新官僚・田沼と定信、血統の一橋治済と対立2025/12/27 07:15

 家斉が第十一代将軍になって1月後の天明7(1787)年5月、事件が起こる。 天明の打壊しが、江戸、大坂、名古屋など30カ所で起こる。 当時幕閣では、大老、老中は田沼派。 御側御用取次の横田準松(のりとし)も田沼派。 大奥の老女トップも田沼派だった。 将軍へのお庭番(隠密)の「風聞書」に、田沼派の町奉行が住民の救済願いを取り合わず、米屋と結託して米の隠匿、囲米の動きがある、と報告。 横田準松は将軍に、江戸は平穏だと報告していたため、この「風聞書」が横田解任の切り札となった。

 政局が動き、天明7(1787)年6月、松平定信が老中首座と将軍輔佐を同時に拝命し、幕政の中心となり、改革政治が始まる。 そして、政策の実施は事前に治済に報告する仕組みが出来る。

 大石学さんは、吉宗は御三家より近い所で、将軍になる資格を限定しようとしたのが、御三卿の始まり、と。 磯田道史さんは、宮廷陰謀が起きやすい、将軍になったことのない将軍のお父さんが、江戸城の中に家族扱いでいる状態。 ややこしい、ゴッドファーザー。 自分の子供を通じて、幕政をインフォーマルに操縦する政治構造。 一橋が田安を超える、一橋ファーストの考え方。 御三卿は、大奥にも入れる。

 大石学さん…田沼意次は新しい時代の新しい官僚。 八代吉宗以後、従来の譜代門閥(本多、井伊、榊原)じゃない家から実力者が伸びる。 その代表が、田沼だった。 治済は不安になり、新しい官僚として、一度は白河へ追い出した定信へ目を向けて、定信を支援し始める。 磯田道史さん…スイッチが入った。 将軍にはなれないわけだから、俺の上手なように、道具として定信を使おうと、政治の天才だ。 中野信子さん…生殺与奪の権を持ち、定信は田沼を抑え込むのに適任。

 松平定信は寛政の改革を実施。 定信の本所「吉祥院歓喜天願文」、米が滞りなく流通し、値段が安定し、下々が安心して暮らせるように。 倹約令によって、幕府財政は安定する。 江戸に流れ込んだ農民を国に返し、農村復興を試みる。 「将軍家御心得十五ヶ条」を定め、諸国六十余州は朝廷からお預かりしているもので、「かりそめにも(将軍)御自身の物と思し召すまじき御事に御座候」と、「大政委任論」の立場を取る。

 歴史学者の高沢憲治さん…定信は、家斉が勝手にやらないように、老中になれない家柄の本多忠籌(ただかず)を老中格に登用する、治済にとっては目障り。

 寛政2(1790)年、治済は「江戸城二の丸に居住したい」と、家康、吉宗の「大御所政治」を目論む。 定信は断り、田安門外の空き地に屋敷をつくるのはかまわないと。

 寛政4(1792)年、確執は深刻となり、大奥の不祥事(浅草の僧に多額の金、飲酒)を利用して、定信は老女高橋をお役御免とし、治済とのパイプを断った。 治済と定信の対立は、抜き差しならぬ状態になった。