『書と文字は面白い』<等々力短信 第961号 2006.3.25.>2006/03/25 06:56

書家で、近年は日本語論での活躍が目立つ石川九楊さんの『書と文字は面白 い』(新潮社)が、看板通りに面白い。 少し古い本だが、ご本人も「あとがき」 で言っているように、その後の石川さんの仕事の精髄(エキス)が、萌芽的、あ るいは結論的に、随所に顔を出している。 「福沢諭吉の片仮名力」(『福澤手 帖』122号)を書いた時、石川さんの日本語論を参考にさせてもらった。 石川 さんは、漢字・平仮名・片仮名、三種の文字を用いる特異な言語環境のなかで、 日本文化は成立したという。 平安中期以降、片方に(男の、公式の)漢文、漢 詩の世界があり、他方に(女の、公式でない)かな文字を基本に和語、和文、和 歌をはりつけた世界がある、という二重の日本語が成立した。

『書と文字は面白い』のもとは新聞の連載コラムで、見開きになった一話一 話が図版と650字の短文から出来ている。 この図版が効いている。 「隷書」 では、お札の「日本銀行券 壱万円 日本銀行」、石川さんは近代以降の隷書体 が、主に官庁や学校、企業の看板の文字などに用いられ、威厳、重厚、不動感 を漂わせた「威張り文字」だといい、70年代半ば以降、銀行が続々と社名ロゴ タイプを変更したのは生産設備資金の貸付業から新金融業に業態を転じたこと の象徴かもしれないと書いている。 当時、銀行もずいぶん安っぽい看板にし たものだと感じた。 「ペン習字体」は、毛筆の特性から生まれた字体(毛筆規 範体)だが、ペンを使って毛筆と同じ柔軟な紙との接触、速度、間合い、抑揚で 書くことは、初心者には毛筆習字よりはるかに困難だという。 「ペン習字体」 はペン書きに適さない、まったく非実用的な書体と言えよう、と断定している。  学校を出て銀行に勤め始めた頃、学校の先輩でもあった親切な上司が、私の字 を見かねてペン習字の手本をくれたけれど、まったく効果のなかったことを思 い出した。

「初形」 漢字の「家」は、建物の象徴形の「ウかんむり」(べん)と、犬の 象徴形「豕」(し)を合体した形だ。 古代中国では神霊を祀る建物を建てると き、犬を人柱ならぬ犬柱として埋めたらしい(白川静)、という個所に目を見開 く。 白川静さんの本、興味はあるが、手にしていない。 パソコンのネット にいる小学校の先生は、漢字がなかなか書けるようにならないことに困ってい るそうだが、こういう話をしたら子供達は漢字に興味を持つのではなかろうか。  「よちよち歩き」の爨(さん)宝子碑、「顔真卿」、「白隠」、中村不折の「龍眠帖」 の字が私の好みだが、余白がなくなった。

中津文化の松明(たいまつ)2006/03/25 06:58

 福沢の郷里大分県中津在住の福沢研究家、横松宗(たかし)さんが、昨年10月 15日に亡くなっていたことを、最近知った。 福沢協会の旅行で知り合った中 津の相良照博さんが、送って下さる文化総合同人誌『耶馬台』の2006年春号 が「横松宗先生追悼号」だったのだ。 横松宗さんの著書『福沢諭吉 中津か らの出発』を「等々力短信」第580号「福沢と郷里中津」で紹介したのは、平 成3(1991)年10月5日だった。 それを福沢協会でお見かけしたことのあった 横松さんにお送りしたのが発端で、私家本を読んでいただいたり、賀状のやり とりがしばらくあったりした。 1913年中津のお生れ、教育史、中国思想史が ご専門、八幡大学教授、学長を務められた。 中津では長年社会教育に尽力さ れていたようで、追悼号には「中津文化連盟」「生涯学習大学」「諭吉の会」「福 沢諭吉の本を読む会」「福沢諭吉を英語で読む会」「中津地方文化財協議会講座」 などの名前がある。

