栗の名産地メルフィとフェデリコ2世 ― 2024/06/15 07:03
BSで朝ドラを見たあとの15分間、6月13日は「パクス マンジャーレ 食と平和の物語」、14日は「パクス カンターレ 歌と平和の物語」だった。 どちらもシチリア王、神聖ローマ皇帝のフェデリコ2世が関係する。 知らないことばかりだ。 「フェデリーコ2世」が『日本大百科全書』に、「1194-1250 シチリア王、神聖ローマ皇帝。ドイツ人皇帝ハインリヒ6世とシチリアのノルマン王朝の王女コスタンツァとの間に生まれる。父の死後、幼くしてシチリア王位を継承し(1198)、さらにドイツ王即位(1212)を経て1220年に帝冠を受ける。教皇に対抗して帝権の拡大を図るために、シチリア王国内の中央集権化を推し進め、絶対君主の先駆とみなされる。また文化政策の面でも、学芸を積極的に奨励して、パレルモの王宮を中心に宮廷文化の育成に努めた。なかでも、イタリアの俗語による恋愛詩を開拓したいわゆるシチリア派詩人たちの活動は重要であり、皇帝もその一員として作品を残している。[林和宏]」とあった。
フェデリコ2世は、ウイキペディアでは「フリードリヒ2世」となっている。 「歴史上の人物.com」には、「ローマ教皇に2回破門されながら、十字軍を率い、エルサレムを無血開城した」とあった。
実は『日本大百科全書』には、「フリードリヒ2世」の項目もあって、「[1194-1250]シュタウフェン朝のドイツ国王(在位1212~1250)、神聖ローマ皇帝(1220~1250)。皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コスタンツェの息子。父帝が若死にしたため(1197)、シチリアの母后のもとで育てられた。母后は息子のドイツ王位継承権を放棄、シチリア王として即位させ、教皇インノケンティウス3世を後見人に選んだ。だがウェルフ家のドイツ国王オットー4世がイタリアに勢力を伸ばし、教皇と争うに至り、1211年教皇はフリードリヒを対立国王に推し、翌年フリードリヒはドイツに赴き、シュタウフェン派諸侯に支持されてアーヘンで即位式をあげ、フランス国王フィリップ4世と結んでオットー4世を破り、支配権を確立した(1214)。しかしフリードリヒ2世の主要な関心はシチリア王国の経営に向けられ、それに専心すべくまもなくイタリアに帰還(1220)、ドイツの統治は息子のハインリヒ、ついでコンラートにゆだね、その結果、ドイツ国内の諸侯に大幅に譲歩、多くの特権を与えた。他方シチリア王国では着々と近代的統治機構を整え、学芸を奨励して、後世の歴史家から「王座の上の最初の近代人」と賞賛されたが、十字軍に不協力のかどで教皇から破門され、以後教皇との確執に悩まされた。[平城照介]」
十字軍の時代である。 西欧諸国のキリスト教徒がイスラム教徒から聖地パレスチナ、特にエルサレムを奪回するために、11世紀末(1096年)~13世紀後半、8回にわたって行なった遠征である。 宗教上の意図などのほかに、東方貿易の利益などが絡むようになって、結局、目的は達成されなかったが、イスラム文化との接触は西欧人の視野を拡大したほか、都市の成長や貨幣経済の発展などは、中世封建社会の崩壊のきっかけになったといわれる。
「パクス マンジャーレ 食と平和の物語」、イタリア南部の町メルフィは栗の名産地で、秋に開かれる栗祭には人口1万7千の町に6万人がやってくる。 栗を使った料理はもちろん、栗の酒まである。 パッパルデッレ(食いしん坊)という栗粉と小麦粉でつくる太目の麺のパスタ、豚の挽肉に栗を混ぜたものを兎の肉で包んでローストする料理、栗のティラミスまで、栗のフルコースがある。 栗のジャム、栗のクリーム、栗のシロップ漬け、栗の酒は、特産品として町を潤す。
そもそも、メルフィが栗の名産地となったのは、一人の皇帝のおかげだった。 フェデリコ2世は、シチリア王国のパレルモで17歳まで育った。 フェデリコ2世は、教養ある人物でカトリックの信徒だがアラビア語が話せ、十字軍の時代、イスラム側のアル=カーミルと戦っていたが、アル=カーミルと3年間交渉した手紙が残っていて、1229年に10年間の平和を保つという講和条約が成立した。 栗も、この時中東からヨーロッパへもたらされた。
フェデリコ2世は、メルフィ城に学者を集め、メルフィ法典を編ませた。 法典には、カトリック以外の人も保護する、貧しい人には国選弁護人をつける、栗林に家畜を入れることを禁止するなどの、規定がある。
結論、平和があるから豊かになれるということを、栗を通して、歴史が教えてくれた。
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