「不自由さは自由のためにある」 ― 2016/02/03 06:31
福岡伸一さんのコラム「動的平衡」の第5回(12月31日)は、「制限が生 む協調性」だった。 現代ダンスの鬼才、勅使川原三郎さん(私は知らなかっ た)という方が、福岡伸一さんに「どうして手首は360度ぐるりと回すことが できないのだろう」と言ったそうだ。 福岡さんは、書く。 ひじは一定の角 度以上には開かないし、ひざも反対側には曲がらない。 なぜ身体に、いちい ち制限が設けられているのか。 手首がその制限を超えて、より外側に回転を 求めようとすれば、腕は自然にねじれ、肩が開かれ、腰は傾く。 つまり制限 があるゆえに、身体の他の部分の協調的な動きが促される。
生物学には「相補性」というすてきな言葉がある、と福岡さん。 「互いに 他を補いながら、互いに他を律する。各パーツの制限は、パーツ相互の運動の ためにある。いや、パーツといういい方は間違っている。身体に部分はない。 全体としてひとつのものだ。」「勅使川原三郎の優雅な舞はそのことの最も端 的な謳歌である。不自由さは自由のためにある。」
今日2月3日は、福沢諭吉の命日である。 私は福岡さんの結語を読んで、 福沢がよく揮毫した「自由在不自由中」、「自由は不自由の中に在り」を思い出 した。 『福澤諭吉事典』は解説して、「自由は他人を妨げないという一定の 不自由を当然に内包している。すなわち完全なる自由は、他人の自由を認めな い絶対君主のような者にしかなく、万人の自由は相互の不自由の上にしか成立 しないという市民社会における自由の本質を説いた語。」
『文明論之概略』巻之五の第九章「日本文明の由来」に、「抑(そもそ)も 文明の自由は他の自由を費して買うべきものに非ず。諸(もろもろ)の権義を 許し諸の利益を得せしめ、諸の意見を容れ諸の力を逞うせしめ、彼我平均の間 に存するのみ。或(あるい)は自由は不自由の際に生ずと云うも可なり。」と ある。 伊藤正雄さんの口語訳を紹介する、「大体、文明社会の自由といふも のは、他人の自由を犠牲にして獲得せらるべきものではない。各自の権利を許 し、各自の利益を認め、各自の意見を容れ、各自の力を発揮させ、さうした全 体の対立と調和からもたらせるものが、真の自由に外ならないのだ。そこで言 ひ換へるならば、“自由は不自由との境目に生れる”といってもよかろう。」 (伊藤正雄著『口譯評註 文明論之概略』慶應通信・1972年)
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