「八紘一宇」を知っていますか? ― 2025/08/24 07:41
三國一朗さんの『戦中用語集』に「八紘一宇(はっこういちう)」があった。 昨日書いたように、私は1941(昭和16)年4月に生まれて、次男坊だったので、「八紘一宇」から紘二と名付けられた。 三兄弟、兄は晋一、弟は晴三と、番号が付いている。 同級生には、名前に「勝」や「捷」、「征」の字が入っている人がいる。 「紘」の字を説明するのに、昔を知る人には「八紘一宇」の「紘」、糸偏にカタカナの「ナ」と「ム」を書くと言う。 よく糸偏に「広」、「絋」と間違える人がいる。 パソコンで打つのには、ピアノの中村紘子さんの「紘」と説明するけれど、中村紘子さんも古くなったかも知れない。 戦前、宮崎に巨大な「八紘一宇」の塔があった写真を見たことがあり、出羽三山の月山頂上に「八紘一宇」の碑があるのをテレビで見た。 宮崎の塔は、八紘之基柱(あめのもとはしら)、「八紘一宇」の字は秩父宮の揮毫、戦前の十銭紙幣となり、現在は「平和の塔」と呼ばれているそうだが、「八紘一宇」の部分は、どうなっているのだろうか。
そこで、『戦中用語集』の「八紘一宇」。 紀元二六〇〇年の式典で、総理大臣の近衛文麿は、天皇の「臣」を代表して、非常時を打開し、「八紘一宇」の「皇謨(こうぼ)」を「翼賛」する、と宣言した。 そして、宏く大きく限りない天皇の「聖恩」にむくいるのが国民の覚悟であると、公けに、これも「宣言」した。 「八紘一宇」の「皇謨」とは何だろうか。 三國一朗さんなどのように、昭和以前に生まれた日本人は、こうした意味のよくわからない日本語をいくつも知っていた、いや、知らされていた。 「天壌無窮」「国体明徴」なども、なんとなくフィーリングとしてはわかるが、正確な意味となると、自信が持てない。
三國一朗さんは、紀元二六〇〇年の昭和15年に高校の教室で、この「八紘一宇」の原典らしいものについて教わった記憶がある。 『国体の本義』(昭和12年5月)という内閣印刷局発行の教科書だ。 「八紘一宇」は、神武天皇が大和の橿原(かしはら)の地に都を定めたときの詔(みことのり)の中に、それがある。 乾霊(あまつかみ)という祖先の神から国(日本)を授けられたことを感謝し、子孫を正しく養い育てようと思う、そして国内をおさめて都をひらき、八紘(あめのした)を掩(おお)って宇(いえ、家)としたい……、というのだから、要するに天下を一つにしたい、これにつきるようだ。
これとまた同じことは『日本書紀』にもあり、そちらは「六合を兼ねて以て都を開き、」八紘を掩ひて而して宇と為す」(巻の三)というのだから、要するに元は一つであろう。
中国から東南アジアにかけて勢力を伸ばし、北京やシンガポールを自国の都市の一つとみなして、諸民族を統合し「大東亜共栄圏」を作ろうではないか……、田中智学(宗教家)が造語したという「八紘一宇」を昭和の時代にあてはめると、およそこんなことになったのではないか。 と、三國一朗さんは書いている。
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