谷中本行寺「磬材之記」と太田道灌山 ― 2024/06/23 07:18
金文京さんの『図書』連載「東京碑文探訪」、2月号はまだ谷中本行寺で「磬材(けいざい)之記」である。 本行寺は太田道灌ゆかりの寺で、道灌の物見塚があったとする「道灌丘之碑」もある。 掛川藩主太田氏は道灌の子孫で、本行寺は太田氏の江戸での菩提寺である。 この「磬材之記」は、とても珍しい石碑で、ふつうの石碑にとっての石は碑文を刻むための素材にすぎず、主体は碑文であるのに、「磬材之記」の石は、そうではない。 磬とは、「へ」の字型の石をつるしてバチで叩く古代中国の楽器で、「磬材」は磬の材料となる石である。 儒教政治思想の要は礼と楽(がく)、かつ儒教は復古主義にして素朴を尊ぶ主義なので、石器時代の遺物であり、石をたたくだけの磬は、もっとも古くからの楽器として、楽器の王者とみなされた。
「磬材之記」を撰したのは松崎惟堂(こうどう)、熊本の農民出身で、江戸の昌平黌に学び、中年期の14年間、掛川藩の藩儒だった。 朱子学から考証学に転じた惟堂は、五経先生と号し、根本経典である五経(易、書、詩、春秋、礼)の本来の姿を復元することに努めた。 惟堂の薫陶を受けた藩主の太田資順(すけのぶ)は、その意義をよく理解し、もっとも古くからの楽器である磬となる石材を求めた。 家臣の長塩信行がようやくそれを探し出したのだが、石がとどく4日前に資順が死去したため、次の藩主、資言(すけとき)がその経緯を記した文を石に刻んで将来に伝えることを提案し、家臣一同賛同した結果が、この碑文となった。
ふつう石碑にとっての石は、碑文を刻むための素材にすぎず、主体は碑文である。 ところがこの「磬材之記」の石は、本来なら儒教が重んじる楽器である磬として治世の象徴となるべきはずであった。 貴重なのは石そのもの、碑文はつけ足しにすぎないわけで、「磬材之記」碑がとても珍しい石碑だというのは、そういうことなのである。
「道灌丘」から、すぐ「道灌山」が浮かぶ。 正岡子規が高浜虚子を後継者にしようとして呼び出して、茶店で話をしたが断られたのを「道灌山事件」という。 『広辞苑』の【道灌山】には、「東京の日暮里から田端に続く台地。武蔵野台地の縁辺部。太田道灌の館址、または谷中感応寺の開基である関長道閑の居所に由来すると名という。」とある。 『日本大百科全書』には「東京都荒川区西端の西日暮里から北区南東端の田端に続く丘陵。上野から赤羽に続く山手(やまのて)台地のいちばん高い所にあり、太田道灌の出城(斥候台)があったことから地名がおこった。眺望に優れ、また江戸時代から虫聴きの名所として知られ、よく文人が訪れた。浄光寺、本行寺、青雲寺をそれぞれ雪見寺、月見寺、花見寺とよんだのは、文人の風流好みの一例である。」とある。 落語好きは、いつも古今亭志ん生が、下を電車が通る諏訪神社のベンチで、稽古していたという話を思い出すのだ。
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