等々力短信 第1200号<等々力短信 第1200号 2026(令和8).2.25.> ― 2026/02/25 07:10
去年が昭和100年、戦後80年だったから、今年は昭和101年、戦後81年になる。 1975(昭和50)年2月25日に「広尾短信」として創刊した「等々力短信」は、ここに51年目に入り、1200号を迎えた。 2000(平成12)年末で家業のガラス工場の火を落としたので、それまで月三回5日、15日、25日に発行していたのを、2001年1月の899号から25日の月一回にした。 以後25年、この号が302回目の発行になる。
苦しい時期だった2001年4月には、多くの皆様のご支援を得て、681号~890号を収録した私家本『五の日の手紙4』を刊行することができた。 「まえがき」に、「その時、その時に、面白いと思ったことを書き付けてきた。塵も積もれば山となる。二十五年の実績が、その量に質を与えることができたか。十日に一度の発行が、たえずアンテナを張っていることを求め、そのおかげで、「等々力短信」がなければ、記録できなかったことどもを、記録してきたということだけは、いえるかもしれない」とある。
一方、1991(平成3)年3月から、パソコン通信「朝日ネット」にフォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、短信を配信するほか、いろいろなことを書いていたが、閑居生活も落ち着いてきた2001年11月29日から<小人閑居日記>を書き始め、「朝日ネット」がインターネットのブログを開設したので2005年5月14日からブログ「轟亭の小人閑居日記」にした。 毎日書いていて、ざっと9,000位にはなっている勘定だ。 ブログの「索引」から、探してもらえば、ネットでスマホでも読める。
会社の整理と清算が一段落した頃、出入りの大工さんに、「これから何をやるんですか」と聞かれた。 「何もしない」と答えた。 今年の年賀状の添え書きに「働かず×5、今がある 人生論之概略」と書いた。 言わずと知れた高市早苗総裁の「働いて、働いて、働いて、働いて、働いて参ります」を踏まえている。 「短信」と「小人閑居日記」に、何を綴ってきたか。 主なるものは、福沢諭吉と落語。 「人生論之概略」は『文明論之概略』のもじり、気持は「戯去戯来自有真」で、人生は本来すべてが戯れにすぎないけれど、この世の中を軽く見ることによって、かえって世の中に真剣に自由に全力をもって向き合うことができるという。 落語は、1968(昭和43)年の第1回から通っている落語研究会というホール落語(この1月で692回)で、近年は5人の高座をマクラから落ちまで書いているから、平成から令和にかけての落語家は、どんな噺をしていたのか、一つの記録にはなるかと思う。 まさに「戯去戯来」、何もせずに、生かしてもらっている、その暇な時間に、面白いと思ったことを綴っているのが、感謝の印である。 惚けるまで、「まさかの時」まで、続けられたら有難い。
映画『必死剣 鳥刺し』冒頭の「拍手」 ― 2026/02/23 07:03
<小人閑居日記>は、足かけ25年になるから、いろいろなことを書いてきた。 藤沢周平についても、映画は『蝉しぐれ』『秘太刀(ひだち) 馬の骨』『隠し剣 鬼の爪』『必死剣 鳥刺し』から、作品は直木賞『暗殺の年輪』、北斎を描いた『溟い海』、藤沢周平を描いたテレビドラマまで。 その中で、朝ドラ『ばけばけ』で、松野トキ(髙石あかり)の母フミを演じている池脇千鶴が『必死剣 鳥刺し』に出ていたのを「池脇千鶴の里尾、一夜一生」と特筆していたので、長くなるが、その一連を紹介したい。 まず、映画『必死剣 鳥刺し』冒頭の「拍手」と、三田の演説館での日本における拍手の起源から。
映画『必死剣 鳥刺し』冒頭の「拍手」<小人閑居日記 2013.5.27.>
