佐々木邦(くに)を、ご存知ですか?<等々力短信 第1204号 2026(令和8).6.25.> ― 2026/06/25 07:12
松井和男著『朗らかに笑え ユーモア小説のパイオニア佐々木邦とその時代』(講談社・2014年)という本がある。 松井和男さんはテレビディレクター、佐々木邦の孫にあたる。 丸谷才一は、亡くなる直前の最後の連載「男の小説」(『オール讀物』2011年1月号)第一回に「佐々木邦の戦前日本」を書いた。 邦を「ユーモア小説の第一人者、探偵小説における江戸川乱歩のやうな存在」とし、二人の少年の「末は博士か、大臣か」の成長物語である小説「地に爪痕を残すもの」を、「いくら秀才でも所詮は凡人で、凡人の生涯は成功し栄達を極めてもつまりはこんなものさといふ気持かもしれない」「寂しいけれど、一体に優しくいたはつてくれるので、切なくはならない。」と。
「苦心の学友」「主権妻権」「愚弟賢兄」「ガラマサどん」など邦の作品は、小市民的な家庭に取材したものが多く、良識に支えられた健康で明るい世界観は、昭和初期の大衆読者に迎えられ、ユーモア文学における佐々木邦時代をつくったといわれている。 松井和男さんは、ユーモア小説の系譜でいえば、邦につづく作家は獅子文六や源氏鶏太になるのだろうが、自分はむしろ「サザエさん」の長谷川町子や向田邦子に近しいものを感じるという。 彼女たちの描く世界が、邦の開拓した「家庭風景ユーモア小説」と重なるからだ。 国家の掛け声やイデオロギーに振り回された男たちと異なり、戦前、戦後を一貫して、生活者としてのバランス感覚を失わなかったからだろう、と。
実はこの本、邦と父・林蔵との二人の物語である。 林蔵は、安政4(1857)年三島と沼津の間の小さな村の大工の次男に生まれ、夫婦養子で佐々木家に入り、邦が3歳になった明治19(1886)年、村の大工が一念発起、ドイツ人ウィルヘルム・ベックマンの「明治の東京計画」特に帝国議会議事堂建設のために西洋建築を学ぶ技師・妻木頼黄(よりなか)以下20名の一行にもぐり込み、3年間のドイツ留学へ出発した。 「負けない男」林蔵は苦労して、語学、金箔、石膏細工、オーナメント(建築模様)を学んだ。 帝国憲法発布の明治22年に帰国、仮議事堂衆議院建設の現場監督になった。
早稲田中学を病気で中退した邦は、16歳の明治32(1899)年に青山学院に入り、35年に慶應義塾理財科予科に進むが、周りは「俗物」ばかりだったので、英語だけを熱心にやり、36年明治学院高等学部に移る。 朝日新聞に原抱一庵がマーク・トウェーンの短篇「シーザー暗殺」を訳し、山県五十雄が「トウェーンは好い加減な英語の力では読みこなせない」と批判したのを読み、邦はトウェーンを読んでみようと発奮する。 慶應で他者に出会い、自分探しに彷徨(さまよ)い込んだ邦は、トウェーンに出会って、明治学院で世界と和解し、自分の思想を鍛え、書くことを始めたのである。
捨松、ベーコン家で成長し、名門女子大を卒業 ― 2026/06/24 06:31
ホストファミリーのベーコン牧師の家では、捨松と永井繁子が一緒だと英語の勉強が進まないことがわかり、一週間ほどで、繁子はフェアーヘイヴンのアボット牧師の家に預けられることになった。 捨松は、ベーコン家の人々の暖かい愛情に包まれて、ニューヘイヴンでの生活に見事に順応していった。 二歳年上の末娘のアリスとはすぐに打ち解け、姉妹のように仲良くなった。 近所に同じ年頃の遊び友達もたくさん出来、とくに向かいのエール大学のホイットニー教授の娘マリアンとは毎日のように誘い合っては一緒に勉強したり遊んだりした。 捨松にとって幸運だったのは、生来の素質に加えて、あの広いアメリカの中で、最も教育文化の高いニューヘイヴンという小さい町の、しかも質素で信仰心の篤いベーコン家に預けられたことである。 この恵まれた環境がなかったならば、捨松は知性に富んだソフィスティケートな娘には成長していかなかったであろう、と久野明子さんは書いている。
