構想と現実の乖離、福沢の「無限の苦痛」 ― 2024/11/06 07:06
日本国憲法と福沢諭吉の問題だが、4日にNHK「人権の時間」と、『帝室論』にふれただけだった。 福沢は『福翁自伝』の最後に、「私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快なことばかり」と書いたけれど、慶應義塾が150年を迎えた2008(平成20)年頃の福沢研究の動向は、実はそうではないというものだった。 たとえば、2004年11月松崎欣一さんの「『福澤全集緒言』を読む―晩年の福澤諭吉」読書会で、こんな話を聞いたのだった。
2004年11月松崎欣一さんの「『福澤全集緒言』を読む―晩年の福澤諭吉」読書会。 福沢の最初の『全集』は明治31(1898)年1月から5月まで毎月一冊全5巻、時事新報社から刊行された。 福沢は数え年65歳、その年の9月に最初の脳溢血を発症する、その死の3年前のことであるから、あとから考えるとまったく絶妙のタイミングであった。 福沢最初の出版物、万延元(1860)年刊の『華英通語』から、明治26(1893)年刊行の『実業論』まで、全46著作が収録されている。 松崎欣一さんは、晩年の福沢が、自らの長年の著作について、見る人は多くとも、真に読み、理解する人は少ないという実感を持っていたことが、『全集』編纂の原動力となったのではないかと、指摘する。 文明の進歩発達とは、単に有形の制度や物質にとどまらず、無形のもの、すなわち国民全体の智徳の進歩が伴わなければならないという、文明の主義を説く福沢の年来の主張が、必ずしも世間に浸透していない、またその真意が十分理解されていないという思いが、主張の原点に立ち返って新たな著作『福翁百話』『福翁自伝』などを生み出し、さらにはこれまでの著述活動を改めて振り返ろうという『全集』編纂『全集緒言』執筆へと、福沢を突き動かしたというのである。
『全集緒言』と『自伝』の完成は、福沢が生涯をかけて、とりわけその前半生において追求し発見した、西洋文明のかたちと精神を兼ね備えることのなかに日本の近代化を達成するという課題が、現実にどこまで実現しているのかを、検証することになった。 そしてそのことは、結局のところ文明の精神を置き去りにして、かたちだけの文明開化に終始している日本の社会の現実を見ないわけには行かなかったのである。 みずからの描いた筋書(理想)と現実との乖離に対する福沢の「無限の苦痛」が、『全集』『緒言』『自伝』を生んだ。 『自伝』と『緒言』が、福沢の前半生に大きな比重をおいているのは、自らが掲げた維新変革期の理想の原理に、改めて立ち帰ることの必要を認識したからではないか、と松崎さんはいうのだ。 福沢は今、真に読まれ、理解されているだろうか。
2008(平成20)年、慶應義塾創立150年に思う ― 2024/11/07 07:10
2008(平成20)年は、慶應義塾創立150年の年で、11月8日には日吉で記念式典が挙行され、『慶應義塾史事典』が刊行された。 2009(平成21)年1月からは、「慶應義塾創立150年記念 未来をひらく 福澤諭吉」展が、東京国立博物館、福岡市美術館、大阪市立美術館で開催され、2010(平成22)年には、『福澤諭吉事典』が刊行された。
2008(平成20)年9月、私は「等々力短信」に、こんなことを書いていた。
等々力短信 第991号 2008(平成20)年9月25日
慶應義塾150年に思う
安政5(1858)年の10月中旬、福沢諭吉によって築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で創立された慶應義塾は、今年150年を迎え、11月8日には記念式典が挙行される。 いま日本は、福沢たちが直面した幕末維新、そして第二次大戦の敗戦後に続く、第三の転機にあるといわれている。 日本の将来を、どのように構想していくのか。
