平井呈一訳、恒文社刊『小泉八雲作品集』 ― 2025/10/21 07:07
今月8日に、小泉八雲、ラフカディオ・ハーンと、その妻節子、9日に、「ヘルンさん言葉」、「神々の国の首都」松江、10日に、小泉八雲、鳩の鳴き声の版画、11日に、柳家喬太郎の小泉八雲原作「雉子政談」を書いた。 そこに何度か出て来た、昔読んだ小泉八雲の『日本瞥見(べっけん)記』だが、その上巻が本棚にあった。 平井呈一訳『小泉八雲作品集』の一冊、恒文社、1975年9月10日第一版第一刷発行。 1975(昭和50)年は、2月に私が「等々力短信」の前身「広尾短信」を、原紙を和文タイプで打った謄写版印刷のハガキ通信で始めた年だった。
『図書』10月号、荒俣宏さんの「八雲と『怪談』と平井呈一のこと」に、平井呈一訳のこの本がなぜ恒文社(現ベースボールマガジン社)から刊行されたかの事情が書かれている。 平井呈一は昭和14(1939)年、小泉八雲の作品を翻訳する夢を果たすべく、師の永井荷風に岩波書店へ出版の打診を懇願した。
「これは実現しなかったが、翌15年、岩波から荷風の全集を出す話がもちあがり、呈一がその折衝を任された。荷風としては、岩波に呈一を推薦する意図もあったようで、八雲の翻訳出版も後押ししてくれた。結果、荷風全集はご破算になったけれども『怪談』の呈一訳が実現する。師匠の荷風は訳文校閲まで引き受け、呈一のために徹夜までしてくれたという。ところがその直後、呈一は生活苦もあって荷風の偽作・偽筆に手を染めてしまい、逆鱗に触れてしまう。文壇や出版界に悪い噂が流され、東京での仕事ができなくなった。」
「戦後の昭和29年にみすず書房がハーン没後五十年記念出版として『小泉八雲全集』の刊行に乗り出したとき、呈一は翻訳と解説を担当するが、みすず側は無名の呈一に不安を抱いたためか四名の大学教授を編集員に据えた。そのために主導権が教授方に移ることとなり、呈一は追い出されるように途中降板して続刊中止となった。」
「呈一の夢がやっと実現したのは、恒文社(現ベースボールマガジン社)の社長池田恒雄氏が個人全訳で八雲全集を決断してくれた昭和39年である。だが昭和45年に筑摩書房が「明治文學全集」に『小泉八雲集』を加えたときも、構成、編集、翻訳、解説までほとんどが呈一の仕事だったにも関わらず、かれのクレジットが表書きされることはなかった。」
小泉八雲、鳩の鳴き声の版画 ― 2025/10/10 07:11
小泉八雲、鳩の鳴き声の版画<小人閑居日記 2015.4.15.>
西光由さんは、高校の新聞部の一年後輩である。 ずっと「等々力短信」を読んでもらっていて、お会いすると、昔、私が短信の附録につけて送った自作の版画を、奥さんもお好きなので、ご自宅のダイニングルームに飾っている話になる。 それはラフカディオ・ハーンが日本の山鳩の鳴き声について書いていたのを、絵にしたものだ。 鳩は、鎌倉豊島屋の鳩サブレーのデザインを拝借していた。 実は、私の手元には残っていない。 それで先日もその話が出た時、写真を送ってくれるように、お願いした。
「等々力短信」にラフカディオ・ハーン、小泉八雲のことを書いたのを探したら、まだ葉書に和文タイプ謄写版刷りの時代、1981(昭和56)年2月15日の第207号から三回に分けて書いていた。 25日の第208号が、ちょうど満6年ということで(今年40年だから、34年前)、附録につけたことがわかった。 それで、その版画の写真をご覧に入れることにする。
朝日(ASAHI)ネットは、ぜひブログを続けて欲しい ― 2025/10/06 07:08
恐ろしい記事が、9月25日の朝日新聞朝刊の経済面に出ていた。 こうなっているとは、ぜんぜん知らなかった。 見出しは、「消えゆくブログサイト」「アクセス数1/3に 運営撤退相次ぐ」。 「闘病記や被災体験…「消えるのは惜しい」」「保存議論は進まず」。 SNSの普及などに伴い、ブログサイトの閉鎖が相次いでいる。 閉鎖されたブログの記事は消滅する。 保存の動きもあるが、無数の私的な記録を後世に残すべきなのか、議論は深まっていない、とある。
ブログの全盛期は2000年代前半、03年に「はてなダイアリー(はてなブログに統合)」が開始、「ライブドアブログ」などが相次いで参入した。 だが、05年ごろからmixi、Twitter(現X)やFacebookといったSNSの台頭で、ブログの存在感は急速に薄れていった、という。 2019年に「Yahoo!ブログ」、23年には「LINE BLOG」がサイトを閉じ、「gooブログ」は今年4月に11月でサイトを終了させると発表した。
