京都・天明の大火、若冲と弁蔵の君圭2025/07/11 07:08

 正月晦日の卯の上刻、鴨川の東で鳴り始めた半鐘を、若冲は帯屋町の隠居所の床の中で聞いた。 火はほんの四半時で鴨川の西、寺町松原界隈に飛び火、あっという間に仏光寺、因幡薬師といった近隣の大寺を焼き尽くし、四条通の南に迫った。 近所に住む弟子の若演が飛んできた時には、薄い煙が隠居所にまで入り込んできていた。 若演は若冲をおぶい、お志乃に袖をつかませて、避難した。 三人はとにかく北へ北へと急ぎ、とりあえず六角堂(頂法寺)の森をめざした。 皆同じことを考えたらしく、境内はぎっしり人で埋まっている。 若演が大門の陰に隙間を見つけて、若冲とお志乃を座らせ、池へ手拭を濡らしに行った時、ごおっという音とともに、息の詰まるような熱風が境内に吹き込んできた。 若冲は、激しい焔の紅蓮の旋風の向こうに、立ちすくむ弟子の姿を見た。 肩に、背に迫る焔からどうやって逃げ延びたのか、気が付けば若冲とお志乃は手を取り合ったまま、鴨川の河原に倒れ込んでいた。

 火災がようやく終息に向かい始めたのは、出火から丸一日後の二月一日朝……北は鞍馬口通から南は七条まで、応仁の乱をはるかに越える地域を焼き尽くし、天明の大火は終わったのである。 恐る恐る洛中に戻った若冲たちを待ち受けていたのは、まさに阿鼻叫喚の地獄であった。 伏見の石峰寺を仮の宿にした。 若演の行方はいっこうに知れなかったが、錦の店は焼亡したものの、幸之助たち実家の者は、奉公人まで一人も欠けることなく、壬生村に身を寄せているという。 聖護院を仮御所と定めた当今(とうぎん、光格天皇)や、青蓮院に遷御した上皇(後桜町)を筆頭に、焼け出された人々の大半は、洛外の諸村に仮住まいしている。

 洛東、下梅屋町の施行所へ若演の消息を探しに行った若冲が、赤子を抱えた大柄な男を見て、「お、お前は弁蔵やないか」。 「おまえは、若冲……。お志乃はんや枡源の衆はどうしはったんや」と低く問うた。 行き暮れたようなその態度は、かつての彼とはまるで別人である。 おおきに、皆無事や、いま、行方知らずの弟子を探すために来た。 弁蔵は乳飲み子を連れて、女房を探しに来ていた。 お前、身を寄せる所がないなら、わしと一緒に来いへんか。 弁蔵の君圭は、信じられぬと言いたげに、目を剥く。 君圭は、元日の朝、飼っていた鶏が十羽全部死んだ、そのとき、どこかで誰かが、このままでいたらあかんと言うてる気がしたんや、だっていくらあんたの絵をうまく真似ても、それは所詮伊藤若冲の贋絵、わしの名前が、それで上がるわけやあらへん、と。 若冲はふと、自分たちが過ごして来た三十余年の歳月を思った。

 赤子がまたしても顔じゅうを口にして泣き出した。 「わしの身なんぞ、案じてくれんでええ。そやけど唯一の気がかりは、まだ首も据わらんうちに母親を失うた、この晋蔵や。死んだ姉さんの縁で言うたら、晋蔵はあんたの甥。すまんけどその子をしばらく、預かっといてくれへんか。よろしゅう頼むで」 言うが早いか君圭は素早く身を翻し、瓦礫だらけの野面を一目散に駆け去った。