桃介と西園寺公望、「坐漁荘」2011/06/12 06:46

 今回の旅行の最後に、ひさしぶりに博物館「明治村」へ行った。 フランク・ ロイド・ライトの帝国ホテルでお茶を飲んで来た。 村内地図を見ると、西園 寺公望の別邸「坐漁荘」もあったのだが、寄る時間がなかった。

 西園寺公望の話が『桃介・独立のすすめ』に出てくる。 内閣総理大臣だっ た当時のことだ。 竹越與三郎、三叉(さんさ)という歴史家、評論家がいた。  桃介より三歳上、慶應義塾に学んで、『大阪公論』、『時事新報』、『国民新聞』の 記者をしていて西園寺公望に知られ、その信任を受け、日清戦争当時、西園寺 の後ろ楯で『世界之日本』という雑誌ができると主筆、第三次伊藤内閣(明治 31年)で西園寺が文部大臣になると文部省勅任参事官に任用され、明治35年以 降は衆議院議員に当選五回、政友会に所属していた。

 その竹越與三郎が、おなじ埼玉県人、慶應義塾ということで、桃介に好意を 寄せ、株で大成金になったときくと、大いに喜び、「ただ金があるというだけじ ゃつまらん。ここらで西園寺公に近づかせて、次の活躍にそなえさせてやろう」 と考えた。 西園寺公望内閣総理大臣、毛並みのよさに加えて、高雅な人格、 新知識の持主として早くから人望を集め、当代人気者の頂点にあった。 普通 の人間なら、紹介しようという竹越の言葉に、有頂天になるところだが、桃介 は「親切はありがたいが…」と断り、「君に口をきいてもらって近づきになると、 西園寺公は、桃介も竹越三叉とおなじくらいの人間だとしか見ないだろう。お れは自分の力で近づきになってみせるよ」と啖呵を切る。

 西園寺は、若い頃からプレーボーイとして鳴らした粋人だ。 桃介は新橋に 西園寺攻略の布陣を敷いた。 何しろ、株で儲けた二百五十万円という現ナマ がある。 お茶屋も一流、芸者も一流どころを五、六人呼んでも、一晩十五、 六円あればよかった。 西園寺が贔屓にしている芸者たちの名を調べ上げ、そ れをすべて買い切って、連夜の遊びを続けたのだ。 西園寺首相は、ときおり 新橋にやってくる。 ところが気に入りの芸者は一人も姿を見せない。 つま らなそうに帰ってゆく。 そんな失望の晩が半年も続いた。 当然、福沢桃介 という名が耳に入ってくる。

 桃介の才能は、タイミングのよさにある。 ここが汐時、という所を見逃さ ない。 料亭の女将から、西園寺が桃介のことを知りたがっていると、耳打ち されると、戦術を転換した。 芸者たちに西園寺からお座敷がかかったら、顔 を出すこと、ただし花代は自分につけろ、と指示した。

 西園寺は竹越三叉に相談し、桃介を招待した。 桃介は、内閣総理大臣の招 待に、少しもひるまず、わるびれず、床の間を背にした上座に座ってにこやか に応待した。 これが機縁になって、桃介は西園寺に気に入られ、興津にある 別邸「坐漁荘」にも自由に出入りできる知遇を受けた。

 小島直記さんは書く。 「桃介はその好意に甘えないだけの慎しみを心得て いる男だった。それは、自分自身の矜持のしるしである。西園寺の地位、とき めく花形ぶりの故に近づき、利用しようとはしなかった。あくまでも人間同志 のつきあいで通そうとした。対等に、である。」「彼は、西園寺が政界を引退し、 元老とよばれながらも悠々自適の閑日月を送るようになってからようやく、坐 漁荘をしばしば訪問し、土産と豊富な話題で慰めることにしたのである。」