5月4日に、BSプレミアムで放送された映画『必死剣 鳥刺し』を見た。 2010年、平山秀幸監督作品。 藤沢周平の原作である。 映画館で観なかったのは、主演の豊川悦司が好きでなかったからかもしれない。 桜満開の海坂藩城中、能舞台春楽殿での能から始まる。 エンドロールによると、能「殺生石」で、演じたのは梅若研能会、シテ梅若紀長。 海坂藩主右京太夫(村上淳)、側妾(そばめ)連子(れんこ)(関めぐみ)、中老の津田民部(岸部一徳)を始めとする執政の重臣たちから、物頭(ものがしら)保科十内(小日向文世)・兼見三左ェ門(豊川悦司)など家臣、奥御殿の女性たちが居並んで能を観ていた。 能が終わると、まず連子が拍手した。 すると、藩主右京太夫が拍手し、それを見て、一同が拍手した。 あとでわかるのだが、この冒頭シーンは物語の深い事情を象徴していた。 藩主は才色兼備で政治好きの愛妾にぞっこんで、藩政に連子の意見を採用するため、執政たちは口出しできず、明白な失政が表面に出てきていた。 藩財政が苦しい中、廃寺が復興され、大伽藍が出来ると、その寺を宰領したのは連子の父だった。 執政会議に出された倹約令の提案は、ことごとく否決された。 連子は藩主の執務部屋にも顔を出す。 奥御殿の経費を削った勘定方の安西(どこかで見た顔だと思ったら落語家の瀧川鯉昇)は切腹させられた。 そういう状況での、側妾の拍手に続く藩主の拍手、そして一同の拍手だった。
私は、この拍手に違和感を持った。 江戸時代に拍手はなかったはずだ、と思ったのである。 藤沢周平の原作を見たが、拍手はなかった。 「拍手は三田の演説館から始まった」と、どこかで読んだ記憶があった。 探すと、桑原三郎先生の『福澤先生百話』(福澤諭吉協会叢書・1988年)の「第七五話 三田演説館」だった。 「皆さんは、人の話を聞いた後で、よく拍手するでしょう。あの拍手も、三田演説館から日本中に広まったものなのです。」
能を観終わった人びとが、藩主を筆頭に、橋廊下を退場する。 艶やかに着飾った連子が橋廊下にかかった時、兼見三左ェ門が近寄り、柱に押しつけるようにして、その胸を小刀で刺した。 覚悟の兼見は、その場に控えた。
君側の奸(姦)を斬る<小人閑居日記 2013.5.28.>
側室に藩主がぞっこんで、藩政に口出しさせることは、よくあったようで、小説のよい材料だ。 幕府が諸大名の正室と嫡子を人質として江戸に留め置いたこと、藩主が急死して世継ぎがなければお家断絶となることが、その背景にあった。 今、宮部みゆきさんが朝日新聞朝刊に連載中の『荒神』でも、東北の香山藩主瓜生久則の側室、由良が「張り子のように中身のない女」なのに、「御館様(みたてさま)」と呼ばれて、恐れられている。 藩主の小姓、小日向直弥の家が、下手をすれば取り潰しに遭いかねない状況にある。
由良といえば、幕末薩摩の「お由良騒動」を思い出す。 側室が自分の子に殿様の跡を継がせようとすると、お家騒動になる。 薩摩では、藩主島津斉興(なりおき)・家老調所広郷(ずしょひろさと)が世子斉彬(なりあきら)と対立した。 調所は斉興の側室お由良の方の子忠教(久光)を世子としようとし、嘉永2(1849)年斉彬派の家臣は忠教暗殺をはかり発覚、切腹・遠島などの弾圧を受けた。 のちに幕府の介入で、斉興は隠居し、斉彬が藩主となる。 斉彬の急死後、久光が藩主忠義の実父として藩政を掌握し、幕末薩摩の活動の上に立つ。
山田洋次監督の映画『たそがれ清兵衛』と『福翁自伝』 ― 2026/02/21 07:09