 享年92歳、この年(6月か)、金谷西ノ丁という所にご自宅を新築され、隣に 書庫を建てられたらしい(従来のご住所は蛭子町)ことに、驚く。 追悼文の中 に、「“おとこの夢”を実現された一万六千冊の蔵書が収まる書庫」「晩年、買い 溜めた万巻の書を、誰にも読める横松図書館として、金谷西ノ丁に自宅兼用で 建てられた」「先生の研究生活を支えた蔵書を収納した重厚な書庫は、中津の文 化の光を消さないために、横松先生の点した松明(たいまつ)を引き継ぐための 基地として残す手立てをいずれ考えるべきであろう」などの文章がみられるか らだ。

福沢と郷里中津2006/03/26 07:07

 横松宗さん追悼の意味をこめ、今日は、昨日ふれた<等々力短信 第580号  1991.10.5.>「福沢と郷里中津」を、そのまま掲載させていただく。

      福沢と郷里中津<等々力短信 第580号 1991.10.5.>

 映画『福沢諭吉』にあわせて、福沢ブームの観がある。 本も何点か出版さ れたが、前回ご紹介した中島岑夫さんの『幕臣 福沢諭吉』とともに、横松宗 (たかし)さんの『福沢諭吉 中津からの出発』(朝日新聞社)が、おすすめ だ。 横松さんは、福沢と同じ大分県中津に、1913年に生まれた。 教育 史、中国思想史がご専門、八幡大学教授、学長を務められた。 福沢諭吉協会 のセミナーで、お見かけしたことがある。

 あの時代に、あれだけの斬新な考え方をする人物が、なぜ九州の一小藩から ポッと現われ出たのか。 その不思議に、横松さんは、いくつかの要因を挙げ て明快な答を示してくれた。 同郷という縁で、福沢の「中津からの出発」に 長年にわたって関心を持ち続けてこられた成果だろう。 福沢は、突然変異の 人ではなかった。

 第一章「郷里中津とその学統」では、父母の影響、中津藩のきびしい身分制 とそれへの抵抗、中津の儒学、中津の蘭学、民話と中津、といった要因が説明 される。

 面白いのは、後年あれほど儒学を排斥した福沢が、中津の儒学の学風に影響 を受けていたという指摘である。 福沢が師事した白石照山は、幕府御用学の 朱子学にたいして異端の亀井派に傾倒していた。 照山は、福沢の父百助も学 んだ帆足万里(三浦梅園の学統をひく)の弟子、野本真城に学んだ。 福沢の 実学尊重、蘭学への転回や対外政略観の形成に、これら中津儒教の学問と人の 影響が色濃いという。 具体的には、野本の門人たちが、福沢の長崎遊学を支 持したと考えられるのだそうだ。

 もう一つ、興味のあるのは、民話である。 横松さんは、「福沢の合理的精 神、時には毒舌やギャグを交えた批判的精神を育てたものに、この地方に江戸 時代の後期から流布していた吉吾(きちご)の民話があったと推定される」と いう。 落語好きの、福沢いかれ派にとって、見逃せない指摘である。

没後90年、福沢悲願の欧米キャッチアップに、有形では成功したかに見え る日本。 冷戦終結にともなう激動の世界で、日本の果たすべき役割、「国民 みずからの自発的内発的革命」(横松さん)といった無形のほうの充実など、 まだ福沢に相談しなければならないことが、山積している。 序章の一部しか 紹介できなかったが、横松さんの本は、福沢の生涯と思想の全体像を、福沢研 究の最近の成果もふまえて、わかりやすく、コンパクトにまとめてくれていて まことに有難い。

