「遊びをせんとや生まれけむ」と、その音楽 ― 2012/05/19 02:04
大河ドラマ『平清盛』を見て、耳に残っているのは、タイトルでも流れる「遊 びをせんとや生まれけむ」という歌である。 『梁塵秘抄』では、「戯れせんと や生まれけん、遊ぶ子供の声きけば、私が身さへこそ動(揺)がるれ。」と続く。 このドラマのテーマらしい、世の中を「面白う生きてやろう」という平清盛の 生き方にも共鳴する。 物語の冒頭、白河法皇の子と設定された平清盛を、産 んだ舞子〔吹石一恵〕という白拍子が歌い、祇園女御と二役だった〔松田聖子〕 が、最近の「後白河帝、誕生」の回で遊女や傀儡(くぐつ)のいた宿である美 濃青墓(あおはか、現在の大垣市内)の白拍子・乙前として歌った。 後白河 帝(のちの法皇)は、当の今様歌謡集『梁塵秘抄』の編著者である。 青墓は、 平治の乱で破れた源義朝が、その子朝長を殺した所でもある。
○祇園女御(ぎおんのにょうご)、白河法皇の寵妃。 生没年未詳。 『吾妻 鏡』は源仲宗の妻と伝えるが未詳。 祇園社脇の水汲み女であったといわれる が、白河法皇の寵愛を受け、東御方、白河殿と称された。 藤原公実の娘待賢 門院璋子を猶子とした。 女御宣旨は下らなかったが、1105(長治2)年祇園 社東南に阿弥陀堂を建て邸宅としたため祇園女御と称された。1111(天永2) 年仁和寺内に威徳寺を建立し、晩年はここに住んだ。 清盛を白河法皇の落胤 とする説もあるが、『仏舎利相承次第』は母を祇園女御の妹としている。(『日本 歴史大事典』野口孝子) 『平家物語』巻六では、白河法皇の寵愛を受け、の ち平忠盛に嫁した、とあるらしい。 平氏の官位の昇進にかかわったようで、 平清盛らを養子にしている、とする事典もある。
先日、何気なく総合テレビをつけたら「スタジオパーク」に、ピアニストの 舘野泉さん(75)が出ていた。 『平清盛』の、吉松隆作曲の音楽で流れるピ アノを弾いている人である。 「アイノラ抒情曲集」より「ロマンス」などだ。 十年ほど前に、ご病気で右半身がご不自由になった。 左手で弾く。 シカゴ 在住の息子さんがピアノの上に置いておいてくれた、左手用の曲の楽譜を見て、 一瞬、啓示に打たれた(別の言葉だったかも知れぬが)ようになった。 以来、 左手で弾く。 吉松隆さんは、その舘野泉さんのために、何曲か左手用の曲を 作曲したという。 舘野さんは今も練習で、一日に2~5時間は弾くという、 でも「勉強」は10時まで、焼酎を楽しむらしい。 奥さんはフィンランドの 方でフィンランドにいらっしゃる、フィンランドのいい所は静かで、寂しいと ころだという。 フィンランドでは、焼酎でなくウオトカ。
『三田評論』4月号に、吉松隆さんのインタビューがあった。 吉松さんは、 特選塾員、高校受験の最中にクラシック音楽と出会い、オーケストラがあると いうだけの理由で選んだ慶應義塾高校を経て1971年工学部に入り、在学中か ら作曲活動を始めた。 高校1、2年のとき、シベリウスとフィンランドに関 心を持ち、その頃、フィンランドに留学して帰って来た日本人のピアニストが いると知り、どういう人なんだろうと聴きに行ったのが出会いで、舘野泉さん のファンになった。 2003年に舘野さんが「左手のピアニスト」になられて以 降は、ずいぶん沢山の曲を献呈しているという。 ファンでありながら、舘野 泉さんもまた、慶應高校出身の特選塾員であることを知らなかった、とある。
最近のコメント