「荒川」は人工の川だった ― 2012/03/05 03:09
落語国と北海道を旅していたが、ふたたび「ブラタモリ」に戻りたい。 11 月24日放送の「荒川」編には、びっくりした。 子供の頃から、江戸川区小 松川の「荒川」の土手下に、父のガラス工場があった。 小松川といっても、 小松川橋の手前、亀戸寄りの小松川高校のそばだった。 京葉道路はその先、 交通渋滞で有名だった小松川橋で、500メートルほどの「荒川」を渡る。 大 人になってからは、そのガラス工場に毎日通って、帳面をつけていて、工場を 畳んだ時は六十歳になっていた。 その「荒川」が人工の川だということを「ブ ラタモリ」でやった。 正直に言おう。 恥ずかしながら、知らなかった。 い かに能天気に、ボォーッと暮してきたかを、七十歳になって、目の前につきつ けられたようなものである。 私の七十年は、何だったのか。
そういえば、「荒川放水路」と言っていた。 江戸川区の地図を見て頂くと、 わかるのだが、区役所もある区の大部分は小松川橋の先にある。 総武線の平 井駅のあたりから、船堀橋の先にかけて、「旧中川」と「荒川」に挟まれた島の ような土地も、江東区ではなくて、なぜか江戸川区で、そこにわがガラス工場 も、小松川高校も、江戸川税務署も、かつては小松川警察もあった。
明治の末まで、関東の荒川と、その下流の隅田川、江戸と東京の下町は洪水 の常襲地帯であった。 その氾濫を防止するため、とくに1910(明治43)年の 大洪水が契機となり、「荒川放水路」が計画された。 翌1911 (明治44)年に着 工、完成したのは1930(昭和5)年だった。 北区志茂の岩淵から中川河口(東京 湾)へ延長24キロメートル、幅450~580メートルの人工の川を掘削、築造し た。 岩淵に水門を造って、放水路へ洪水量の全量を分流する。 洪水防止と 水運の役割も果たす。 完成後、下町の洪水は減少した。 1965(昭和40)年の河 川法改正で、「荒川放水路」は「荒川本流」となった。
「ブラタモリ」では、岩淵水門に昇り、「荒川放水路」の径路が氷河時代の「古 東京川」に重なることもやっていた。 徳川家の信仰もあった浄光寺という古 刹が、掘削されて川の中になる土地にあって、古くからの川を埋め立てた土地 に、移転させられていた。 他の道と方向が違う当時の参道や、旧河川に沿っ て曲がる道路が、残っていた。 それは小松川の工場周辺の様子を彷彿とさせ るものだった。 地図を探したら、浄光寺は青龍山薬王院・木下川薬師、葛飾 区東四つ木1-5-9にあった。
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