「商」「町人」諭吉 ― 2007/03/07 07:07

1月29日に「安倍首相の福沢からの引用」、30日に「「成学即身実業の説」 を読む」を書いただけで、1月27日にあった福澤研究センターのセミナーのこ とが、そのままになっていた。 川崎勝南山大学経済学部教授の「福沢諭吉の 経営者観―福沢諭吉書簡を中心に―」という話だった。 その中で、一番印象 に残ったのは、明治5(1872)年という早い時点で、福沢が江戸時代以来引き ずっていた身分制度の、「士族」という身分を完全に捨て去っていて、民間人と して生きる決意とその立場を鮮明に表明していた、証拠の文書であった。 川 崎さんが配られた資料の中に、添付のコピーがあった。 明治5年11月、東 京府への塾・学校の届出、私学明細表にそれはある。 現物は浜松町にある東 京都公文書館にあるらしい。
福沢はみずからの身分を「東京府管下“商”」としており、別の一枚にはその 属性を「東京府“町人”」と書いているのだ。 小幡篤次郎は「東京府管下“商”」 だが、小幡甚三郎は「小倉縣“士族”」となっている。 福沢が慶應2年に出した『西洋事情』初編は15万部という空前のベストセ ラーになり、17,500両の収入があった(当時の老中の年間手当は1万両だった そうだ)。 この成功によって自信を得た福沢は、明治維新となるその年慶應4 (1868)年6月8日幕府に退身届を出す。 その前日、山口良蔵に送った手紙 に「此後は双刀を投棄し読書渡世の一小民と相成候積」という有名な文句があ る。 そして翌明治2年には、中津の藩庁に対しても従来もらっていた扶持米 を辞退する旨を申し出、すったもんだの末に、聞き届けられている。 そして 同年11月に「福沢屋諭吉」として書物仲間問屋組合に加入した。 商人、町 人となったのだ。
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