福沢諭吉の「新作落語」「漫言」ジョーク集『開口笑話』2025/02/10 06:57

 と、いうわけで、私のやった雑談のプリントである。

福沢は新作落語も作っていた。 「鋳掛(いかけ)久平(きうへい)地獄極楽廻り」(明21.6.17) 散憂亭変調 口演 としてある。 鋳掛屋の久平が死んで冥土へ行くと、かつて懇意だった遊び友達の吉蔵が、シャバのお店での帳付の特技を生かし、無給金食扶持だけながら閻魔様の帳面をつけていた。 吉蔵に話を聞き、極楽を覗かせてもらうと、大入り満員で、蓮の葉の長屋にギュウ詰めになって、みんな退屈している。 近頃、シャバで教育が始まり、人に正直の道を教えたからだという。

 福沢は明治15(1882)年に『時事新報』を創刊し、それから死ぬまでの20年近くの間、ずっと今日の「社説」のような文章を書き続けた。 その量は膨大で、『福沢諭吉全集』21巻中、9巻を占めている、その新聞論集の中に、「社説」と平行して「漫言」307編がある。 福沢は、奔放で多彩で茶目気タップリな「笑い」の文章を創造し、その戯文を楽しみながら、明るく、強靭な「笑い」の精神で、時事性の濃い社会や人事全般の問題について、論じている。 「漫言」は、福沢にとって文明開化の有力な武器。 「不偏不党」「独立不羈」を旗印にした「社説」と、笑いを看板にした「漫言」というコラムはワンセット。 「社説」が豪速球なら、「漫言」はスローボールや変化球で、政府の言論規制、発禁や罰金から逃れる。(福沢生前の発禁は5回だけ)

 「漫言」の一例を挙げる。 創刊4日目の「妾の効能」(明15.3.4) 英国の碩学ダーウヰン先生ひとたび世に出てより、人生の遺伝相続相似の理もますます深奥を究めるに至った。 徳川の大名家、初代は国中第一流の英雄豪傑で猪の獅子を手捕りにしたものを、四代は酒色に耽り、五代は一室に閉じ篭り、七代は疳症、八代は早世、九代目の若様は芋虫をご覧になって御目を舞わさせられるに至る。 それが十代、十五代の末世の大名にも、中々の人物が出る由縁は何ぞや。 妾の勢力、是なり。 妾なるものは、寒貧の家より出て、大家の奥に乗り込み、尋常一様ならざる馬鹿殿様の御意にかない、尋常一様ならざる周りの官女の機嫌をとり、ついに玉の輿に乗りて玉のような若様を生むものなれば、その才知けっして尋常一様の人物ではないのは明らかだ、と。

 欧米ではスピーチはジョークを入れるのが必須。 欧米での社交術の重要部分をなすジョークが、日本では無視されてきた。 明治二十年代に早くもこの風潮に気付いた福沢諭吉は、長男一太郎訳で『開口笑話』という英和対訳のジョーク集を出して啓蒙に乗り出している。

上大崎の常光寺「福沢諭吉先生永眠之地」2025/02/09 08:01

 本芝公園から、鹿島神社の前を通って、最近は国道沿いから横道に移った西郷隆盛・勝海舟江戸開城会見記念の碑へ。 鹿島神社は、常陸の本社から祠(ほこら)が帰しても繰返し漂着するので祀ったと伝わる。 海から寄せ来る神の例で、芝の漁業のありようを示すという。 正面左に芝浜囃子の碑があり、揮毫は寄席文字の家元橘右近で、地元出身だそうだ。

 都営地下鉄三田線の三田駅から白金台へ行き、果物屋で曲がって、いつもの道を常光寺へ。 常光寺の玄関、両柱に「三田あるこう会様」「二月三日 福翁忌」と掲げてあり、大黒様(ご住職の奥様)が集合写真のシャッターを押して下さった。

 『福澤諭吉事典』「常光寺」の項に、「昭和51(1976)年に常光寺が、墓地は浄土宗の信者に限るという管理規定を制定したことをきっかけに、再び福沢家で墓地移転が検討され、「何か不都合が生じたら菩提寺に改葬するように」と福沢が息子たちに伝えていたという話から、善福寺への改葬が決められた。/52年5月22日に墓を発掘したところ、地下4mの棺から屍蠟化した福沢の遺体が発見され、新聞各紙でも話題となった。保存を求める声もあったが、福沢家と慶應義塾で協議し、当初の予定どおり火葬され、福沢夫妻の遺骨は善福寺に移されると同時に、福沢家の墓がある多磨霊園にも分骨された。翌年5月、常光寺の福沢埋葬地跡に「福沢諭吉先生永眠之地」と刻まれた記念碑が建立され除幕式が行われた。」とある。

