おセツさんと和一、ある月夜の出来事 ― 2024/06/11 06:59
和一は、江ノ島を出て再び江戸に戻り、山瀬琢一に事の次第を告げた。 琢一もたいそう喜び、和一の鍼療治に対する熱意を本物と認め、それから更に五年間、門弟として指導してくれた。 江ノ島での一件は、和一の鍼療治に対する覚悟を決めさせる大きな転機となった。
更に和一は山瀬琢一の勧めで入江流の鍼術を学ぶために京都へ行き、入江豊明の門人となり随従修業すること七年、鍼業を研鑽熟練し、古今の妙術を会得したのだった。
伊勢では、和一の父が亡くなり、隠居所に暮らす母親の身の回りの世話をするために、貧乏な武家の娘セツが奉公に来た。 セツは食い扶持を減らすために十五歳で嫁に行ったが、三年経っても子供が授からず婚家で辛く当られ、実家に戻っていた。 和一の母は、すっかりセツが気に入った。 和一が入江流の免許皆伝となって独立、入江流学問所を出ることになった時、母はセツを和一の世話係にと真っ先に思いついたのだった。 律儀に足しげく学問所に通う和一の手を引いて、セツは今出川通りを延々と歩いて北野天満宮に近い学問所まで付き添って行く。 和一を送り届けると、大急ぎで居宅に駆け戻り、洗濯、掃除をし、治療室に近所の山林で手折った山野草を飾ったりした。 セツは、和一の身辺一式に気を配り、その身だしなみも、いつも清潔に保っていた。
内弟子に入った少年安一から見ても、セツは和一にとって単なる使用人以上の、かけがえのない存在であるように思えた。 こっそりセツに、「どうしてお二人は夫婦にならないのですか?」と尋ねた。 セツは言下に否定した。 「奥様なんてとんでもない! 私は使用人の分際ですよ。滅多なことはおっしゃらないでくださいまし」 安一はセツからこういう話も聞いた、セツが和一に会った時「こんなに純粋な方がこの世においでになるのかと感動で胸が震えました。それまで私は人の愚かさや汚さを身に沁みて味わってきましたから、和一様に接していると何か自分の心の中の邪心までもが浄められていくような気がしたのです。それだけでもう十分なのですよ」
安一には打ち明けなかったが、こんなこともあった。 彼女が和一の元へ来て一年ほど経った日のことである。 夜更けてふと目を覚ますと隣の部屋で休んでいる筈の和一の気配がない。 和一は濡れ縁に座り込んでいて、満月に近いややいびつな月が煌々と照らす庭中を、草木の陰から虫の音が湧き上がるように響き渡っている。 声をかけようか迷っていると、「セツさんか?」という。 並んで虫の音を聞き、時間のわからぬ和一に、真上に月があるから夜更けで、満月に近い明るい月夜だと説明した。 和一が月夜の散歩と洒落込もうかというので、出掛けると一面の芒の原に出た。 芒の穂が銀色の波のように揺れ、その白銀の波間から賑やかな虫の音、マツムシ、スズムシ、クツワムシがピーヒャラヒャラリと景気の良い秋祭のお囃子さながらの音色を鳴り響かせている。 セツさんは説明がうまいなあ、月見に加えて秋祭りまで見物できたと、和一は喜んだ。 セツは夢心地だった。 ふいに和一が真面目な口調でいった。 「おセツさんには本当に感謝しているよ。何から何までありがたいと思っている」 セツは胸がドキンと鳴った。 心の臓が早鐘のように打ち始めている。 和一は続けた、「鍼治の修行を始めたばかりの頃、挫折して江ノ島の弁財天様のありがたい御加護に救われたことがある。その時、私は弁財天様に生涯妻は娶りません、鍼治の道に一生を捧げますと誓ったんだよ」
セツの胸の内で膨らみかけていた想いが一瞬にして萎んで消えた。 重苦しい沈黙がその場を支配した。
ややあって和一が砕けた調子で口を開いた。 「月見なんて何十年ぶりだろうなあ! これもおセツさんのおかげだよ」 セツは気を取り直して応えた。 「いえ、私こそ、お陰様で生まれて初めてお月見というものをじっくり味わうことができました」
帰り道、歩きながらセツは密かに心に誓った。 私は一生涯この方をお守りしよう、この方が望む道を邁進して行けるようにとことんお世話をしよう。
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