1875年9月、16歳の捨松は、無事近くの男女共学の公立高校ヒルハウス・ハイスクールに入学し、自由な高校生活を送る。 19歳になった捨松は、1878年9月ニューヨーク州ポープシキーの名門女子大学ヴァッサーカレッジに、永井繁子とともに入学する。 1865年の開校以来13年、初の東洋からの留学生だった。
捨松は、ヴァッサーで過ごした四年間の寮生活をこよなく愛した。 成績は、常にトップクラスで、二年生の時にはクラス委員長に選ばれている。 捨松の同級生たちは、捨松の死後、そのゆかりの品を集めて、同窓会館の中に「大山公爵夫人メモリアム・ルーム」をつくった。 1881年の春、捨松、梅子、繁子のもとに、日本政府から帰国命令が届いた。 捨松は、あと一年で学士号が、梅子もあと一年で高校卒業の資格が得られる、二人は留学期間延長を願い出て、認められる。 繁子は、ヴァッサーの芸術学部を8月に卒業したので、帰国した。
1882年6月、捨松は十人の卒業生代表の一人に選ばれ、見事な刺繍の着物姿で「イギリスの日本に対する外交政策」という演説をした。 列強によって取り決められた治外法権の内容を説明し、貿易取引でも有利な立場にあるが、日本はイギリスやヨーロッパ諸国に抵抗し、けして植民地にはならないと述べて、英国から独立したアメリカ国民の愛国心をくすぐり、日本の国への同情を集めた。
捨松は、その後2か月間、ニューヘイヴン病院付属のコネティカット看護婦養成学校に入学した。 1882(明治15)年10月、足掛け12年間のアメリカ留学を終えた捨松と津田梅子は、ニューヨークを発っていよいよ帰国の途についた。 すでに捨松は23歳、梅子は19歳になっていた。
維新の負け組、幕臣の幼い娘、アメリカ留学へ ― 2026/06/23 07:20
私は、2022年にテレビ朝日で、広瀬すず主演のドラマ『津田梅子―お札になった留学生』を見て、3月25日の等々力短信 第1153号に「津田梅子の父、仙」を書いた。 そこには、こう書いていた。 「明治4(1871)年の北海道開拓使の女子留学生募集には、なかなか応募する者がなく、維新の負け組、会津の家老山川家の捨松が、一旗揚げるべく留学、後に大山巌と結婚して、鹿鳴館などで活躍する話は聞いていた。 だが、6歳の津田梅子を10年間のアメリカ留学に送り出した父親のことは知らなかった。 ドラマでは(伊藤英明)、東京近郊に住み、農業などをやっていた。 梅子の父、仙も、冷や飯組の幕臣だった。 天保8(1837)年佐倉藩士の家に生まれ、藩校成徳書院で学び、藩主堀田正睦の洋学好きもあり、藩命でオランダ語、英語を学び、江戸の蘭学塾で洋学、砲術、森山栄之助に英語を学び、文久元(1861)年外国奉行の通訳に採用された。 慶応3(1867)年、小野友五郎の軍艦引取り交渉の遣米使節で、福沢諭吉、尺振八と三人が通訳として随行した。 津田仙はクリスチャン、明六社社員、初めて西洋野菜を育て、通信販売も初。」
岩倉使節団に同行して派遣するべく、北海道開拓使(黒田清隆長官)の女子留学生募集に応募したのは、吉益亮子15歳、上田悌子15歳、山川捨松12歳、永井繁子9歳、津田梅子8歳の5人だった。 みな明治維新で敗者となった幕臣の娘で、維新後、親達は薩長閥の色濃い新政府の下級官吏として日の当たらない生活を強いられていた。 西洋体験や外国事情に明るかった親達は、近い将来に西洋の学問や技術を日本が必要とする時が必ず来る、それまでに娘をアメリカで教育させて、薩長に見返してやろうという強い思いがあった。
