2001年、福沢協会の和歌山旅行、南方熊楠旧邸で2026/08/20 07:29

 福澤諭吉記念慶應義塾史展示館は、秋季企画展として「諭吉と熊楠―未完の二人」を、10月15日(木)~12月12日(土)に開催する。 その趣旨は、「「日本人の可能性の限界」とも呼ばれる南方熊楠(1867-1941)と、近代日本を代表する思想家・教育者である福沢諭吉(1835-1901)の両者は、直接の接点はほぼありませんでした。しかし、熊楠は在野を貫き、無位無冠、天爵の人として生きた諭吉を意識していた形跡があり、また、諭吉や慶應義塾の和歌山人脈は非常に幅広く、熊楠の生涯に影響を与えた周囲の人々との重なりは極めて厚いものとなっています。/本展では、それぞれに興味深く豊かな研究蓄積のあるこの二人の比較を通して、両者の学問観、人間観、さらにはその個性的なキャラクターなど、それぞれの人となりや智の探究に対する姿勢、目指したものを改めて描き直すことを試みます」という。

 これを知って、私が思い出したことがあった。 それは、松本烝治さんに関係することだった。 家業のガラス工場を畳んで、福沢諭吉協会の旅行に参加できるようになった2001年10月、福沢史蹟見学会「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」に参加した。 和歌山の紀州藩は、第五代徳川吉宗を始め歴代藩主が教育熱心で、大藩の実力をもって広く人材を求め、抱えては、藩の子弟の教育に当たらせてきた。 幕末、緒方洪庵の適塾から、池田良輔、福沢の一年後輩にあたる山口良蔵、塩路(崖(きし、岸)嘉一郎を召し抱えたことから、紀州と福沢の関係が出来た。 福沢が江戸で福沢塾を開くと、紀州から入塾する者があいつぎ、特に慶応2(1866)年には小泉信吉(のぶきち)、松山棟庵、和田義郎、小川駒橘、草郷清四郎ら11名が入塾した。

 というわけで、この旅行には、紀州と縁の深い小泉信吉の孫、秋山加代さんと小泉妙さんが参加していた。 三日目に田辺で、南方熊楠旧邸を訪れ、書庫も開けてもらって膨大な資料が整理されているのや、庭では熊楠ゆかりの楠、粘菌を発見した柿、普及を計った安藤みかんの木も見た。 私は、熊楠に興味があり、米山俊直著『クニオとクマグス』(1995年・河出書房新社)を読んでいたので、柳田國男が田辺へ南方熊楠に会いに行ったのは、松本烝治さんに誘われたからだということを知っていた(同書168頁からの「二人の別離まで」「一期一会」)。 その話を、松本烝治さんの姪、加代さん、妙さんご姉妹にお話したのだった。(詳細は、明日から)

 この旅行については、『福沢手帖』第111号(2001年12月)に、福沢史蹟見学会の「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」を、インチキ俳句をちりばめて、書かせてもらった。 『三田評論』8・9月号、巻頭「丘の上」長島昭さんの「育つ慶應の山林 海瀬亀太郎氏の貢献」の海瀬亀太郎さんも、この旅行に参加されていて、二日目、高野山から白浜へ高野・龍神スカイラインのバスの中で林業や福沢記念育林会の話をしてくれた。 元は林道として開拓した道を、後に和歌山県が整備したこの道路の、左側は奈良県、右側の和歌山県の山林は海まで全部海瀬さんが管理しているという。 添えた拙句は、<尾根の右「すべてわが山」ブナ黄葉>。

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