 なお、類似の話がある。 この日、先に行ったオランダ公使館のあった西應寺だが、俵元昭さんの『港区史跡散歩』によると、越前松平家の菩提寺で、昭和46(1971)年に墓地の改葬のさい、同家白河時代の藩主基知(もとちか)の母、三保(享保12(1727)年死去)の遺体がワクス状態で発見され、貴重な医学的事実として慈恵医大解剖学教室に冷凍脱湿保存されているそうだ。

 目黒駅近くの昼食場所、しゃぶしゃぶ「温野菜」に行く途中、福沢家が下級武士だったという話になり、中津藩奥平家は何万石だったかと聞かれたが、わからなかった。 あとで調べたら、十万石だった。 昼食後、命日なので福沢先生にまつわる講話をと、前日に宮川幸雄会長に頼まれていたので、雑談ならと断わり、福沢先生のユーモアについてしゃべらせてもらった。 話下手なので、一応プリントを配った、タイトルは「福沢諭吉の「新作落語」「漫言」ジョーク集『開口笑話』」。

本芝公園は「芝浜」、落語「芝浜」2025/02/08 07:02

 港区伝統文化交流館から田町駅の方へ向かい、JR線路の下のトンネルをくぐる。 昔は、JR線路を境にして、外側は海だったわけで、このあたりが「芝浜」で、トンネルを出ると本芝公園がある。 本芝公園は、昭和30年(1955)代末ごろまで、海からの入堀で漁船の船溜りだった。 湾内の小型の魚などが水揚げされる雑魚場(ざこば)と呼ばれた「芝浜」の名残りだった。 芝海老の名や、小魚を芝肴(しばざかな)という語もここから生まれた。 ここが最初の魚市場で、江戸の人口が増え需要が増加、家康が佃島に漁師を呼び、日本橋に魚河岸を開いたという。

 落語の「芝浜」は、これを聴かなければ年を越せないというぐらいの、年末の大ネタだ。 従来、三遊亭圓朝が、「酔っ払い・芝浜・財布」でまとめた「三題噺」とされてきたけれど、『圓朝全集』に載っていないことなどから、疑問視するむきもある。 それはともかく、入船亭扇遊が演じた「芝浜」を、私の聞き書きで聴いていただこう。

「お前さん、起きておくれよ」。 こんだけ休んじまってんだから、今日ァ、魚勝でござんす、なんて行っても、ほかの魚屋が入ってるんだい、駄目だよ、なんて剣呑(けんのみ)食って、帰ってくるのがおちだ。 飯台(はんでえ・盤台)は、糸底に水が張ってある、包丁は、お前さんもそこまで料簡がくさってないとめえて、ちゃんと研いで、蕎麦殻ンの中へつっ込んであるから、獲れ立ての秋刀魚みたいにピカピカ、草鞋は、出てます、仕入れの銭(ぜに)は、馬入(ばにゅう)に入ってるよ。  (安藤鶴夫さんの『落語鑑賞』の語釈によれば、「剣呑(けんのみ)を食う」の剣呑は、相撲の「剣の峰」土俵の俵の頂上で、けんつくに同じ。言葉も荒々しくつっけんどんに叱られること。 「馬入(ばにゅう)」は、肩にかついだ天秤棒の、先にさげた盤台のまたの名。魚を入れる。)

 磯っ臭せえ匂い、生き返ったようだ、切通しの鐘か、やっぱりいいな。 (一ッ時早く起こされて、行った芝浜で皮の財布を拾い、慌てて家へ。)

汚たねえ財布だ、二分金ばかり。 数えてみな。 チュウチュウタコカイナ、チュウチュウタコカイナ、手が震えて、数えられない。 ヒトヨヒトヨフタフタ、ヒトヨヒトヨフタフタ、四十二両あるぜ。 早起きは四十二両の得、運が残ってたんだ。

「お前さん、起きておくれよ」 今、聞こえるよ、切通しの鐘、明け六ツだよ。 悪い夢、見たんだよ。 夢かな。 夢、だーよー。 俺はガキの時分から、はっきりした夢見るんだよ。 銭を拾って来たのは夢で、長屋の連中を集めて飲んだり食ったりしたのは本当かい。 あの勘定、おっつかねえだろう、死のうか。 なにをいってんだよ、お前さん、しっかりしておくれよ、一生懸命働けば、なんとかなるよ。 借金も、あの金もか、おっかあ、助けてくれ、俺は酒をやめる、家のことは頼むよ、これから河岸へ行く。