今年5月30日福澤研究センター開設25年記念講演会で、寺崎修さん(武蔵野大学学長、3月まで慶應法学部教授・福澤研究センター副所長)の「福沢諭吉の近代化構想」を聴いた。 福沢の思い描いたイギリスモデルの議院内閣制は、戦後の日本国憲法まで待たねばならなかったし、政権交代を伴う二大政党制はようやく可能性が出て来たところ、財政的裏づけのある地方分権に至っては未だに入口の議論が続いている。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山ある、と寺崎さんは指摘した。
昨年10月の「等々力短信」第980号「爆笑問題×慶應義塾」に、最先端の研究を進めている8人の教授陣、各分野の専門家が知恵を出して、未来を開く可能性を見た、そうだ、慶應義塾は総合大学だった、と書いた。 4月のこれも「爆問学問」の番組で、編集工学研究所長・松岡正剛さんの「編集」の意味を知った。 それぞれの知には、独自の物の見方や考え方がある。 20世紀までに、ほぼ出尽くした、それらの知を縦横に組み合わせた時、新たなアプローチが生まれるはずだ。 それを「編集」と呼ぶ。
8月、高校時代からの友人で、科学技術・生存システム研究所を主宰している神出瑞穂君と話をしていて、「全体とは部分の総和以上のものである」という「全体システム思考」の考え方を教わった。 人口、環境、資源・エネルギーなどの複雑な問題に、専門特化した学問分野の個々では対処できない。 諸科学を動員して総合的に対応する、システム化、知の構造化によって、問題解決にあたる必要性が叫ばれているという。
「未来への先導」を記念事業のテーマに、創立150年を迎えた慶應義塾は、総合大学として、各学部の総力を結集し、衆知を集めて、当面する日本の課題について、具体的な提言をしていったらどうだろうか。 「福沢諭吉の近代化構想」の実現されていない部分、「独立心」を持った国民が自発的内発的な主権者となる民主主義、官尊民卑の打破、国民精神の高尚化と民心の安定などを、現代に合わせて、どう実現させていくのか。 20年後、30年後の「この国のかたち」を、どんなものにしていくのか、を。
寺崎修さんの「福沢諭吉の近代化構想」 ― 2024/11/08 06:53
その2008年、5月30日に福澤研究センター開設25年記念講演会があり、寺崎修さんの「福沢諭吉の近代化構想」、松浦寿輝(ひさき)さんの「福澤諭吉のアレゴリー的思考」を聴いた。 それを、この日記の下記に書いていた。 それぞれ興味深いのだが、今回の話の流れから、寺崎修さんのものを再録しておく。
「福沢諭吉の近代化構想」その一<小人閑居日記 2008.6.6.>
「福沢諭吉の近代化構想」その二<小人閑居日記 2008.6.7.>
日本近代の基本線を一気に引いた福沢<小人閑居日記 2008.6.8.>
福沢文章のすごみ、比喩の面白さ<小人閑居日記 2008.6.9.>
ナンセンス的な面白さ<小人閑居日記 2008.6.10.>
いわゆる「楠公権助論」<小人閑居日記 2008.6.11.>
「福沢諭吉の近代化構想」その一<小人閑居日記 2008.6.6.>
落語研究会の翌日、5月30日は福澤研究センター開設25年記念講演会を三田の北館ホールへ聴きに行った。 午後2時から6時まで、充実した三講演が聴けた。 最初は寺崎修さん(武蔵野大学学長、3月まで慶應法学部教授・福澤研究センター副所長)の「福沢諭吉の近代化構想」。 福沢の思い描いた近代化日本を、天皇制・議会・内閣・地方制度を中心にまとめてくれて、たいへん有益だった。
○天皇制…福沢は明治15年の『帝室論』で「帝室は政治社外のものなり」と、帝室を政争の具に使うなと説き、帝室の役割を人の勧賞、学術技芸の奨励、伝統文化の保存、社会福祉など、国民の人心を統合(収攬)する中心だとした。 それは戦後の新憲法の象徴天皇制とほとんど同じ考え方だった。
