「江戸城の怪人」御三卿 一橋治済の野望 ― 2025/12/26 07:09
大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華之夢噺~』で、終始最大の悪役とされ、最後は替え玉と取替えられ、雷に打たれて落命した一橋治済(はるさだ)。 替りに一橋治済となったのは、阿波蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛で、七十過ぎまで生きることになるという、ドラマは奇想天外「べらぼう」な結末となった。
9月22日に最初に放送されたという『英雄たちの選択』「「江戸城の怪人」御三卿 一橋治済の野望」は、一橋治済は「ドラマよりもっと腹黒い」と始まり、大河ドラマではよく分からなかったことが、かなりはっきりしたような気がしたので、書いておきたい。
そもそも事の始まりは、八代将軍徳川吉宗が、将軍に世継ぎとなる子がおらず、尾張、紀伊、水戸の御三家にもいない場合、将軍の後継者を決めるための手を打った。 後継を出す家を三つ構えさせたのが、御三卿である。 吉宗の三男宗武に田安家、四男宗尹(むねただ)に一橋家、九代将軍家重の次男重好に清水家。 田安家の宗武の子が定信、一橋家の宗尹の子が治済である。 治済は、自分の子・のちの家斉を将軍にしたいので、家格が上の田安家の賢丸(まさまる)・のちの定信を、早めに白河松平家の養子に出す工作を、老中の田沼意次と一緒に行う。 御三卿は、政治に直接は関与せず、子を成すのが役目で、領地は少なく、家臣も少なく、ほとんど幕府からの出向だった。
一橋治済は、息子家斉を将軍にし、家斉が成した多くの子女を全国の大名家に送り込み、将軍の父、大名たちの祖父という立場を足掛かりに、政治を思いのままに操ろうとした。 そんな野望に歯止めをかけようとしたのが、老中松平定信である。 松平定信は、「六十余州は、朝廷からお預かりしているもので、かりそめにも将軍ご自身のものと思われてはなりません」と、「大政委任論」の立場だった。 治済は、「我が家こそが将軍家を牛耳る一橋ファースト」の、血縁重視。 本能vs.理念の対立。 磯田道史さんは、一橋治済を「徳川将軍 番外編」、将軍以上に日本史に大事な人で、家光、吉宗に近いか、上回る影響を与えたゴッドファーザーだった、とした。
安永8(1779)年十代将軍家治の世継ぎ家基が急死し、田安、清水両家に後継する男子がいなかった。 天明元(1781)年治済の子、家斉(いえなり)が9歳で将軍世継ぎとなり、治済は政治に関わる機会を得る。 当時、幕政をみていたのは老中田沼意次で、一介の旗本から老中に昇進し、商業を盛んにして、そこから税を取ることで、幕府財政の立て直しを図っていた。 だが、不満の声が渦巻いていた。 田沼に近い役人が出世し、賄賂で私腹を肥やしている。 一方、農民は年貢の負担に耐えかね、庶民は米価の高騰に苦しんでいて、各地に一揆や打壊しが起きていた。
天明6年、田沼の排除が、治済の優先課題になっていった。 直接政治に関われない治済は老中小笠原信喜への書簡や、大奥の老女を介して、工作する。 天明6(1786)年8月25日、将軍家治死去。 大奥の老女野村、一橋へ参り、主殿頭(とのものかみ、意次越前守)のけしからぬことを言上、奥向きの噂で、田沼が推挙した医師で病状が悪化、急変した、と。 治済が幕閣に働きかけ、天明6年8月27日、田沼は老中を辞任する。
治済は、将軍になる家斉を輔佐する有能な人物として、松平定信を推す。 かつて治済の工作で奥州白河藩に養子に出されていた定信は、天明の飢饉に際し、会津や越後から米を緊急輸入、白河藩の餓死者は極めて少なかった。 譜代大名の間でも、定信を推す動きがあった。 天明7(1787)年4月、ついに治済の子家斉が第十一代将軍に就任する。
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