福沢の生活と家族論・女性論2014/01/16 06:32

 林望さんの講演「福澤諭吉の志と勇気」の続き。 明治8(1875)年に商法 講習所の教師として来日したウイリアム・ホイットニーの令嬢クララの『勝海 舟の嫁 クララの明治日記』(中公文庫)に、三田の福沢邸を富田さんの奥さん と訪れた話が出てくる。 妻や子供を大事にする42歳の福沢の家庭生活が描 かれて興味深く、お嬢さんがハープ(琴)を弾いたとか、なぜか風呂を使いな さいと三度言われたとかある。  

長男一太郎の『女大学評論』の序文には、「これは『学問のすゝめ』とともに 塾生必読の書だ」とし、男女共学や結婚が男女両性の合意によるなどは、福沢 家では当り前のことで「知れ切ったこと」だったとある。 『女大学評論』は、 貝原益軒著(といわれる)『女大学』を絨毯爆撃的に完膚なきまでに批判した本 で、読むと、よく言ってくれたと踊り出したくなる。 自分は解説をつけ、講 談社学術文庫(『福沢諭吉 女大学評論・新女大学』)で出したほどだ。

福沢の父、百助は下級武士だったが真面目な人で、京都堀川の儒者伊藤仁斎 を尊敬していた。 仁斎は元禄以前に、古義堂で民主的なスタイル(ゼミナー ルのような)で学術を教えた。 幼い時に亡くしたその父の遺風と、母の感化 力が福沢を育てた。 原体験、原風景だった。 福沢にとって、母は絶対の存 在、気丈で清純、独立自尊を絵に描いたような母上、尊ぶべく、敬うべき人で あった。 その母のおかげで人となった、福沢の肝魂の底に染みついた観念は、 一貫して男女平等を唱えさせた。

明治3(1870)年の『中津留別の書』に、「人倫の大本(たいほん)は夫婦な り」とある。 この時代に、そう言うことが、どれだけ大変なことだったか。  明治政府は忠孝を唱導した。 そこへ、君臣の忠義より、家庭が大事だと言う。  人間は夫婦から生まれてくる。 夫婦の次に、親子がある。 明治18(1885) 年の『日本婦人論』では、その順序を間違えるな、と説いた。 明治9年の『男 女交際論』では、なぜ男女共学がいけないのか、心がねじ曲がっているから、 弊害をいうのだ。 情交(情けをもって交わる)と、肉交の違いがわからない。  一太郎宛書簡(明治19(1886)年5月2日)には、自宅に婦人の客50人ばか り招き立食パーティー(日本での起源)をしたとある。 取り持ちは内の娘た ちと、ほかに社友中のバッチェロル(男子学生、卒業生)8、9名を頼みとあり、 男がサービスをした。 男女交際のごく早い時期での開明的な実践だ。(つづく)