 魚勝の料簡が、すっかり変わった。 お酒というものは、誰かが止めてくれるのを待っているものだ、私(扇遊)が言うのだから間違いない。 とことんまで落ちると、何かのきっかけで、自分が変わる。 我精に(骨身を惜しまずに)働く、もともと腕のいい魚屋だから、お得意も戻る。 やがて表通りに小さな店を出し、若い衆の二、三人も使うようになる。

三年たった大晦日。 おかみさんは、若い衆をみんな湯に行かせる。 湯から帰った勝五郎、家の中が明るくなったのに気付く。 畳替えしたんか、いいな、畳の匂いがたまらねえな、昔っからよく言うな、畳の新しいのと、かかあの……かかあは古い方がいい。

 もう借金取は来ないし、お支払は全部済んでいるよ。 こんな大晦日は、初めてだ。 何年前か、俺が押し入れに隠れていて、出た途端に、米屋の番頭が忘れ物をして戻ってきやがった。 お前が、風呂敷を頭からかぶせた。 米屋は、寒いですね、風呂敷も震えてますよって、言いやがった。

 雪が降ってきやがったのか、さらさら音がする。 笹が触れ合っているんだよ。 そうか、湯の帰ぇり、星が降るようだったっけ。 酒の飲める奴は、いいだろうな。 お前さんに、見てもらいたいもの、聞いてもらいたいことがある。

 大家さんと相談して、夢ということにした皮の財布の四十二両、前からお下げ渡しになっていた。 今日言おうか、明日言おうかと思って…、すまなかったねえ、私はこれで気が済みました。 ぶつなり、蹴るなり、気が済むようにして下さい。

 手を上げてくれよ、いいから手を上げてくれよ、おっかあお前ぇはえれえなあ、銭を使っちまって、お上に知れりゃあ、よくて遠島、お情けで佃の寄場送りだ。 墨入れられて、今頃はコモ被って震えてなけりゃあならなかった。

 怒られたあと、機嫌が直るように、お酒の用意がしてあるんだよ。 私が飲んでおくれってんだから、いいじゃないか。 好きなものも、こしらえてある。 そうですか、本当に飲んでもいいのか、俺じゃないよ、お前が飲めと言ったんだよ、ありがてえな。 いいや、よそう、また夢になるといけねえ。

西郷隆盛・勝海舟江戸開城会見、旧芝浦花柳界の見番2025/02/07 07:02

西應寺

 「さつまの七曲がり」の終わりに、西應寺へ行く。 創立を応安元(1368)年、開山は北条時頼の伯母明賢尼と伝え、近世には家康から寺領を給された。 幕末には最初のオランダ公使館となって、初代クルチウス公使らが滞在したが、関係史料は薩摩藩邸焼き討ち事件で類焼して失われた。 この後、西郷隆盛・勝海舟江戸開城会見記念の碑へ行ったが、俵元昭さんの見解が、若い時に石井孝著の岩波新書『明治維新の舞台裏』を読んで知った、幕末の歴史を補強するものだった。 江戸無血開城は、倒幕を目的に進軍して来た官軍に認められるはずはなかったが、勝の機略に会って譲った。 腹芸というよりは、江戸っ子ふうにいえば、わかっていながらのおとぼけだったと思う。 その背後の外国勢力の圧力も考慮されていたに違いない、というのだ。

 西郷・勝の会見は、慶応4(1868)年3月14日の本会談が記念碑のある薩摩藩蔵屋敷(正確にいえば蔵屋敷門前の抱(かかえ)屋敷という薩摩藩が買い求めた町家)と、その前日には品川駅前、高輪の以前ホテル・パシフィツク東京があった場所、薩摩藩下屋敷で行われた。 二つの会見場所の真ん中あたりに、両者の背後勢力である英仏の両公使館にあてられた寺があったのである。 三田あるこう会で、2020年9月6日に高輪ゲートウェイ駅から行った東禅寺がイギリス公使館、昨年2月3日に行った「御田」の済海寺がフランス公使館だった。 薩摩藩邸焼き討ち事件で焼け出されたオランダ公使館は泉岳寺近くの寺に移ったそうで、オランダの圧力もあったのだろう。

