朝倉市「秋月」と「最後の仇討」2015/05/26 06:33

 久野恵一さんが代表だった「手仕事フォーラム」は、「便利さと引き換えに失 われつつある日本の風土や文化に根差した手仕事を守り育てるべく、手仕事に 携わる人や関心のある人を集めて活動している」(会員数2014年6月現在約 350名)という。 発信する関係店舗に、鎌倉の「もやい工藝」、尾山台の「手 しごと」のほか、福岡県朝倉市に「秋月」があると、案内にあった。

 朝倉市秋月といえば、安西水丸さんが『ちいさな城下町』に書いていた。 博 多から鹿児島本線で基山(きやま)駅へ、甘木(あまぎ)鉄道に乗り換え、終 点の甘木からバスかタクシーで行く。 秋月藩五万石の城下町、初代藩主は黒 田藩(福岡藩)初代藩主黒田長政の三男長興(ながおき)、父の遺言でこの地に 五万石を与えられた。 その前に、約400年つづいたという秋月氏の時代があ ったが、天正15(1587)年豊臣秀吉の九州征伐で破れる。 十八代秋月種実 (たねざね)は、茶入の名器「楢柴」を献上して降伏、日向高鍋へ移された。  秀吉は「楢柴」を同年10月の北野の大茶会で用いたという。

 秋月藩中興の祖といわれる八代藩主の黒田長舒(ながのぶ)は、日向高鍋藩 秋月家からの養子で、黒田藩四代藩主の曾孫にも当り、両家の血を受け継いで いた。 葛、和紙、焼き物、製糸などの産業を奨励し、また藩校「稽古館」を 設けた。 ここからは原古処(儒学者)、斉藤秋圃(画家)、ジェンナーの牛痘 種痘の発明より6年前に、我が国初の人痘種痘法に成功した医師・緒方春朔(し ゅんさく)が出ている。 安西水丸さんは、草木染の和紙の店を覗いたり、陶 器店で小石原焼の片口を買ったりしている。 小鹿田(おんだ)焼の産地も近 い。 「手仕事フォーラム」関連の「秋月」があるのは、そんな土地柄からな のだろう。

 幕末、長州と同じように、秋月藩でも、勤王か佐幕かで、藩論が沸騰した。  藩の主流は公武合体派、若侍たちは「干城(かんじょう)隊」を作り尊王攘夷 派。 慶應4(1868)年、公武合体論を唱えていた次席家老臼井亘理(わたり) が暗殺され、止めにはいった妻女も殺された現場を、11歳の息子六郎が目撃し てしまう。 やがて下手人は一瀬直久だと判明する。 明治4(1871)年の廃 藩置県で、秋月藩は秋月県となり、旧藩主も旧藩士一瀬直久も東京へ移り、そ の後一瀬は東京高等裁判所判事に出世した。 仇討に執念を燃やす臼井六郎は、 明治13(1880)年になって、ついに一瀬直久を討ち果たす。 事件は日本最 後の仇討として、広く報道された。 すでに仇討禁止令があり、六郎は終身刑 となるが、模範囚であったこともあり、明治22(1889)年の憲法発布に伴う 恩赦で減刑され、明治24(1891)年に釈放されている。 この話は、吉村昭 さんの「最後の仇討」(新潮文庫『敵討』所収)にくわしいそうだ。

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