○議会…自由民権運動に対して、最初福沢は協力的だったが、明治10年以降、運動の過激化に違和感を持ち、いきなり国会を開くのでなく、まずは地方民会の充実と地方分権の確立をして、その代表が中央首府の大会議に出るべきだと説いた。(明治11年『通俗民権論』)
福沢の転換は早い。 明治11年9月愛国社という全国組織が再興され、自由民権運動が拡大すると、福沢はもはや理屈ではない、早晩政府は国会を開かざるを得ない状況に直面するだろうと判断、もっぱら国会を開けという議論を展開するようになる。(明治11年『通俗国権論二編』)
「福沢諭吉の近代化構想」その二<小人閑居日記 2008.6.7.>
○内閣…政府の変革を好むのは世界普通の人情だとして、世論の不満を解消する三、四年での政権交代が国の安定を維持すると、イギリスモデルの議院内閣制を説いた。(明治12年『民情一新』)
最先端の自由民権運動の主張(例えば植木枝盛「日本国国憲案」明治14年)は、人民直選の議会に立法の権があるとしたが、行政権は日本皇帝にあるとし、行政権に無関心だった。 政治論の中身は福沢の方がラディカルで、明治政府にとってきつい側面があり、井上毅(こわし)など一部官僚はそれに気付いて警戒を強めた。
○地方分権…明治10年の西南戦争後、福沢は『分権論』を書き、「政権」-外交、軍事、徴税、貨幣発行など中央政府の権限(これは徹底的に中央集権化)、「治権」-道路、警察、交通、学校、病院など一般の人民の周辺に存する権限、この二つを峻別して、地方に出来ることは地方に、と説いた。 100年以上経った現在、まだ議論中なのは情けない。 福沢はまた、地方への「分権」の議論があれば、「分財」の議論も無ければならないと、権限の委譲にはその財政的な裏づけが必要なことにも言及している。
こうした福沢の「近代化構想」が説かれたのが、まだ太政官制度の時代だったのは、驚くべきことだ。 当時の政治情勢を批判する過程で、こうした構想を示したのである。 これらはすべて、福沢の生前にはまったく実現されなかった。 福沢は日英同盟の必要も説いたが、その実現も生前ではない。 イギリスモデルの議院内閣制は、明治の天皇主権の帝国憲法下では実現せず、戦後の日本国憲法まで待たねばならなかった。 だが、二大政党制はようやく可能性が出て来たところだし、地方分権に至っては先に見たように未だに入口の議論が続いている状態だ。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山ある、と寺崎修さんは指摘した。
「福沢の近代化構想は実現したか」 ― 2024/11/09 07:06
渡辺憲司立教新座高校長の「贈る言葉」<小人閑居日記 2012.3.9.>
「18歳の君たちへ 東北の海を 感じに行こう」<小人閑居日記 2012.3.10.>
漱石が『坊っちゃん』を書いた理由<小人閑居日記 2012.3.11.>
『坊っちゃん』の文明批評<小人閑居日記 2012.3.12.>
漱石は現代日本を書いた<小人閑居日記 2012.3.13.>
福沢の近代化構想は実現したか(1)<小人閑居日記 2012.3.14.>
福沢の近代化構想は実現したか(2)<小人閑居日記 2012.3.15.>
福沢の近代化構想は実現したか(3)<小人閑居日記 2012.3.16.>
辻井喬さんの「日本人のゆくえ」<小人閑居日記 2012.3.17.>
辻井喬さんの「民主主義の実体化」<小人閑居日記 2012.3.18.>
福沢の近代化構想は実現したか(1)<小人閑居日記 2012.3.14.>
三日間にわたって、半藤一利さんの講演「夏目漱石『坊っちゃん』を読む」をご紹介したのは、それが福沢諭吉と関連するからでもあった。 福沢が幕末から明治初期に構想した日本の近代化は、本当に実現したのだろうか、という問題である。 近年の福沢研究は、否定的な見方をしている。 この日記にも、そのいくつかを書いてきた。 三日をかけて、ざっと復習しておく。
