2016年『日曜美術館』「熱烈ダンギ! 若冲」 ― 2025/07/14 07:06
9年前の2016年4月10日のNHK『日曜美術館』は、「熱烈ダンギ! 若冲」という番組があった。 録画してあったので、見る。 『日曜美術館』40周年の番組で、司会は俳優の井浦新と伊東敏恵アナ。 ちょうど伊藤若冲生誕300年、上野と京都で若冲展が開かれ、一大ブームが起きた年だ。 ゲストは、杏子(ロックシンガー)、辻惟雄(美術史家)、挟土秀平(左官職人)の三人。 辻惟雄(のぶお)さんは、従来、狩野派や土佐派など伝統的な画風から大きく外れたユニークな画家として忘れ去られていた一人の伊藤若冲を、1970年に『奇想の系譜』で再発見し、以来人気が出て、2000年に初めての展覧会「若冲」が京都国立博物館で開かれた。 『奇想の系譜』で、「新しい〝美〟を打ち出した時代の最先端を象徴するアヴァンギャルドな前衛画家」とされたのは、伊藤若冲のほか、曽我蕭白、岩佐又兵衛、狩野山雪、長沢芦雪、歌川国芳だった。
番組は、伊藤若冲を、生命の姿を描いた、ユーモアのある水墨画、装飾の極み、とまとめて始まる。 《鳥獣花木図屏風》…1センチ四方のモザイク状のマス目86,000個、さらにそのマス目を九つに分割している。 ポリフォニー、リズム感は、現代に直結するようだ。 過剰に向かって、すっきりしている。(挟土さん)
《動植綵絵》…140㎝×80㎝、30幅。 42歳から10年かけて描いている。 《釈迦三尊像》と合わせ、相国寺に寄進。 極彩色に輝く生命。 貝や昆虫まで描く。 慈しむ心、自然の持つ色の美しさ。 あらゆる手法で試みる。 魚、ルリハタの深い青には、プルシアン・ブルーを使う、ヨーロッパから輸入されたばかりの貴重な絵の具。 その内《牡丹小禽図》は、直径1ミリの牡丹の花粉まで描いている。 匂い立つほど、濃密な色。 《秋塘群雀図》、粟を描くのに、黄土色の点に穴を開けて、立体感を表現している。 《雪中錦鶏図》、緑青(高価)を何種も使っている。 靑と緑はなかなか手に入らず、挟土さんはキプロスで緑の土を掘ったという。
若冲の執念について。 辻さんは、《南天雄鶏図》の赤と黒、南天の実には、シュールな気配さえある。 鶏冠(とさか)も細かい。 写生を超えた世界、シュール・リアル、幻想的。 天台宗の教え、「草木国土悉皆成仏」を表すようだ。 《動植綵絵》の入魂十年、なぜ描いたか、実情はわかっていない。 若冲は、中国の絵を千点、模写している。
若冲の自画像だと思う絵。 杏子さんは、《猛虎図》。 挟土さんは、《旭日鳳凰図》、靑と緑、全部つめこむ。 波の表現など、やれるだけやった感じ、《動植綵絵》の前だが、どこも細密で、ただただ、すごい、得意技が入っている。 やりすぎているベスト版。 辻さんは、《池辺群虫図》。 緑色、虫や蛙、生き物たちの楽園。 浮塵子(ウンカ)まで描く。 若冲には「独楽窠(どくらっか)」=巣穴という雅号もある。
《果蔬涅槃図》は、母の死をきっかけに描いたといわれる。 青物問屋というルーツを使う。 信仰心、家族像、最初に戻るやさしい感じがある。 可笑しみ、愛があり、全部を集めて、みんなが主役。 「ゆるい若冲」、描くことを楽しんでいる「優しい若冲」。 衒(てら)うところがない、奇抜だけれど、自然体で描く。
千年先に残せるような、人さまのための絵 ― 2025/07/13 07:13
祇園会が終わった七月一日、若冲は一人で、煙管屋の木津屋から届いた文を懐に、八坂門前の一角にある寂れた道具屋、壺中屋へ行った。 木津屋の屏風絵がふた月前に壺中屋から納められたと知り、君圭の消息を尋ねに来たのだ。 若冲とさして年の違わぬ老婆が、「するとあんたが、伊藤若冲かいな」。 あの屏風を見て訪ねてくるとすれば、伊藤若冲よりほかおらぬ、と君圭が言っていたという。 「わしはお前の絵が嫌いじゃ。そやさかいあいつのところに行って、これまでどれほど拙(つたな)い絵を描いてきたか、じっくりその眼で確かめてきたらええ」 手許の抽斗から手さぐりで一枚の書き付けを取り出し、それをひらりとこちらに投げた。 「拙い絵と言われたが、意外か。腹が立ったか。そらそうじゃろう。おぬしがかれこれ数十年、京洛の者どもから稀代の画家よ、奇矯の画人よと褒めそやされてきたでなあ。そやけど世間はだませても、わしの眼は誤魔化せへんで、お前の絵はすべて、己のためだけのもの、そない独りよがりの絵なんぞ、わしは大嫌いじゃ」