<小人閑居日記>は、パソコン通信時代の朝日ネットのフォーラム「等々力短信・サロン」に、2001年11月29日に書き始めた。 ブログ「轟亭の小人閑居日記」になったのは、2005年5月14日からである。 まだ初期で、ブログでは読めない頃に、「『たそがれ清兵衛』と『福翁自伝』」と、「『たそがれ清兵衛』と黒澤明」を書いていた。 その時に観た山田洋次監督初の時代劇映画『たそがれ清兵衛』の原作は、藤沢周平の三作品「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人(ほいと)助八」だった。 昨2月20日までのNHK FM「朗読の世界」で、中原丈雄が最後に読んだのは、その「祝い人(ほいと)助八」であった。 <小人閑居日記>の「『たそがれ清兵衛』と『福翁自伝』」と、「『たそがれ清兵衛』と黒澤明」を、二日にわたり再録させてもらう。
『たそがれ清兵衛』と『福翁自伝』<小人閑居日記 2002.12.4.>
山田洋次監督初の時代劇映画『たそがれ清兵衛』を観た。 舞台は海坂(うなさか)藩、藤沢周平さんの三作品を原作としているから、月山や鳥海山を望む風景も、「で、がんす」という言葉も、父方のルーツの地である山形庄内の鶴岡のもので、なつかしい感じがすると同時に、観終って、父に観せたかったという思いにとらえられたのであった。
清兵衛(真田広之)は五十石取の下級武士である。 それも二十石は借上げ(諸藩が財政窮乏のため、家臣に対して知行高や扶持高をへらしたこと)だったから、実質三十石だった。 長く労咳を患って死んだ妻の治療費や葬式代のための借金を抱え、たそがれとともに酒の誘いなどには付き合えず帰宅、夜遅くまで内職の虫籠づくりをしながら、もうろくした母と幼い二人の娘の面倒をみて、ひどく貧しく暮している。 すぐ思い出すのは、中津藩の下級武士だった福沢諭吉の家の暮しである。 十三石二人扶持というから、「たそがれ清兵衛」よりも、たそがれている。 『福翁自伝』には、少年時代からなんでも自分でやり、下駄づくりや刀剣の細工の内職をしたことが書かれている。
山田洋次監督は、ほんの少し前の祖先である幕末の下級武士の暮しがどんなものか、そんな辛い環境で暮しながら、どこか凛としていた姿を、リアルに描きたかったのだという。 監督の祖父は、九州の小さな藩の下級武士の息子だったのだそうだ。 たそがれ清兵衛の親友で、宮沢りえの演じた飯沼朋江の兄、倫之丞役の吹越満は撮影前に、山田監督から『福翁自伝』を渡されたという。 吹越満は「幕末の山形では、江戸や京都で何が起っているか普通の侍はまだ気づいていないけれど、僕が演じる飯沼は情報を仕入れてきて、「このままじゃ駄目だ」と言う。 これは諭吉と同じようなものをきちんと背負っている、ということだと思うんですが。 この本は読み物として面白かったですね」と語っている。 私は監督が読ませた意図は、下級武士の暮しの方に力点があったと思うのだが、監督の念頭に『福翁自伝』があった証拠として、このプログラムにある話は面白い。
福沢諭吉と小泉信三「父の影像、母の偉大」後半 ― 2026/02/06 07:14
1894(明治27)年12月、信三が6歳の時、信吉は盲腸から腹膜炎をおこし急逝する(45歳)。 福沢が直ちに絹地にしたためて届けた「福沢諭吉涙を払て誌(しる)す」の追悼文。 「君の天賦文思濃(こ)にして推理に精し。洋書を読で五行並び下るは特得の長所にして、博学殆ど究めざるものなし。」「学林の一大家たるのみならず、其心事剛毅にして寡欲、品行方正にして能く物を容れ、言行温和にして自ずから他を敬畏(けいい)せしむるは、正しく日本士流の本色にして、蓋(けだ)し君の少小より家訓の然(しか)らしめたる所ならん。」「其学問を近時の洋学者にして其心を元禄武士にする者は唯君に於て見る可きのみ。我慶應義塾の就学生前後一万に近き其中に、能く本塾の精神を代表して一般の模範たる可き人物は、君を措(おい)て他に甚だ多からず。」「今や我党の学界に一傑を喪う。啻(ただ)に慶應義塾の不幸のみならず、天下文明の為めに之を惜しむものなり。」
小泉家では、この書を掛軸にして、母千賀は毎年信吉命日に床の間に掲げて、子供たちに読ませ、信吉を偲び福沢の恩に感謝したという。 信三は、戦時中、この書幅だけは慶應義塾の貴重品と共に疎開させた。
