優 勝祝賀会で倒れた古今亭志ん生が、担ぎ込まれたのも、この病院だった。 『福 澤諭吉書簡集』第一巻補注<ひと>の「奥平家の人々」を見たら、三田から移 ったのは明治8年春頃、二本榎というのは下屋敷のあった高輪の二本榎とあっ た。
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