福沢諭吉と小泉信三「父の影像、母の偉大」後半 ― 2026/02/06 07:14
1894(明治27)年12月、信三が6歳の時、信吉は盲腸から腹膜炎をおこし急逝する(45歳)。 福沢が直ちに絹地にしたためて届けた「福沢諭吉涙を払て誌(しる)す」の追悼文。 「君の天賦文思濃(こ)にして推理に精し。洋書を読で五行並び下るは特得の長所にして、博学殆ど究めざるものなし。」「学林の一大家たるのみならず、其心事剛毅にして寡欲、品行方正にして能く物を容れ、言行温和にして自ずから他を敬畏(けいい)せしむるは、正しく日本士流の本色にして、蓋(けだ)し君の少小より家訓の然(しか)らしめたる所ならん。」「其学問を近時の洋学者にして其心を元禄武士にする者は唯君に於て見る可きのみ。我慶應義塾の就学生前後一万に近き其中に、能く本塾の精神を代表して一般の模範たる可き人物は、君を措(おい)て他に甚だ多からず。」「今や我党の学界に一傑を喪う。啻(ただ)に慶應義塾の不幸のみならず、天下文明の為めに之を惜しむものなり。」
小泉家では、この書を掛軸にして、母千賀は毎年信吉命日に床の間に掲げて、子供たちに読ませ、信吉を偲び福沢の恩に感謝したという。 信三は、戦時中、この書幅だけは慶應義塾の貴重品と共に疎開させた。
大黒柱を失った小泉一家は、横浜から三田に戻り、福沢の庇護を受けた。 最初は四国町の借家だったが隣家で殺人事件があり、福沢がそんな物騒な所に住ませられないと言い出し、福沢邸内の一棟に住んだ。 信三少年は福沢の毎朝の米搗きの懸け声を耳にし、庭で居合抜の白刃を振り回すのを見た。 遊び友達になった福沢の愛孫中村壮吉(長女里の子)と共に福沢に遊んでもらったり、二頭立て無蓋の馬車で上野動物園に初めてきた「カンガロオ」を見に連れて往ってもらったりした。
一年後の1898(明治31)年12月、闊達な母千賀(紀州徳川家のご典医の娘)が、(今、演説館のある)稲荷山の崖下の福沢と風呂屋の地所に、新築の家を建てて越した。 福沢家出入りの大工の棟梁金杉大五郎が建てた。 信三は幼稚舎でなく、聖坂を登って御田小学校へ通い、阿部泰蔵(明治生命社長)の子・章蔵(水上滝太郎)と同級になった。 信三は、後に章蔵の妹・とみと結婚する。 信三は、1902(明治35)年満14歳の1月、慶應義塾普通部2年に編入、8年後、当時の大学部政治科を卒業し、助手に採用されて塾に奉職することになったから、学校の鐘がなってから出かければ間に合う、朝、家を出て、午後帰るまで、東京の市街に出ることのない少年青年時代を過ごした。 テニスの選手になり、山の上のテニスコートで、冬の朝、霜除けの蓆(むしろ)を巻き、日が暮れてネットを片付ける役だった。
若い寡婦になった時、信三の母千賀の腹には4人目の子がおり、諭吉の母順には諭吉の姉三人と兄がいた。 父の影像を語った母は、女性は、偉大であった。
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