私は、1991(平成3)年3月から、パソコン通信ASAHIネットに電子フォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、「等々力短信」を配信し始めた(ASAHIネットは、2019(令和元)年5月31日に電子フォーラムのサービスを終了した)。 パソコン通信からインターネットのプロバイダーとなったASAHIネットは、2005(平成17)年5月にブログサイト「アサブロ」を開設したので、私は同月14日から「轟亭の小人閑居日記」http://kbaba.asablo.jp/blogを始めた。 少し経って、ブログの内容に個人名を書くことも多いので、パソコン通信時代のASAHIネットの実名公開の方針に従い、「轟亭の小人閑居日記 馬場紘二」と表題に実名を加えて、現在に至っている。
2005年5月から、20年間、ブログは毎日約1200字、原稿用紙3枚、A4判一枚ほどの分量を書き続けている。 ブログは生き甲斐だ。 どんなことを綴っているか。 毎月月末に、その月の分のINDEXをアップしているので、欄外「索引」のカテゴリーをクリックして頂くと、ヅラヅラと出て来る。 主なテーマは、福沢諭吉、落語、俳句。 膨大な蓄積ができ、しかも、どなたでも読むことができる。 たとえば落語だけでも、明治時代からという伝統ある落語会、落語研究会を毎回、マクラからオチまで書いている。 この20年の平成から令和にかけての落語家がどんな噺をしていたか、後の世に参考になることもあるのではないだろうか。
今のところ、そんな動きはないけれど、ASAHIネットは、ぜひ「アサブロ」を続けてもらいたいものだ。 気がつけば84歳になった、一老ブロガーの切なる願いである。
池田弥三郎の生涯、日本の未来<等々力短信 第1195号 2025(令和7).9.25.> ― 2025/09/25 07:03
池田光璢さんから、その「池田彌三郎の生涯に日本の未来を見る」所収の『高岡市万葉歴史館紀要』第35号(3月29日発行)を頂いた。 近年は光璢と名乗る池田光さんは、池田弥三郎さんのご長男で日本文化研究家、昭和35年に大阪で開かれた第125回福沢諭吉先生誕生記念会に私が志木高から派遣された時に、幼稚舎から桑原三郎先生の引率で参加していて、知り合った。 高岡市万葉歴史館館長は藤原茂樹さん、10年ほど前は三田の教授で折口信夫・池田弥三郎先生記念講演会を主催されていた。 「小人閑居日記」2015年11月8日~10日には、その会での光さんの講演「銀座育ち」などを、「池田弥三郎さんの育った家、芸能と宗教」、「岡野弘彦さんの「折口信夫・池田弥三郎」思い出話」、「『折口信夫芸能史講義 戦後篇』(上)」に書いていた。
光璢さんの今回の論考、父池田弥三郎(大正3(1914)年~昭和57(1982)年。以下、敬称略)の人生全体の流れを見て、それがどのような方向を目ざしていたかを考察し、その方向に日本の未来を見出すことが出来るということを示そうとする。 昭和26年慶應義塾大学助教授、35年常任理事、36年教授(「助十」と言っていた)、38年文学博士と、おかしな順序だ。 ラジオのニュース解説やテレビの推理クイズ番組「私だけが知っている」で、「タレント教授」といわれていたことが、否定的な評価をされたのだ。 本人は、自分のしていることが、講義や論文執筆、放送だろうが、「日本人の幸福のために役立ち、日本をすこしでもよくするために、力をそえるものでないなら、自分の一生をそれにかける気などはしないのである」と。(初出版の著書『芸能』(岩崎美術社))
光璢さんは、角田忠信著『日本人の脳』の「日本語人」という言葉を使う。 日本語人は、虫の声、鳥の鳴き声、雨だれの音、川のせせらぎが、左脳に入る。 論理と感情が一体で、「人間と自然が一体」であり、さらに「人間と社会が一体」に通じる。 池田弥三郎の世界は、間違いなく「日本語人的」な世界である。 まず、ことばの本、つぎにふるさと随筆、東京、銀座、日本橋、『三田育ち』、『魚津だより』、その世界は自分の「体験」なしにはあり得ない。 その意味では、弥三郎の書いたものは、すべて「私小説」であり「自伝」であったと言っても過言ではないだろう。 「体験」には、弥三郎の芸能的素質と、池田家の宗教的素質が関係する(上記「池田弥三郎さんの育った家、芸能と宗教」参照)。 折口信夫の方法は、人間と自然が一体ではなく、明らかに、観察者と対象とが離れた世界である。 池田弥三郎の体現した、人間と自然が一体の世界は、日本独自の世界で、今、行き詰っている「非日本語人」的世界の今後に、必要なのだ。
「これから民俗学をやる」67歳の死、古今亭志ん朝、中村勘三郎を思う。
等々力短信 第1194号は… ― 2025/08/25 07:16
<等々力短信 第1194号 2025(令和7).8.25.>福沢諭吉は面白い は、8月19日にアップしました。 8月19日をご覧ください。

最近のコメント