会津戦争に敗れた会津藩は、青森の荒れ野の斗南に転封され、藩士山川家は、11歳の捨松(当時の名は咲子)も母唐衣や姉達と田名部へ移住した。 長兄浩は藩の指導者として自らすすんで粗衣粗食の生活をしていたため、母親と相談して一番下の捨松を箱館へ預けることにした。 12歳になった捨松のもとを兄浩が訪れ、これから東京へ行き女子官費留学生として10年間アメリカでみっちり学問をするのだ、と言い渡した。 長兄浩とは15歳も齢が離れていたが、会津戦争以来離ればなれになっている齢の近い次兄健次郎がアメリカに留学していて、その兄に会えること、それにお国のためになるならばと、捨松は直ちに出発の準備にとりかかった。 上京の途中、母や姉達に別れを告げに、田名部に立ち寄ると、母唐衣はお国のために愛する娘を10年も遠い異国に旅立たせなければならない切ない気持を込めて、幼名咲子を「捨松」と改名した。 私はお前を“捨”てたつもりでアメリカにやるが、お前が立派に学問を修めて帰って来る日を毎日心待ちにして“待”っているよ、と気持を二字に込めたのであった。
横浜を出発して2か月、岩倉使節団が首都ワシントンに到着したのは、1872年2月29日(旧暦明治5年1月21日)であった。 それからの条約改正交渉は、天皇の全権委任状を伊藤博文と大久保利通が日本に取りに戻る失態もあり、4か月余りかけて不成立、使節団は次の訪問地イギリスへ向かった。 5人の女子留学生は、森有礼弁務使の書記官チャールズ・ランメンの世話になりジョージタウンの家で、英語の勉強やピアノのレッスンを受けた。 吉益亮子と上田悌子は、体調を崩し精神状態が不安定になったので、10月末に帰国することになる。 残る三人、捨松と永井繁子は、コネティカット州ニューヘイヴンのレオナルド・ベーコン牧師の家に、一番年下の津田梅子はチャールズ・ランメン夫妻のところに引き取られることになった。
「日本初の女子留学生 大山捨松のチャレンジ」 ― 2026/06/22 07:11
19日は、慶應義塾3高校(女子、日吉、志木)の新聞編集者の集い「ジャーミネーターの会」が、三田キャンパス北館のファカルティクラブであった。 私は何年ぶりかの参加だった。 少し早く行って、前日始まった慶應義塾史展示館の春季企画展「福澤諭吉の臨終―『独立自尊』の誕生」を覗く。 明治34年元旦の揮毫「独立自尊迎新世紀」や、福沢が「戯去戯来」について自ら孫に「お祖父さん記して中村壮吉くんへ」と記した書を見た。
「ジャーミネーターの会」、講演は久野明子さんの『日本初の女子留学生 大山捨松のチャレンジ』。 久野明子さんは、大山捨松の曾孫で、昭和39年塾文学部卒、現在日米協会副会長。 昭和39年卒といえば、私と同期の105年三田会だが、まったく知らなかったので、名簿を見たら文学部西洋史学科だった。 講演後、同期だとお話すると、一年上なのだがアメリカに留学したので105年三田会、104年三田会の名簿にも載っているそうだ。
朝ドラの『風、薫る』を一緒に見ている家内が常々、多部未華子演じる大山捨松が、自宅でも鹿鳴館などと同様に洋服に帽子まで被っているの、おかしいと言っていた。 そこで、そのことを久野明子さんにお尋ねすると、「着物、着物」、朝ドラにはときどき違和感があるそうだ。 久野明子さんの著書『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生』(中公文庫)に、たくさんの写真がある。 実は、渋谷区隠田(原宿)の大山巌邸は第二次大戦の空襲で焼失、写真や手紙や日記など多くの資料が失われたため、これらの写真にはアメリカで発見された写真が多いのだそうだ。 その中に、明治33年、女子英学塾設立のため来日したアリス・ゴードンと、津田梅子、瓜生繁子とのもの、明治37年、日露戦争出征の日、大山邸で大山巌と子供たちとのものがある。 両方とも、大山捨松は「着物」姿である。