「おお、そうじゃ。絵というもんはすべからく人の世を写し、見る者の眼を楽しませるべきもの。けどお前の作は自分の胸の裡(うち)を吐露し、己が見たくないものから眼を背けるもんやろが」 「なあ、若冲よ。絵師とは、人の心の影子。そして絵はこの憂き世に暮らす者を励まし、生の喜びを謳うもの。いわば人の世を照らす日月(じつげつ)なんやで」 目の前の媼(おうな)は絵画に淫した若冲の心の弱さを見抜き、嘲(あざ)笑っているのだ。 「それに引き換え、ただただ自分の苦しみを、のべつまくなしに垂れ流しているお前の絵はなんじゃいな。四条の円山応挙は、絵は世間の者のためにあるとよう知っとった。ただ己を空っぽにして、人の眼を楽しませるためだけにその技を使うたさかい、あいつは京洛でああももてはやされたんじゃ」
媼の悪口は、不思議と不快ではなかった。 絵に漂う哀しみ苦しみを読み取った上で「若冲」(「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」)の号を授けた相国寺の大典の如く、世の中にはどうやらごくわずかながらも、己の絵の本質を看取する者がいるらしい。 目の前の媼がその一人であり、己と君圭の関係を知った上で自分たちの絵を腐すのが、何やら有難く思われた。 (わしは――わしらはまだ千年先に残せるような、人さまのための絵を、一つも描いてへんやないか)
石峰寺に駆け戻るなり、若冲はお志乃に手伝わせ、ありとあらゆる反故紙を糊で貼り継ぎ、縦五尺、横一丈あまりの巨大な紙を二枚創り上げた。 部屋中に広げたそれに乗り板を渡すと、若冲は竹炭で紙を六扇に区切った。 まず右隻の中央右寄りに巨大な白象を、左隻に大きく羽を広げた鳳凰を素描する。 巨大な木を二隻の両端にそびえさせ、実をつけた葉叢を天に配した。 その構図は傍目には、君圭の鳥獣図屏風と映ったであろう。 だがあの屏風絵に描かれた鳥獣は、みな若冲がこれまでに描いた絵からの引き写し。 そんな過去の遺物だけで、この絵を仕上げてなるものか。
若冲は、象の傍らに豪猪(ヤマアラシ)、綿羊、山童(オランウータン)、駱駝を、鳳凰の周りには、火喰鳥、高麗鶯、紅羅雲など珍妙な姿態の異国の鳥たちを描いた。 (これは浄土や。そう、わしは浄土を描くんや) 鳥も花もすべて生きることは美しく、同時に身震いを覚えるほど醜い。
六月六日、祇園会の宵山、若冲は事実に気付いた ― 2025/07/12 07:10
七年前、焦土と化した京で君圭から託された赤子は、あの強情者の子とは思えぬほど、素直な少年に育っている。 若冲を実の祖父と信じ、「お前のふた親は大火事で亡うなったんや」という作り話を疑いもしなかった。 顔料や絵筆を玩具代わりに大きくなったためか、それとも父親の血のゆえか、育て親の贔屓目を差し引いても、晋蔵はわずか八歳とは思えぬ達者な絵を描く。 晋蔵の出自を知らぬお志乃は、「兄さんは、晋蔵を絵師にしはるおつもりどすか」と、若冲の熱心さに苦笑する。
六月六日、祇園会の宵山。 四条界隈の商家や町会所は、通りに面した広間に山鉾所縁の屏風や人形などを飾り、見物の衆に披露する。 金忠こと金田忠兵衛は、若冲の遠縁の西陣の織屋だが、去年、若冲と晋蔵が碁盤の目に描いた白象と獅子の二枚折り屏風を、町会所に貸したら、えらい評判だったという。 今年は、自分の所に飾ると意気込んでいたので、若冲は晋蔵を連れて、見せに行くことにした。 伏見の石峰寺から駕籠で行き、四条室町の手前から混雑で歩く。
