三つの憲法草案と常用漢字改定2010/07/03 06:43

一日史蹟見学会には小泉信三さんの次女妙さんが参加された。 訪ねた中に 小泉家はもちろん、阿部家、松本家など、ご親戚のお墓が多く、どこでも私は 一番最後にお参りしますから、皆様お先にとおっしゃっていた。 30日の日記 で、松本正夫さんのところで、私が資料のリストになかった父松本烝治さんの 名を加えておいたのは、以下の話を書きたいからだった。 松本烝治さんは、 小泉信三さんの姉千さんのご夫君、商法学者、法学博士、1945(昭和20)年 の幣原内閣に、憲法改正担当の国務大臣として入閣、憲法草案(松本試案)を つくった。 しかし、この案は保守的に過ぎるとして、GHQに容れられず、 政府はGHQでマッカーサーの指令の下に作成された新しい憲法草案をやむな く受け入れ、若干の字句の修正を経て、「日本国憲法」の成立を見た。

史蹟見学会で禅林寺の後、山本有三記念館に行ったが、山本有三は戦後、貴 族院勅選議員となり、国語国字問題に取り組み、持論の「ふりがな廃止論」を 展開、漢字を減らして平易に書くことを推進し、新憲法も山本有三案(口語化 草案)に沿って、書き直された。 国語審議会で山本有三は、委員長、常用漢 字主査として熱心に取り組んだ。 国語審議会は、文字改革の必要を検討、漢 字を制限する方向へ進み、昭和21(1946)年11月1850字の当用漢字が発表 された。 山本有三のこれを知ったのは、去年秋のNHK「知る楽」“歴史は眠 らない”、漢和辞典編集者、円満字二郎さんの「戦後日本 漢字事件簿」だった。

 福沢諭吉も漢字を制限する意見だった。 当用漢字は、漢字の数を福沢が『文 字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、ほぼ一致した。  だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想としたさらなる漢字の制 限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速したのが、1980年代に はじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「書く」ものでなく、漢字 変換で「出てくる」ものになったからだという。 6月7日に文化審議会が文 部科学大臣に答申した「改定常用漢字表」は、書けなくても出てくればいい字 が増えて、現行1945字から2136字になった。