福沢諭吉におけるパラドックス2006/03/27 07:30

 横松宗さんに『福沢諭吉 その発想のパラドックス』(梓書院・2004年)とい う福沢に関する二冊目の本がある。 相良照博さんから頂いた。 内容は、「中 津留別の書」を読む、「中津留別の書」の意義、福沢諭吉を育てた人脈と福沢諭 吉が育てた人脈、中津藩の蘭学と福沢諭吉、福沢諭吉におけるパラドックス、 西郷に殉じた草莽の志士-増田宋太郎、福沢諭吉・西郷隆盛・増田宋太郎、旧 里における福沢諭吉、福沢諭吉と近代中国の指導者・魯迅、「日本の酪農の父」 宇都宮仙太郎、となっている。

 一番興味深いのは、表題にもなっている「福沢諭吉におけるパラドックス」 とは、何かということだ。 『福翁自伝』に中津につばを吐きかけて出て行っ たとあるが、福沢は郷里中津を愛するが故に、そうしたのだと、横松さんは考 える。 愛というものは、主観的に惑溺してしまうのでなく、外から客観的に 見るということ、いうなれば批判すること、矛盾を知ることでなくてはならな い、と思うからだ。 中津における身分制度や、人間関係の中に埋没すること なく、それを外から見ること、あるいは、人間本来のあり方から見ることに、 横松さんは福沢の本当の郷土愛を見る。 それを、郷土愛の一つのパラドック スというのだ。

 中津奥平藩は、藩全体の気風がきわめて保守的で、江戸時代封建制の典型の ようなところだった。 そういう中津だからこそ、福沢のような進歩的な偉人 が出た、その環境に触発されて、本当の意味における個人の自覚とか独立自尊 とかいう精神をむしろ自分で発想することができたのではないか。 ここにも 福沢におけるパラドックスがあると、横松さんは指摘している。

福沢の複眼と楽観主義2006/03/28 07:04

横松宗さんの「福沢諭吉におけるパラドックス」のつづき。 横松さんは「パ ラドックス」という言葉を、他の言葉では表現しにくいものがあるので用いた が、「矛盾」と訳して良いし、「二律背反」あるいは「逆説」でもよい、という。 

福沢は遣欧使節の一員としてヨーロッパへ行った時、ヨーロッパの近代的制 度や先進文化に感動すると同時に、その往復の途中、香港、シンガポール、セ イロンなどで、中国人やインド人が(つまり日本人と同じアジア人が)、イギリ スその他の文明国、先進国の人たちに屈従した生活をしている姿を見た。 ヨ ーロッパでも、搾取され、酷使されている労働者、悲惨な貧乏人の生活や、そ うした弱い人たちのための福祉施設も見てきた。 その両方で、福沢はヨーロ ッパ近代文明の矛盾を知り、感じた、と横松さんはいう。

 一方では加害者であるイギリス人が、国内では労働者である場合、逆に被害 者になることを知ったことは、福沢に、もともと自分もそうであったと自覚さ せた。 自分は下士として上士から非常な屈辱を受けたが、自分もやはり武士 であって、町人や百姓に対しては優位の立場にある。 このことはまた国際関 係においても、自分たちが他国人に対して加害者にもなり、被害者にもなり得 るということを知ったともいえる。 このことは、内からと外からの双方から 見るという福沢の複眼思想の一つになったのではないか、と横松さんは指摘し ている。

 横松さんは、福沢が文明の矛盾を感じながらも、進歩というものに対して、 一貫して楽観的であったという。 無限なる宇宙の中に生かされている人間は、 ちっぽけな蛆虫のような存在で、「人間万事小児の戯れ」といってよいけれど、 その戯れを本気に勉め、真剣に生きることが必要だ。 人間が自立し発展する ためには、学問、自労自活など、すなわち強い意志、学習あるいは努力が必要 になる。 無限に努力してゆく過程で、蛆虫である人間が、無限に天によって 包摂され、また天によってアウフヘーベン(止揚)されてゆくと、福沢は信じて いたのではないか。 そこに横松さんは、福沢独特のオプティミニズムがある と考える。