誤解し合い 詰んだ日米外交、幣原喜重郎と松岡洋右 ― 2025/08/27 07:03
「百年 未来への歴史」「米国という振り子」の続き(田島知樹記者、ワシントン=中井大助記者)。 開戦前、米国は日本の暗号化された電報を解読し、政府内のやり取りが詳細にわかっていた。 その内容はグルーと共有されておらず、ワシントン側の方が情報を多く持っていた。 ただ、少なくとも日本の行動については、現地に長く住み、国の内情をよく知るグルーの分析の方が正しかった。
グルーの行動を検証した『Our Man in Tokyo』を2022年に出版した著述家のスティーブ・ケンパー氏は「日本は米国を誤解し、米国は日本を誤解した。グルーは両国の通訳になろうとしたが、通訳が伝わらず悲劇となった。両国の強硬な姿勢が、外交を殺した」と話し、米国で、「グルーが日本に寄りすぎている」との見方もあったという。 今日も、「外交はどんなに手腕が優れていても、狂信の前には無力だ。共通の事実を認識することを拒絶する人たちの前では役に立たない」と、ケンパー氏は、米国を始め世界各地で目立つ権威主義の台頭を心配している。
相手国との関係を読み誤り、戦争に突き進んでしまったのは、日本も同じだった。 敗戦からまもない1951(昭和26)年、吉田茂首相の指示で、外務省の若手官僚が「日本外交の過誤」という報告書で、米国との無謀な戦争に至った先輩たちの失敗を検証した。 「物事を現実的、具体的に考えれば、米英の経済力、国力も正当に評価しえたであろう。そうすれば、独伊と結んで日本独自の経済圏をつくりだそうというようなことは、現実性のない夢に過ぎないことも、明らかだった。」
記事は、日本が「現実性のない夢」を追った過程は、2人の「知米派」の行動からも浮かぶとして、幣原喜重郎と松岡洋右を取り上げる。 第一次世界大戦は、米国の参戦で終結に向かう。 米国は民主主義の理念を掲げ、世界で圧倒的存在感を発揮した。 幣原は、米国の力を冷静に認識していて、その外交は英米協調路線を採り、1930(昭和5)年のロンドン海軍条約で頂点を迎える。 しかし、翌年にはその路線は行き詰まりをみせる。 1月23日の帝国議会で、外交官出身の松岡洋右議員が、幣原外交を追求、「ただ米国人の気受けさえよければよろしい、感情さえよくすればよろしいという風に見える」と。
幣原の協調外交にとって致命的だったのは、1931年9月の満州事変だった。 関東軍が南満州鉄道の路線を爆破、侵略を始めた。 当事者間の交渉に応じない中国は、国際連盟に提起する。 1931年末、内閣の総辞職とともに、幣原は外交の現場を去る。
松岡洋右は13歳で渡米してオレゴン大学を卒業、外交官になってからも、在米大使館で書記官を務めた。 1932年、英語力や海外についての知見を買われて、国際連盟総会の全権に任命された。 1933年、満州についての主張が聞き入れられなかった日本は、連盟脱退を宣言する。 日本は米国と対立する路線を強めていき、1934年には、外務省が(英米などを排除し)日本単独で東アジアの秩序構築を担う声明を発表する。 松岡は1940(昭和15)年に近衛文麿内閣の外相に就任する。 対等な力を持たなければ、米国と交渉は出来ないと考え、日独伊三国同盟や日ソ中立条約による体制構築などを進めた。
だが、米国が支援する英国と戦争を続けていたドイツと同盟を結んだことで日米関係は悪化した。 独ソ開戦で松岡の構想も崩れ、1941年7月に外相を事実上解任された。 その後も米国との対立は深まり、1941年12月の開戦となる。 満蒙権益に縛られた幣原も、自身の米国経験に自信を持っていた松岡も、外交の選択肢を狭めてしまった。
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