久野明子さんは、この本を、「鹿鳴館の貴婦人」「鹿鳴館の華」として名高い大山捨松でなく、副題の「日本初の女子留学生」としての大山捨松の「チャレンジ」を、ぜひ伝えたいために書いたという。 講演で、その発見の物語を話してくれた。 それは、明日から。
コメは余っても、値段が下がらない、その裏に ― 2026/06/21 07:39
朝日新聞の『揺れるコメ改革 減反は何をもたらしたのか』の最終回、「下がったと言うけれど、コメの値段は高いままで変わっていないと感じます」「本当にコメは余っているのでしょうか」という4人暮らしのパート女性の嘆きから始まる。 米価が高騰してからは、銘柄米でなく、価格が安いブレンド米に切り替えたという。
令和の米騒動から1年余、コメをめぐる需給状況は様変わりした。 需給を示す物差しになる民間在庫量は、昨年6月末は155万トンだった。 農水省の予測では、今年6月末には221万トン~234万トンに積み上がる見通しだ。 1年で、過去20年で最低レベルに縮んだ在庫が、過去最大級に膨れる勢いだ。
経済原理に基づけば、米価は急落するはずだ。 だが、実際にはそうはなっていない。 ピークから下落しつつあるものの、2千円強だった2024年4月の倍近くのままだ。
鈴木憲和農水相は、「コメの価格はマーケット(市場)で決まるべきだ」と静観の構えだ。 だが、コメでは多数の買い手と売り手が競りを行う透明性の高い市場が機能していない。 卸売業者がコメを融通し合うスポット市場や大阪・堂島の先物取引所などがあるものの、取引量は年700万トン超の消費量全体の1割あるかどうかの規模だ。
流通の大部分を占めるのが相対取引だ。 交渉力の強い農協の意向が反映されやすい構図で、あるコメ卸大手の担当者は、「コメの適正価格がわからない」と話す。
市場で米価を決める構想は、古くから政府内で検討されてきた。 60年代後半に入ると、コメは慢性的に余るようになり、国を通さずに売買できる自主流通米制度がもうけられた。 95年には食管制度が廃止された。 こうした国のコメへの統制が緩和される度に、農水省は、市場への整備を進めようとした。 だが、市場は整備されなかった。
農水官僚として長くコメ政策に携わった針原寿朗・住友商事顧問によると、2005年には、強い政治力がある農協の全国組織JA全中の反対で、先物市場の創設が見送られたという。 一方、自民党の森山裕・元幹事長は、「生産者側が投機的な取引がなされることを不安視しているのも事実だ」と慎重な姿勢を見せる。
令和の米騒動は、農水省が必要以上に生産量を抑制し、コメが足りなくなって起きた。
コメの需給の調整は、市場を用いた別の方法でも実現しうる。 たとえば。先物取引の活用だ。 先物取引で決まる1年後の米価が指標として定着すれば、農家はこの米価をもとに、生産量を決められる。
コメ政策は農家を支持基盤とする政治の力でもゆがめられてきた。 いまの農水省は、市場機能の強化に及び腰だ。 今年4月に国会に提出した食糧法改正案では、農水省が取引所を設置できるという規定をわざわざ削除した。 「コメはある程度自由に取引ができているなかで、公的関与が強い市場は必要ないと判断した」(農産局企画課)という。
半世紀にわたる減反政策で、国の補助金頼みのコメ作りが定着し、農家の意欲はそがれた。
宮城大の大泉一貫名誉教授(農業経営学)は、「農家一人一人が市場価格を見ながら作付けをする時代に変わっていく必要がある」と指摘し、「国が需給を調整するいまの仕組みを続ければ、いずれ、米騒動が繰り返されることになるだろう」と言う。
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