菊水鉾の会所で、画帖に写生している男がいた。 枕慈童の人形は愛らしく、左右に座る町役のしかめっ面と対をなし、壁に巡らされた胴懸け、麗々しく飾られた一斗樽まで精緻に描かれているのに、人形の背後の屏風だけが、写す価値なぞないと言わんばかりに真っ白だった。 晋蔵が絵に感心し、声をあげたので、同業とわかり、話をすることになる。 江戸から参った、谷文五郎と申す、陸奥白河藩主、松平越中守さまの近習、上方の絵を学びたいと考え、上洛した、と言う。 松平越中守こと松平定信は、前老中である田沼意次の政策を悉く停止し、幕府財政の再建を目指したものの、その改革のあまりの苛烈さから、わずか六年で幕閣を去った老中首座。 京においては先の大火後、財政窮乏著しい幕府の面目と威信を保ちながら、禁裏造営の総指揮を取った辣腕と認識されている。 定信は老中を辞した後もいまだ幕政に強い影響力を有しており、その近習となればと勘ぐると、「近習と申しても、それがしの取り柄は絵だけ、殿様は案外、書画骨董がお好きで、お傍においていただけるのでござる」と、からりと明るい。
文五郎の画帖には、晋蔵と描いた白象と獅子の二隻の屏風と同じように、碁盤の目に描いた群れ集う獣を描いた屏風絵があって、どこで写したかと聞くと、一本西の通り、放下(ほうか)鉾町内の煙管屋の店先だという。 碁盤の目に区切る画法は、自分が晋蔵のために考案したものだ。 若冲は文五郎に晋蔵を室町蛸薬師の金忠の店に預けてもらうように頼んで、煙管屋、木津屋に駆け付けた。 君圭は去年宵山で目にした二曲屏風を下敷きに、こんな途方もない大作を描いたのだ。 ひどく寒々しい一条の光が、若冲の胸底を照らした。 そうか、お前は……わしという画人そのものやったんやな。そうや、君圭、お前がわしを絵師にしたんや。
なぜもっと早く、その事実に気付かなかったのだろう。 長年若冲を脅かし、時に絶望の淵に突き落としてきた君圭は、自分をあの奇矯と陰鬱が入り混じった絵に駆り立てる唯一の存在。 そして老いたこの身に今なお絵筆を執らせる晋蔵もまた、君圭によって与えられた幼な児ではないか。 そう、自分たちは夜寒の鏡を隔てて向き合った、光と影だったのだ。
京都・天明の大火、若冲と弁蔵の君圭 ― 2025/07/11 07:08
正月晦日の卯の上刻、鴨川の東で鳴り始めた半鐘を、若冲は帯屋町の隠居所の床の中で聞いた。 火はほんの四半時で鴨川の西、寺町松原界隈に飛び火、あっという間に仏光寺、因幡薬師といった近隣の大寺を焼き尽くし、四条通の南に迫った。 近所に住む弟子の若演が飛んできた時には、薄い煙が隠居所にまで入り込んできていた。 若演は若冲をおぶい、お志乃に袖をつかませて、避難した。 三人はとにかく北へ北へと急ぎ、とりあえず六角堂(頂法寺)の森をめざした。 皆同じことを考えたらしく、境内はぎっしり人で埋まっている。 若演が大門の陰に隙間を見つけて、若冲とお志乃を座らせ、池へ手拭を濡らしに行った時、ごおっという音とともに、息の詰まるような熱風が境内に吹き込んできた。 若冲は、激しい焔の紅蓮の旋風の向こうに、立ちすくむ弟子の姿を見た。 肩に、背に迫る焔からどうやって逃げ延びたのか、気が付けば若冲とお志乃は手を取り合ったまま、鴨川の河原に倒れ込んでいた。
火災がようやく終息に向かい始めたのは、出火から丸一日後の二月一日朝……北は鞍馬口通から南は七条まで、応仁の乱をはるかに越える地域を焼き尽くし、天明の大火は終わったのである。 恐る恐る洛中に戻った若冲たちを待ち受けていたのは、まさに阿鼻叫喚の地獄であった。 伏見の石峰寺を仮の宿にした。 若演の行方はいっこうに知れなかったが、錦の店は焼亡したものの、幸之助たち実家の者は、奉公人まで一人も欠けることなく、壬生村に身を寄せているという。 聖護院を仮御所と定めた当今(とうぎん、光格天皇)や、青蓮院に遷御した上皇(後桜町)を筆頭に、焼け出された人々の大半は、洛外の諸村に仮住まいしている。