松崎欣一さんの見解を、私はずばり「福沢の筋書(理想)と現実との乖離<小人閑居日記 2004.11.30.>」と題した。 みずからの描いた筋書(理想)と現実との乖離に対する福沢の「無限の苦痛」が、存命中に自ら編み刊行した『福沢全集』全五巻、『全集緒言』、『福翁自伝』を生んだ。 『自伝』と『緒言』が、福沢の前半生に大きな比重をおいているのは、自らが掲げた維新変革期の理想の原理に、改めて立ち帰ることの必要を認識したからではないか、と松崎さんはいうのだ。
「時の政府は、徹底した中央集権のもとでの制度変革に重点をおき、国民を支配される者と位置づけ、旧精神の温存と再編をはかろうとしたのに対し、福沢は、その根底に個人の精神革命を軸に時代の精神そのものの変革をすえた。両者は思想レベルで鋭い対立をはらんでいた。/両者のこうした緊張関係が、いかなる憲法をもつべきかという緊迫した状況のもとであらわになったものが明治十四年政変であった。」」(正田庄次郎「『文明論之概略』の日本近代化構想」<小人閑居日記 2011.11.14.>)
「初めのうちは『学問のすゝめ』が何百万部出たかわかりませんが、海賊版まで出た。それが彼の収入そのものだったわけですけど、明治十三年に、政府が統制に切り替え、福沢の著作がすべて教科書として使用禁止とされてからは全然売れなくなった。そうしますとたちまち財政難に陥って、ほうぼう福沢は金策に走り回ったりする。しかし福沢は決して「私立」の原則を崩さなかった。」(朝日文庫『瘠我慢の精神』藤田省三「『瘠我慢の説』を読む」) 明治14年の政変以前から、福沢に対するこういう圧迫は始まっていた訳で、さらに政変が決定的な追い討ちとなった。 政変は門下生たちの境遇にも大きな影響を与えたから、平気を装ってはいたが、福沢の受けた衝撃の大きさとその苦悩はかなりのものであったろう。(「福沢の著作、すべて教科書に使用禁止」<小人閑居日記 2009.1.2.>)
福沢の近代化構想は実現したか(2)<小人閑居日記 2012.3.15.>
寺崎修さん(武蔵野大学学長)は、福沢の思い描いた近代化日本を、天皇制・議会・内閣・地方制度について検討した。 天皇制…明治15年の『帝室論』は、新憲法の象徴天皇制とほとんど同じ考え方だった。 議会…福沢は過激な自由民権運動には同調せず、まずは地方民会の充実と地方分権の確立を唱えていたが、明治11年9月愛国社という全国組織が再興され、自由民権運動が拡大すると、もっぱら国会を開けという議論を展開する。 内閣…政府の変革を好むのは世界普通の人情だとして、世論の不満を解消する三、四年での政権交代が国の安定を維持すると、イギリスモデルの議院内閣制を説いた。(明治12年『民情一新』) 地方分権…明治10年の西南戦争後、福沢は『分権論』を書き、「政権」-外交、軍事、徴税、貨幣発行など中央政府の権限(これは徹底的に中央集権化)、「治権」-道路、警察、交通、学校、病院など一般の人民の周辺に存する権限、この二つを峻別して、地方に出来ることは地方に、と説いた。
こうした福沢の「近代化構想」が説かれたのが、まだ太政官制度の時代だったのは、驚くべきことだ。 当時の政治情勢を批判する過程で、こうした構想を示したのである。 これらはすべて、福沢の生前にはまったく実現されなかった。 福沢は日英同盟の必要も説いたが、その実現も生前ではない。 イギリスモデルの議院内閣制は、明治の天皇主権の帝国憲法下では実現せず、象徴天皇制と同じ『帝室論』の考え方とともに、戦後の日本国憲法まで待たねばならなかった。 だが、二大政党制はようやく可能性が出て来たところだし、地方分権に至っては未だに入口の議論が続いている状態だ。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山ある、と寺崎修さんは指摘した。(「福沢諭吉の近代化構想」その一・その二<小人閑居日記 2008.6.6.-7.>)
