「稲むらの火」と浜口儀兵衛(梧陵) ― 2025/10/28 07:10
大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾<小人閑居日記 2019.1.19.>
浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あとで引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和歌山教育史との関係については、下記を書いていた。
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012.9.22.>
拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012.9.23.>
「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012.9.24.>
〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012.9.25.>
県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012.9.26.>
等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日
大津波と浜口梧陵
番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤマサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社への避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むらに火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難には20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、全村民の97%の生命が救われた。
しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて堤防建設に送金し、安政5(1858)年12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的という「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。
『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出てくる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢されて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しようとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行には、福沢が格段の配慮をしている。
ゴッホの手紙<等々力短信 第1196号 2025(令和7).10.25.> ― 2025/10/25 07:05
そもそも「等々力短信」の前身「広尾短信」を始めたのは、福沢諭吉や夏目漱石の手紙の面白さを知って、電話で何事もすます世の中に、なんとか手紙の楽しさを復活させ、広められないかと、思ったからだった。 当時なぜ『ゴッホの手紙』という本があるのか、深く考えたことがなかった。 明治末期の雑誌『白樺』に児島喜久雄が連載し、大正に入って木村荘八が単行本を、1950(昭和25)年代に式場隆三郎や小林秀雄が出している。 7月27日の『日曜美術館』「星になった兄へ 家族がつないだゴッホの夢」で、ゴッホを有名にするについて、手紙と家族の役割が大きかったことを知った。
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年にオランダで牧師の父の長男として生まれた。 頑固で癇癪持ち、些細なことに激昂するところがあったが、16歳で伯父の画廊グーピル商会のハーグ支店に勤める。 弟のテオも、後に同商会のブリュッセル支店に勤め、二人は手紙のやりとりを始める。 ゴッホにとってテオは、唯一心の通う存在だった。 文通は当然絵画に及び、テオはマネの版画などをコレクションしていた。 ゴッホは、23歳で画廊を解雇され、聖職者を目指すが、教会に受け入れられず、父とも諍いを起こす。 兄の才能を信じるテオが、画家になるように勧め、援助する。 パリ支店にいたテオが送る版画の影響で、1885年初期の代表作《ジャガイモを食べる人々》が生まれる。 描いた作品を送ったので、その大部分はテオの手元に残った。 32歳でパリへ、2年間テオと同居、その間手紙はないが、テオの妹への手紙でゴッホの様子がわかる。 二人は議論を深め、印象派や浮世絵(500点を蒐集)にも触れ、ゴッホの絵は変化し、筆遣いと色彩に目覚める。 1888年、南仏アルルへ、その芸術は花開く。
テオはヨー・ボンゲルと結婚し、1890年に生まれた長男にフィンセントと名付け、ゴッホは祝いに《アーモンドの木の枝》を贈る。 だが、その2か月後、ゴッホは自死、半年後に20代のテオも病気で亡くなる。 ヨーは、1歳に満たぬ息子を抱え、生前はほとんど売れなかったゴッホの作品を受け継ぎ、オランダに帰って、下宿屋を開業する。
ハンス・ライテン著、川副智子訳『ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル 画家ゴッホを世界に広めた女性』(NHK出版)の作曲家・望月京(みさと)さんの朝日新聞書評を読む。 ヨーは内向的で自信のなかった読書好きの少女だったが、彼女にとって「この世で最も神聖なもの」だという画家の手紙の編纂を早くから計画し、英訳も自ら担当。 適切な協力者の人脈を築き、展覧会の開催、絵の貸し出しと売却、テオの生前の見解や手紙の内容から作品に名をつけ目録を作成、見事な宣伝や出版戦略、ゴッホ兄弟や息子への愛と、たゆまぬ努力で、義兄の作品を世界に広める偉業を成し遂げた。
平井呈一訳、恒文社刊『小泉八雲作品集』 ― 2025/10/21 07:07
