『平清盛』「汚い」ホコリの向うに ― 2012/05/18 03:02
大河ドラマ『平清盛』の評判が悪い。 視聴率も芳しくないようだ。 兵庫県 知事が「画面が汚い」と言ったと報道された影響も、大きかったのではないか。 「王家」(つまり皇室)・「摂関家」という聞き慣れない言葉を始め、清盛や崇徳 帝の出生の秘密もあって、人間関係がこみいっていて、物語がよくわからない こともあった。 デジタルテレビになって、細部が鮮明に出てしまうので、制 作側も苦労が多いのだろう。 そういえば『龍馬伝』も、けっこう汚かった。 最近は少し画面を明るくし、物語が難解な方も、人物名のテロップを入れたり、 冒頭で「あらすじ」風の回顧をしたりしている。
私も、何度か見るのをやめようかと思った。 史実とドラマが違うのは、百 も承知だが、辞書で人物や事件など歴史的事実を読むと、「汚い」ホコリの向う に、ぼんやりと見えて来るものがあるような気がした。 それで〔〕に演じて いる俳優を入れた。 今、ドラマは保元・平治の天下大乱へと進んでいる。
○白河天皇(1053~1129年)〔伊東四朗〕
平安後期の天皇。 後三条天皇の第一皇子。 在位1072~1086年。 摂関 家の勢力を抑え、堀河天皇へ譲位後、1086年院政を開始。 堀河・鳥羽・崇徳 の三代43年間政権を担当。 1096年出家して法皇となった。 仏事に熱心で 法勝寺などの造寺・造仏につとめたが、財政が窮迫したため、成功(じょうご う)・重任(ちょうにん)などの売位・売官が盛んに行われた。
○平忠盛(1096~1153年)〔中井貴一〕
平安末期の武将。 正盛の子。 清盛〔松山ケンイチ〕の父。 白河・鳥羽 両上皇に信頼され、1129(大治4)年山陽・南海二道の海賊を追捕し、35(保 延1)年再度西海の海賊(兎丸〔加藤浩次〕ら)を平らげ、累進して刑部卿に 進み内昇殿を許された。 また日宋貿易に尽力。
○藤原忠実(ただざね・1078~1162年)〔國村隼〕
平安末期の貴族。 師通の長男。 氏長者(うじのちょうじゃ)・関白・摂政。 長子忠通〔堀部圭亮〕と不和で、次子頼長〔山本耕史〕を偏愛した。 日記は 「殿歴」。 知足院殿。
○摂関家(せっかんけ)
摂政と関白に任ぜられる家柄。 古代・中世を通じて、藤原一族中の北家、 特に初代摂政の良房の子孫に限られ、鎌倉初期には近衛・九条・二条・一条・ 鷹司の五摂家に分かれた。 一家(いちのいえ)。 摂家。 執柄家。
○鳥羽天皇(1103~1156年)〔三上博史〕
平安末期の天皇。 堀河天皇の第一皇子。 在位1107~1123年。 退位後、 1129年白河上皇のあとを受けて崇徳・近衛・後白河天皇の三代にわたり院政を 行った。 その子崇徳上皇と仲が悪く、法皇(1141年出家)死後まもなく保元 の乱となる。 催馬楽、音律に精通、また深く仏教に帰依。
○待賢門院(1101~1145年)〔檀れい〕
鳥羽天皇の中宮。 藤原璋子(しょうし)。 権大納言公実(きんざね)の女 (むすめ)。 崇徳天皇・後白河天皇の母。 1118(元永1)年皇后となり、24 (天治1)年院号宣下。 北面の武士、佐藤義清(のりきよ)〔藤木直人〕が 23歳の時、出家して西行となったことに関わりがあるといわれる。
○美福門院(1117~1160年)〔松雪泰子〕
鳥羽天皇皇后、名は得子。 藤原長実の娘。 天皇譲位後に寵を得て皇子(近 衛天皇)を生み、皇后位につく。 崇徳天皇を譲位させて、わずか3歳の近衛 天皇を即位させ、近衛天皇没後は崇徳上皇皇子を退けて、後白河天皇〔松田翔 太〕を即位させるなど、保元の乱の原因をつくる。
○保元(ほうげん)の乱
皇位継承問題をめぐり崇徳上皇と後白河天皇の対立が激化し、一方摂関家で も、藤原忠実(ただざね)の子、忠通・頼長兄弟が摂関の地位をめぐって対立 していた。 崇徳上皇〔井浦新〕の子重仁(しげひと)親王即位の可能性が、 前年の後白河即位とその子守仁(もりひと)親王立太子によって潰えたこと、 近衛天皇死去に関しての呪詛嫌疑などにより、頼長が鳥羽法皇の信頼を失って 失脚したことが、乱の原因となった。 鳥羽法皇の死をきっかけとして1156 (保元元)年7月、上皇方は頼長・源為義〔小日向文世〕・源為朝・平忠正〔豊 原功補〕を、天皇方は近臣藤原通憲(みちなり・信西(しんぜい))〔阿部サダ ヲ〕を中心に忠通・源義朝〔玉木宏〕・平清盛を用いて戦い、天皇方が勝った。 上皇は讃岐に流され、頼長は戦死、為義・忠正は斬首された。 この内乱で皇 室・摂関家の内紛に武士が活躍し、武士の政界進出を促すことになった。 乱 への直接の参加を避けた忠実は厳罰を免れる。
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