官尊民卑、男尊女卑も、福沢が一貫して攻撃した対象だった。 官尊民卑については、その教育面のそれを寺崎修さんが、2011年の福澤先生誕生記念会で講演している。 慶應義塾に対する文部省の圧迫政策は、明治14年の政変以前、すでに明治12年頃から始まっており、政変後に激しくなったと言える。 福沢は私立学校への圧迫がだんだんひどくなっていることを指摘し、官立学校は全廃しても差し支えない、全廃できない場合は私学並みの授業料を取れという官立学校の“民営化”を提案している。(「福澤諭吉の提言」(2)官尊民卑の教育政策<小人閑居日記 2011.1.15.>)
2009年2月7日、東京国立博物館「未来をひらく 福澤諭吉展」の記念講演会で米山光儀(みつのり)福澤研究センター所長は「同床異夢の教育―福澤諭吉と近代日本の教育」と題し、福沢の構想が、明治政府の近代学校制度によって実現したかどうかを検討し、福沢の教育政策批判を取り上げた。 福沢は明治12年の『福澤文集二編』「小学教育の事」で、8年制の小学校など実際に学ぶ人はいない、せいぜい1年、国民の経済力に対応した教育制度をつくるべきだと、漸進主義の考えを述べた。 明治14年の政変以後、教育政策が知育から徳育へと転換したのに対しては、福沢は明治15年の『徳育如何』で、その儒教主義を批判した。 (教育政策についての福沢の批判<小人閑居日記 2009.2.12.>)
女性論・家族論でも、最近『福澤諭吉と女性』(慶應義塾大学出版会)を上梓した西澤直子福澤研究センター教授は、次のような見解だ。 福沢はその近代化構想「文明流」対「儒教主義の旧道徳」の一端として、女性論では「新女大学主義」対「女大学風の教育」として展開した。 「女大学」(当時は貝原益軒作とされていた「女大学」的規範)は、福沢が構想する日本の近代化とは相容れない存在として強く認識されていた。 明治10年代半ば以降「儒教主義の旧道徳」が示した「女大学」風の“新しい”女性像では、日常的な家庭生活自体(夫への内助・子育てなど)が国を担う女性の役割として位置づけられ、女性と国家とのかかわりが明らかになった。 それは日清、日露の戦争を経て、特に顕著になり、国民総動員体制へと向ったのだった。 福沢の女性論・家族論は、「最後の決戦」に敗れたのだ、と言う。(「福沢の女性論・家族論は「最後の決戦」に勝ったか」<小人閑居日記 2005.11.12.>)
福沢の近代化構想は実現したか(3)<小人閑居日記 2012.3.16.>
松浦寿輝さんは、2008年12月6日の福澤諭吉協会土曜セミナー、「福澤諭吉と「智徳の進歩」」で、つぎのような話をした。
福沢は明治8年『文明論之概略』で、智徳の進歩を主張し、聡明な相対主義を表明した。 しかし、この福沢の主張は、よい方には受け継がれなかったのではないか。 大きな啓蒙的なビジョンよりも、小さな意味での専門化、狭いスペシャライゼーションが生れた。 論壇はイデオロギー化し、福沢の文明史観は、レトリカルに一人歩きして、社会的に利用される。 福沢の思想は、妙な形で捻じ曲げられ、変質劣化して、やせ細った形にされてしまった。 それが超国家主義や国民総動員につながる近代日本の悲劇を準備したのではないか、と松浦寿輝さんは言う。
明治14年の政変が転機となって、啓蒙思想の現政権からの排斥が始まった。 明治22(1889)年大日本帝国憲法発布によって、立憲君主制の国家体制が確立し、明治国家の基礎が据えられた。 井上毅(こわし)と元田永孚(ながざね)が協議を重ねてつくったたった350字のテクストだが、明治23年の教育勅語の発布は、呪縛力の強い言説空間をつくり出し、その演じた役割は大きい。 天皇制イデオロギー的支配は、子供の心に入り込んだ。(福沢の思想が劣化して、悲劇は準備された<小人閑居日記 2008.12.13.>)