洛東、下梅屋町の施行所へ若演の消息を探しに行った若冲が、赤子を抱えた大柄な男を見て、「お、お前は弁蔵やないか」。 「おまえは、若冲……。お志乃はんや枡源の衆はどうしはったんや」と低く問うた。 行き暮れたようなその態度は、かつての彼とはまるで別人である。 おおきに、皆無事や、いま、行方知らずの弟子を探すために来た。 弁蔵は乳飲み子を連れて、女房を探しに来ていた。 お前、身を寄せる所がないなら、わしと一緒に来いへんか。 弁蔵の君圭は、信じられぬと言いたげに、目を剥く。 君圭は、元日の朝、飼っていた鶏が十羽全部死んだ、そのとき、どこかで誰かが、このままでいたらあかんと言うてる気がしたんや、だっていくらあんたの絵をうまく真似ても、それは所詮伊藤若冲の贋絵、わしの名前が、それで上がるわけやあらへん、と。 若冲はふと、自分たちが過ごして来た三十余年の歳月を思った。
赤子がまたしても顔じゅうを口にして泣き出した。 「わしの身なんぞ、案じてくれんでええ。そやけど唯一の気がかりは、まだ首も据わらんうちに母親を失うた、この晋蔵や。死んだ姉さんの縁で言うたら、晋蔵はあんたの甥。すまんけどその子をしばらく、預かっといてくれへんか。よろしゅう頼むで」 言うが早いか君圭は素早く身を翻し、瓦礫だらけの野面を一目散に駆け去った。
錦高倉市場の危機を解決する ― 2025/07/10 07:06
十日後、源洲の案内で錦高倉の会所にやってきた中井清太夫、風貌は貧弱だったが、一通り話を聞くと、「分かりました」と妙に断定的な口調でうなずいた。 奉行所は両者の冥加銀の申し出に関し、賄賂と受け止めて躊躇し、煮え切らぬ事態になり、長引いているのではないか。 この蔬菜出荷者の一覧に壬生村があるが、ここにはご公儀の蔵がある。 この村から代官所に、市で作物が売れねば収入が減り、年貢が納められぬと愁訴させたらどうか、ご公儀には市の難儀より年貢の方がはるかに大事だから、と。 この迅速な決断に、若冲たちは顔を見合わせた。 これまで市側の苦衷を訴えるのに精一杯で、出荷者である百姓から働きかけるなど、まったく思いもよらなかったからだ。
壬生村の庄屋は承知し、請願は多いほうがよいと、洛南の村はもとより、洛東三村にも呼びかけ錦高倉市場存続を出訴した。 代官所は、錦高倉と取引のない洛東三村からの上訴を却下、そればかりか出訴した各村の惣代が呼び出され、糾問が行なわれる事態になった。 その裏には、錦高倉の動きを察知した五条問屋町の、特に明石屋半次郎の働きかけがあったと知れた。 また親戚の半次郎か、若冲は町年寄を辞し、平の身で動くことにした。 中井は、実際に取引のある七村だけで願書を再提出するように指示してきた。
解決しないまま春となり、大坂で多忙な中井に言われ同役の若林市左衛門がやってきて、もともとの冥加銀の額が間違っていた、百姓から受け取っていた店賃の一部も上乗せして上納すると申し立てろと言う。 そうすれば、表向きは何の不自然もなく、五条問屋町の銀三十枚を上回る冥加銀が納められる。 銀三十五枚で、公認の市場とのお墨付きの裁可が下りた。 錦高倉の町役たちは大変喜んで若林に感謝したが、若林は実は中井の案だったと明かした。
お志乃が隠居所に飛び込んで来た日からほぼ二年、絵筆を放りっぱなしの年月だった。 引き受けていた仕事は皆断ったが、中にはどれだけ先になっても待つという奇特な客もいる。 騒動に片がついたら、一日も早く仕事に戻らねばなるまい。 そういえば、関目さまは結局、君圭に絵を描かせはったんやろか。 あまりに長期間絵から離れていたため、以前の勘がすぐに戻るか、甚だ心もとない。 だがそれでも君圭の絵を目にすれば、心の底に埋もれていた熾火がかっと燃え立とう。
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