大黒柱を失った小泉一家は、横浜から三田に戻り、福沢の庇護を受けた。 最初は四国町の借家だったが隣家で殺人事件があり、福沢がそんな物騒な所に住ませられないと言い出し、福沢邸内の一棟に住んだ。 信三少年は福沢の毎朝の米搗きの懸け声を耳にし、庭で居合抜の白刃を振り回すのを見た。 遊び友達になった福沢の愛孫中村壮吉(長女里の子)と共に福沢に遊んでもらったり、二頭立て無蓋の馬車で上野動物園に初めてきた「カンガロオ」を見に連れて往ってもらったりした。
一年後の1898(明治31)年12月、闊達な母千賀(紀州徳川家のご典医の娘)が、(今、演説館のある)稲荷山の崖下の福沢と風呂屋の地所に、新築の家を建てて越した。 福沢家出入りの大工の棟梁金杉大五郎が建てた。 信三は幼稚舎でなく、聖坂を登って御田小学校へ通い、阿部泰蔵(明治生命社長)の子・章蔵(水上滝太郎)と同級になった。 信三は、後に章蔵の妹・とみと結婚する。 信三は、1902(明治35)年満14歳の1月、慶應義塾普通部2年に編入、8年後、当時の大学部政治科を卒業し、助手に採用されて塾に奉職することになったから、学校の鐘がなってから出かければ間に合う、朝、家を出て、午後帰るまで、東京の市街に出ることのない少年青年時代を過ごした。 テニスの選手になり、山の上のテニスコートで、冬の朝、霜除けの蓆(むしろ)を巻き、日が暮れてネットを片付ける役だった。
若い寡婦になった時、信三の母千賀の腹には4人目の子がおり、諭吉の母順には諭吉の姉三人と兄がいた。 父の影像を語った母は、女性は、偉大であった。
福沢諭吉と小泉信三「父の影像、母の偉大」前半 ― 2026/02/05 07:08
福沢諭吉 天保5年12月12日(1835年1月10日)~1901(明治34)年2月3日没(66歳)今年は没後125年。
父 百助 1792(寛政4)年~1836(天保7)年6月没(44歳)
小泉信三 1888(明治21)年5月4日~1966(昭和41)年5月11日没(78歳)
父 信吉(のぶきち)1849(嘉永2)年2月~1894(明治24)年12月没(45歳)
小泉信三著『福沢諭吉』(岩波新書)の最終章は、「父の影像―福沢の道徳的支柱―」。 諭吉が数え3歳(満1歳半)に数え45歳で亡くなった父百助の感化、若い寡婦となった母順が朝夕語る亡き父の在りし日の言行で、「父は死んでも生きているようなものです」(『福翁自伝』)。 百助は小少にして才学秀(ひい)で、野本雪巌、帆足万里に学んだが、後に中津藩の大坂蔵屋敷で経理を扱う俗務に在勤15年、その地で死んだ。 平生好学の心篤く、篤行律儀の人。 諭吉が生まれた時、大きくなったら寺に入れて坊主にすると言っていたと聞き、封建制度の下では身分の低い者は、それしか名を成す途はないからだと、父の心を思いやり、その不平を察し、また我が子の行く末を思う慈愛に感じて泣くことがある、「私のために門閥制度は親の敵でござる。」と『福翁自伝』にある。
小泉信三の父、信吉は1866(慶応2)年に福沢塾に入塾、慶應義塾や大阪舎密(せいみ)学校や大学南校で教鞭を執り、福沢の熱心な働きかけで英国に4年留学、大蔵省に入り、横浜正金銀行の設立にあたり副頭取になる。 次代の指導者として期待され1887(明治20)年慶應義塾総長(のち塾長)に就き、資金募集や学事改良、大学部創設準備などに取り組んだ。 翌年発生した同盟休校(ストライキ)事件の処理をめぐって福沢などと意見を異にして対立し、1890(明治23)年日本銀行に移り、翌年横浜正金銀行支配人となった。 だが福沢との師弟関係は破綻することなく、その後も福沢は娘の縁談や著作集の刊行、横浜正金銀行への預金などについて、信吉に相談している。

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