 西應寺は、みなと幼稚園を併設した、近代的な珍しい建物だった。 西應寺から芝4丁目の交差点へ出て、JRのガードをくぐって、右側へ進み、港区伝統文化交流館(旧協働会館)へ行く。 昭和11(1936)年に芝浦花柳界の見番として建設された、都内に現存する唯一の木造見番建造物だそうだ。 戦後は、東京都の港湾労働者の宿泊所として使われていた。 お仲間の中に、慶應中等部で先生から、田町駅の向こう側へは行かないようにと、何度も言われたという人がいた。 見学中、「見番」と「検番」の違い、「三業地」とか「岡場所」とかいう言葉が話題になった。 私は「検番」には、検査の意味もあるのかなどと出まかせを言ったが、「見番」と「検番」は同じだと、スマホで調べてくれた人がいた。 それぞれの言葉を漠然と捉えていたので、帰宅して辞書などを見る。 「見番・検番」は、料理屋・待合茶屋・芸者置屋の三業組合の事務所の俗称。遊里で芸者を登録させ、客席に出る芸者の取次や玉代の計算などの事務を取り扱ったところ。 待合茶屋…客が芸妓を呼び遊興する茶屋。 「三業地」は、料理屋・待合茶屋・芸者置屋の三業種が営業を許可された特定の地域。 「岡場所」は、吉原にたいして、「傍(おか)」、すなわち脇の場所の意。官許の吉原に対し、非公認の深川・品川・新宿などの遊里。

三田あるこう会、「芝」を歩く2025/02/06 07:04

 2月3日は、福沢諭吉の命日で、三田あるこう会は、昭和52(1977)年に墓所が移された元麻布の善福寺でなく、当初の墓があった上大崎の常光寺を参拝するのが恒例になっている。 会長の宮川幸雄さんの当番で、第574回例会のタイトルは、「「芝」から常光寺参拝」となった。 都営地下鉄三田線の三田駅、福祉会館方面改札集合、ここは私が三田キャンパスへ行くときに使っている場所だ。 しかし、いつもはエレベーターでNEC本社横に出てしまうので、NEC本社正面に出るエスカレーターは初めて乗った。

 日比谷通りに出ると、一面の高いビルである。 この付近一帯は、戊辰戦争の発端になった慶應3年12月25日の薩摩藩邸焼き討ち事件のあった薩摩藩上屋敷の場所である。 芝3丁目の信号を左折し、三井住友信託銀行の前を通って、右折すると「芝さつまの道」に出る。 三井住友信託銀行で思い出した、俵元昭さんの『港区史跡散歩』(学生社)に、薩摩藩邸焼き討ち事件の跡地は、明治になって通称薩摩っ原(のちに電車の停留所名)と呼ばれていて、薩摩出身の松方正義(のちの蔵相首相)の実兄と木村荘平がもっていたが、負債の担保になっていて三井財閥を中上川彦次郎が支配していた時代に三井が買い取った、とあった。 この一帯に工場のあった日本電気(NEC)は住友系だから、三井との関係でこの地を占めた訳ではなかったのだろう(まさか三井住友になるとは…)。

 「芝さつまの道」の案内板にある江戸の切絵図を見ると、薩摩藩上屋敷は広大で、福沢諭吉が明治4年に買い取って新銭座から移転した島原藩邸や、その隣の伊予松山藩邸(松方正義邸→イタリア大使館)にも、接している。

 「芝さつまの道」から、日比谷通りを渡って右折、昔と場所が変わった戸板女子短大(戸板康二さんの戸板だとは、最近その蔵書が保存されていると聞くまで知らなかった。)の前を通り左折して、「さつまの七曲がり」へ行く。 江戸に入る主要な場所で、薩摩藩上屋敷を警戒する意図もあったのだろう、防御の為に直線を避けている。 昔のままの「曲がり」が残っているのが、可笑しい。 いざの時の防御のために宿場に寺を集めていたことを、神奈川などで聞いたことがある。 この付近にも、寺が沢山集まっているのだが、俵元昭さんの前掲書によると、中世芝村以来の寺院群で、徳川家康入部後の建立ではない。

 このあと行った芝4丁目の大きな交差点で、第一京浜と交わる道路が、江戸時代初期以前の古川で、道はそれを埋め立てたものだそうだ。 明治の半ばまで入り堀の水路が残り、その先のJRのガードを海の方へくぐった先芝浦1丁目の「重箱堀」はその名残りという。 この中世以前の古川河口付近には、当時江戸湾内でも有数の水運漁業の集落が存在し、その由来を物語るのが中世以来の寺院や文書の記録の伝承だそうだ。 明治時代には、このあたりに東京初の海水浴場を、鐘ヶ江清朝という蘭方医が、病気療養や健康増進のために開いた。