今月8日に、小泉八雲、ラフカディオ・ハーンと、その妻節子、9日に、「ヘルンさん言葉」、「神々の国の首都」松江、10日に、小泉八雲、鳩の鳴き声の版画、11日に、柳家喬太郎の小泉八雲原作「雉子政談」を書いた。 そこに何度か出て来た、昔読んだ小泉八雲の『日本瞥見(べっけん)記』だが、その上巻が本棚にあった。 平井呈一訳『小泉八雲作品集』の一冊、恒文社、1975年9月10日第一版第一刷発行。 1975(昭和50)年は、2月に私が「等々力短信」の前身「広尾短信」を、原紙を和文タイプで打った謄写版印刷のハガキ通信で始めた年だった。
『図書』10月号、荒俣宏さんの「八雲と『怪談』と平井呈一のこと」に、平井呈一訳のこの本がなぜ恒文社(現ベースボールマガジン社)から刊行されたかの事情が書かれている。 平井呈一は昭和14(1939)年、小泉八雲の作品を翻訳する夢を果たすべく、師の永井荷風に岩波書店へ出版の打診を懇願した。
「これは実現しなかったが、翌15年、岩波から荷風の全集を出す話がもちあがり、呈一がその折衝を任された。荷風としては、岩波に呈一を推薦する意図もあったようで、八雲の翻訳出版も後押ししてくれた。結果、荷風全集はご破算になったけれども『怪談』の呈一訳が実現する。師匠の荷風は訳文校閲まで引き受け、呈一のために徹夜までしてくれたという。ところがその直後、呈一は生活苦もあって荷風の偽作・偽筆に手を染めてしまい、逆鱗に触れてしまう。文壇や出版界に悪い噂が流され、東京での仕事ができなくなった。」
「戦後の昭和29年にみすず書房がハーン没後五十年記念出版として『小泉八雲全集』の刊行に乗り出したとき、呈一は翻訳と解説を担当するが、みすず側は無名の呈一に不安を抱いたためか四名の大学教授を編集員に据えた。そのために主導権が教授方に移ることとなり、呈一は追い出されるように途中降板して続刊中止となった。」
「呈一の夢がやっと実現したのは、恒文社(現ベースボールマガジン社)の社長池田恒雄氏が個人全訳で八雲全集を決断してくれた昭和39年である。だが昭和45年に筑摩書房が「明治文學全集」に『小泉八雲集』を加えたときも、構成、編集、翻訳、解説までほとんどが呈一の仕事だったにも関わらず、かれのクレジットが表書きされることはなかった。」
小泉八雲、鳩の鳴き声の版画 ― 2025/10/10 07:11
小泉八雲、鳩の鳴き声の版画<小人閑居日記 2015.4.15.>
西光由さんは、高校の新聞部の一年後輩である。 ずっと「等々力短信」を読んでもらっていて、お会いすると、昔、私が短信の附録につけて送った自作の版画を、奥さんもお好きなので、ご自宅のダイニングルームに飾っている話になる。 それはラフカディオ・ハーンが日本の山鳩の鳴き声について書いていたのを、絵にしたものだ。 鳩は、鎌倉豊島屋の鳩サブレーのデザインを拝借していた。 実は、私の手元には残っていない。 それで先日もその話が出た時、写真を送ってくれるように、お願いした。
「等々力短信」にラフカディオ・ハーン、小泉八雲のことを書いたのを探したら、まだ葉書に和文タイプ謄写版刷りの時代、1981(昭和56)年2月15日の第207号から三回に分けて書いていた。 25日の第208号が、ちょうど満6年ということで(今年40年だから、34年前)、附録につけたことがわかった。 それで、その版画の写真をご覧に入れることにする。
朝日(ASAHI)ネットは、ぜひブログを続けて欲しい ― 2025/10/06 07:08
恐ろしい記事が、9月25日の朝日新聞朝刊の経済面に出ていた。 こうなっているとは、ぜんぜん知らなかった。 見出しは、「消えゆくブログサイト」「アクセス数1/3に 運営撤退相次ぐ」。 「闘病記や被災体験…「消えるのは惜しい」」「保存議論は進まず」。 SNSの普及などに伴い、ブログサイトの閉鎖が相次いでいる。 閉鎖されたブログの記事は消滅する。 保存の動きもあるが、無数の私的な記録を後世に残すべきなのか、議論は深まっていない、とある。
ブログの全盛期は2000年代前半、03年に「はてなダイアリー(はてなブログに統合)」が開始、「ライブドアブログ」などが相次いで参入した。 だが、05年ごろからmixi、Twitter(現X)やFacebookといったSNSの台頭で、ブログの存在感は急速に薄れていった、という。 2019年に「Yahoo!ブログ」、23年には「LINE BLOG」がサイトを閉じ、「gooブログ」は今年4月に11月でサイトを終了させると発表した。
私は、1991(平成3)年3月から、パソコン通信ASAHIネットに電子フォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、「等々力短信」を配信し始めた(ASAHIネットは、2019(令和元)年5月31日に電子フォーラムのサービスを終了した)。 パソコン通信からインターネットのプロバイダーとなったASAHIネットは、2005(平成17)年5月にブログサイト「アサブロ」を開設したので、私は同月14日から「轟亭の小人閑居日記」http://kbaba.asablo.jp/blogを始めた。 少し経って、ブログの内容に個人名を書くことも多いので、パソコン通信時代のASAHIネットの実名公開の方針に従い、「轟亭の小人閑居日記 馬場紘二」と表題に実名を加えて、現在に至っている。
2005年5月から、20年間、ブログは毎日約1200字、原稿用紙3枚、A4判一枚ほどの分量を書き続けている。 ブログは生き甲斐だ。 どんなことを綴っているか。 毎月月末に、その月の分のINDEXをアップしているので、欄外「索引」のカテゴリーをクリックして頂くと、ヅラヅラと出て来る。 主なテーマは、福沢諭吉、落語、俳句。 膨大な蓄積ができ、しかも、どなたでも読むことができる。 たとえば落語だけでも、明治時代からという伝統ある落語会、落語研究会を毎回、マクラからオチまで書いている。 この20年の平成から令和にかけての落語家がどんな噺をしていたか、後の世に参考になることもあるのではないだろうか。
今のところ、そんな動きはないけれど、ASAHIネットは、ぜひ「アサブロ」を続けてもらいたいものだ。 気がつけば84歳になった、一老ブロガーの切なる願いである。

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