小林一三は、三田の山から“初めて”海を見たのか? ― 2025/01/28 07:02
阪田寛夫さんに『わが小林一三 清く正しく美しく』(河出書房新社・1983(昭和58)年)という本がある。 本棚の下積みから、ようやく引っ張り出した。 プロローグとエピローグを挟んで全10景の構成で、1景の「甲州韮崎」につづく、2景が「海を見た日」である。
「三田通りで人力車を降りて、正門を見上げながら坂をのぼり、義塾の高台に立って、生れて初めて海を見たのであるが、其時、どういうわけか、海は真白く、恰(あたか)も白木綿を敷いたやうに鈍い色で、寒い日であったことを記憶してゐる。」 『逸翁自叙伝』第一章「初めて海を見た日」の書き出しだ。 「それは今から六十五年前、十六歳の春、明治二十一年二月十三日である」。 「十六」は数え年で、小林一三はこの時満十五歳になったばかりだった。 1景「甲州韮崎」の初めに、「明治六年(一八七三年)の一月三日に生れたので一三と名付けられたこの小説の主人公が、山梨県韮崎の生家で両親と一緒に過ごせたのは生後八ヵ月の間だけであった。彼の生涯を強く支配した事実の一つだ。」とあって、「満十五歳」と、「一三」の名の由来、これが「小説」だということが、判る。
『自叙伝』より5年早く書かれた随筆に、明治21年の日記が見つかったという一節があり、「二十一年一月十三日東上、二月“四日”三田慶應義塾入学、益田先生方に寄宿」と書き写している。 これだと正月過ぎに東京に出て、2月はじめまで20日余りぶらぶらしていた計算になる。 昭和27年出版の著書『私の人生観』では、もう少し詳しく、正月に東京に着くと神田明神下の親戚方に落着き、それから慶應に入学する迄「十日間余り」の間に、ジンタの音にひかれて三日か四日続けて、浅草に出かけた。 上京して間なしだから懐も豊かで、写真屋の客引きにひっぱりこまれて「硝子版の写真」をとり、テント張りやむしろ張りの見世物小屋で、ジンタの楽隊の「プカプカドンドン」に聞き入りながら、低い桟敷のむしろに坐って「独りシクシクと泣いていた」という。
阪田寛夫さんは、自叙伝冒頭の慶應入学の日に三田の高台から「生れて初めて」海を見たというくだりに、疑問をいだく。 難癖をつけるようだがとして、当時山梨県韮崎から東京に出るのに便利なのは、鰍沢まで南下して富士川を舟で静岡県岩淵へ下り、東海道線に乗って新橋に向う方法であった。 この経路なら夜中か悪天候でない限り汽車の窓から海が見えた筈だ。 自叙伝の別の箇所に、岩淵駅ではいつも駅前旅館の十五銭の昼飯に「名物として甲州人の待ちこがれていた鮪のさしみが食べられるので嬉しかった」と、書いてある。
「――にも拘らず、自叙伝の著者小林一三は、慶應義塾に入ったその日に、三田の高台に立って「生れて初めて」海を見たかったのだ。しかも、それが輝く海でも、青い海でもなくて、白木綿を救いたような鈍い色だったというのが面白い。これが一三の文学上の好みらしい。」
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