『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』<等々力短信 第1017号 2010.11.25.> ― 2010/11/25 05:49
三遊亭歌笑の高座を見たことがある。 小学校に上がった昭和23(1948) 年前後のことだ。 武蔵小山の映画館・大映は、歌笑が来るというので超満員だ った。 入場にも時間がかかったのだろう、父母や兄と立見をしていて、小便 がしたくなった。 我慢していたのだが、身動きが取れない上に、歌笑があん まり可笑しいので、温かいものが足を伝って流れて行った。 「電気の球の切 れたのは、停電用にお使い下さい」とか、「我、若くしてトーダイを出たり、本 郷にあらずして三浦三崎なり。歌笑純情詩集より」なんてぇのを憶えて、得意 になってしゃべっていた。 昭和25(1950)年5月30日、その歌笑が銀座で ジープに轢かれて死んだ。 三遊亭歌笑、強烈な思い出として残った。
『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』(新潮社)を書いた岡本和明さんは昭和28(1953) 年生れ、“ナマの歌笑”を見ることができなかったのが、残念でならないという。 歌笑(三代目)、高水治男は大正5(1916)年に五日市で生れた。 大正6年 と書く本が多いそうで、亡くなったのは33歳、新聞の死亡記事は31歳になっ ている。 家は女工員が50人もいる製糸工場を経営する裕福な家だったが、 視力が極度に弱く、斜視で、出っ歯で、エラが張った奇妙な顔の治男は、疎外 され、いじめられて育つ。 母の乳の出が悪く、預けられた家に兄照政の同級 生ヒサがいて、母代わり姉代わりになり優しくしてくれたのだけは例外だった。 高等小学校を出て、家業の手伝いをしながら鬱々としていた。 ヒサや女工達 の前で、歌ったり落語をやったりして、味をしめた治男は、隣町秋川出身の金 語楼に入門しようと家出する。 二度目の家出で、金語楼に会えた治男は、死 んだ父を知っていた金語楼に、今は芝居をやっているからと柳橋を紹介される が、ここでも断わられる。 それを知った兄照政が、金語楼に会い、金馬を紹 介してもらって、入門を許される。 この兄が、いい。 治男は厳しい金馬に 度々破門されるのだが、その度に魚や酒を持って行ったり、金馬の好きな釣り に誘ったり、謝りに行く。
師匠の金馬は厳しいが、実は優しい人だった。 寄席でもいじめられ、親友 の小きん(小さん)、笑枝(痴楽)、弟弟子の金太郎(小南)、名人桂文楽だけが 味方で、あとは敵だった。 戦後の食糧難の世相に、妙な顔を逆手に、歌や、 大学ノート40冊に書き溜めた小噺や詩を、リズム感のある七五調で演ずる三 遊亭歌笑の芸は、底抜けの明るさとほのぼのとした温かさで、大ブレークした。 美人の奥さんももらった。
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