つぎは坂野(ばんの)潤治東京大学名誉教授の「幕末・維新史における議会と憲法―交詢社私擬憲法の位置づけのために―」(2006年12月9日福澤諭吉協会の第100回土曜セミナー)から。 廃藩置県で各藩の「財権」と「兵権」が中央政府に吸収された時に、「憲法」の必要性にいち早く気づいた木戸孝允は岩倉使節団で、欧米各国の「憲法」に焦点を定めて視察してきた。 そしてドイツ憲法を模範にすることを決めた。 坂野さんは、戊辰戦争で名を馳せた、いわば武闘派の板垣退助には「民選議院設立建白書」など書けない、それは幕末議会論と自由民権論の連続性を示す、とする。 憲法論抜きの幕末議会論が板垣退助らの愛国社に受け継がれ、木戸孝允のドイツ型憲法が明治14(1881)年4月の「交詢社私擬憲法」(イギリス型議院内閣制←馬場注記)の画期性と孤立性をもたらした。 それは幕末以来初めての、「憲法論」と「議会論」の結合だったのである。 それがいわば「議会論」抜きの「憲法論」(井上毅)と、「憲法論」抜きの「議会論」(板垣退助)の挟み撃ちに合った時、明治14年の政変が起こった、と坂野さんはいう。(「交詢社私擬憲法」の画期性と孤立性<小人閑居日記 2006.12.25.>)
こう見て来ると、浮かび上がって来るのは、明治14年の政変が、大きな転換点になって、そこでの福沢の近代化構想の挫折に始まり、『三四郎』の先生の「この国は亡びるね」という予言が、太平洋戦争の敗戦で実現してしまう流れである。
福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館「近代日本の格闘そのもの」 ― 2024/11/10 07:56
「福沢の近代化構想は実現したか」、その挫折の物語は、2021(令和3)年7月に開館した「福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館」のコンセプトとなった。 私は2022年5月11日に、コロナ禍で久しぶりに行われた福沢諭吉協会の一日史蹟見学会で見学、都倉武之副館長の講演を聴いた。 都倉さんは、ミュージアムの構想と計画が何度も挫折していたことも語った後で、こんな話をした。 私は、それを慶應野球と福沢諭吉<等々力短信 第1155号 2022(令和4).5.25.>に、こう書いていた。
5月11日、ひさしぶりに福澤諭吉協会の一日史蹟見学会があった。 時節柄一日ではなく半日で、「慶應義塾展示館を見る」。 まず演説館で、展示館の開設を準備し、副館長を務める都倉武之さんの話を聴いた。 福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館は、赤レンガの旧図書館の二階にあり、無料で一般公開されている(月~土 10時~18時)。
約150点の資料を展示する常設展示室(私の頃の大閲覧室)では、慶應義塾史=「近代日本の格闘そのもの」というコンセプトで、展示した。 福沢を語ることは、近代日本を語るということだ。 福沢の成功物語、完成した偉人伝として描くのではない。 格闘者、挫折者としての福沢、文字だけでなく、行動と激励の人だった福沢の不成功物語として描こうとした。 福沢の主張は結局かなりの部分、未完成で、まだまだほとんど実現していない。 現在進行形だから価値があり、その歴史が示す多くの未解決の課題を提示し、なぜ受け入れられなかったのか、なぜ実現しないかを来場者に考えてもらいたい。 福沢、慶應が本来秘めている激しい反骨精神を内外に意識づけたい、と言う。
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