施政方針演説の山川健次郎2018/01/28 07:13

 通常国会が召集された22日、安倍晋三首相は衆参両院での施政方針演説を こう始めた。 「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次 郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。/しかし、明治政府は、 国の未来のために、彼の能力を活かし、活躍のチャンスを開きました。/「国 の力は、人に在り」/東京帝国大学総長に登用された山川は、学生寮をつくる など、貧しい家庭の若者たちに学問の道を開くことに力を入れました。女性の 教育も重視し、日本人初の女性博士の誕生を後押ししました。/身分、生まれ、 貧富の差にかかわらず、チャンスが与えられる。明治という新しい時代が育て た数多の人材が、技術優位の欧米諸国が迫る「国難」とも呼ぶべき危機の中で、 我が国が急速に近代化を遂げる原動力となりました。/今また、日本は、少子 高齢化という「国難」とも呼ぶべき危機に直面しています。」

 私は、大河ドラマ『八重の桜』が放送されていた2013(平成25)年、たま たま丸山信編著『福沢諭吉とその門下書誌』の「門下生の著作と略歴」で、山 川健次郎を見つけて、いろいろ書いたことがあった。 その経歴には、「エール 大学入学、東京開成学校教授補、帝大教授、明21 本邦初の理学博士、明34 帝 大総長、以後京大、九大総長歴任、枢密顧問官、男爵」とあったけれど、出身 等が「重教改め、印幡県、父又平」とあり、アメリカへの出発は明治4年元旦 なので、「明6.3.7.に慶應義塾に18歳で入塾」したのは、別の山川健次郎では ないか、と考えられた。

山川健次郎は慶應義塾で学んだか?<小人閑居日記 2013.8.11.>

山川健次郎の妹、さき(大山捨松)の留学<小人閑居日記 2013.8.12.>

大山巌との結婚、その後の活躍<小人閑居日記 2013.8.13.>

山川健次郎(15)、フランス語を学ぶ<小人閑居日記 2013.8.14.>

長州人奥平謙輔の書生になった事情<小人閑居日記 2013.8.15.>

健次郎のアメリカ留学まで<小人閑居日記 2013.8.16.>

山川健次郎がアメリカで学んだこと<小人閑居日記 2013.8.17.>

 そこで、安倍首相の施政方針演説、「150年前、明治という時代が始まったそ の瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。」だ が、山川健次郎は白虎隊の一員ではなかった。 戦争に備えての洋式の軍制改 革で、15歳の山川健次郎や柴茂四郎(もしろう、柴五郎の兄)は、15歳から 17歳の白虎隊に編成されたが、鶴ヶ城三の丸でのフランス式歩兵訓練について いけず、15歳組は除籍されてしまう。 その代りに、祖父兵衛(ひょうえ)に 命じられたのがフランス語の学習だった。 この頃、会津には旧幕府の要人が 多数来ていて、その中に旧幕府歩兵頭の沼間(ぬま)慎次がいた。 後年、沼 間守一(もりかず)と名乗り、ジャーナリストとして名をはせる人物だ。 延 命寺で、沼間の部下の館林や林(兄大蔵と一緒に洋行)にフランス語を習った。

会津戦争、鶴ヶ城攻撃の折には、山川健次郎は、祖父、母や姉たちと城内に 入り、負傷者の介護や伝令などを務めたという。 降伏によって、15歳以上の 藩士は猪苗代で謹慎となり、健次郎もその中にいた。 会津藩士の秋月悌次郎 は19歳の時、江戸の昌平黌で寮の舎長に選ばれ、越後攻めの長州干城隊参謀、 奥平謙輔と交流があった。 秋月は密かに奥平に会い、会津の少年二人、山川 健次郎と小川伝八郎を書生として、教育してくれるように依頼する。 越後府 権判事となった奥平は、二人を任地の佐渡、水原、新発田、そして江戸へと連 れ歩く。 会津藩にもお家再興の許しが出て、明治3年4月から斗南移住が始 まる。 健次郎ら藩の子弟40人ほどは東京残留を命ぜられ、芝増上寺の徳水 院に開かれた斗南藩学校に入学させられたが、この学校4か月で閉鎖される。   健次郎は一計を案じ、最初にフランス語を習った沼間守一が鍛冶橋の土佐藩 邸で開いていた私塾に書生として潜り込む。 斗南の兄からアメリカに留学せ よ、という手紙が来た。 北海道開拓使次官の黒田清隆の提案による留学で、 北海道開拓の枠で選ばれたのだ。 戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の 上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、子弟を積極的に 応募させる家もあった。 明治4年正月元旦、黒田に引率された、健次郎らの 一行は、汽船「ジャパン号」で横浜港からアメリカ西海岸へ出発した。

 当初、女子の応募者は皆無だったが、再募集に山川家は、利発で、フランス 人家庭での生活を通じた西洋式の生活にも慣れていた妹のさき11歳を応募さ せた、のちの大山捨松である。 明治4年11月12日(1871年12月23日) アメリカ号で横浜港を出港した岩倉使節団に同行して、津田梅(子)は数え9 歳、永井繁(子)11歳、吉益亮16歳、上田悌16歳と、さき12歳の5名が留 学する。 旧幕臣や賊軍の娘ばかりだった。 山川の母えんは「娘のことは一 度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させ たという。

 戊辰戦争で賊軍となった会津の反骨精神は、施政方針演説の「しかし、明治 政府は、国の未来のために、彼の能力を活かし、活躍のチャンスを開きました。」 というのとは、いささか事情が違うようだ。