敗戦直後、ラジオが生活に占めた位置の大きさ ― 2026/03/19 07:10
鴨下信一さんの『誰も「戦後」を覚えていない』の、「ラジオ・デイズ それは〈ごった煮〉の文化だった」は、昭和20(1945)年から昭和25(1950)年までを扱っているから、私の知らない番組と知っている番組の両方がある。 芸能の復興の速さは、敗戦日本の潜在的「力」の表れだった。 ラジオには、いまのラジオからは想像も出来ない世界がそこにあった。 この時期、NHKしかなかったが、その活気、豊かさ、日本人の生活の中に占める位置の大きさ――がまるでちがう、という。
もちろんまだジャーナリズムとしての機能を発揮出来る状態ではなかった。 GHQはさまざまな要求をCIE(民間情報教育局)を通じてつきつけたし、番組の製作もした。 昭和20年12月9日から3か月の『真相はかうだ』(当然私の知らない時期。タイトルも旧仮名だ)は、その代表で、占領軍の直接製作、満州事変以来の日本軍部の隠蔽された悪行の真相や、南京大虐殺、バターン死の行進を扱った。
天気予報は、8月15日から一週間たった8月22日に復活、同じ日に慰安娯楽放送も再開された。 軽音楽や流行歌の復活は9月9日。 9月にはもう、杉山ハリスの『実用英語会話』がはじまり、翌21年2月1日からは平川唯一の『英語会話』がはじまった。(これはテーマソングを私も覚えていた。2022年には朝ドラになった。『カムカムエヴリバディ』の森山良子<小人閑居日記 2022.4.14.>参照)
「メディアというより伝言板だったラジオ」。 『復員だより』は知らないが、『尋ね人の時間』は知っている。 「昨日もスケソウダラ、今日もスケソウダラ、明日も」の『配給だより』を知っているのは、『日曜娯楽版』を聞いていたからか。 『~の時間』、『~に送る夕(ゆうべ)』と名付けられた番組が多く、『農家の時間』『婦人の時間』『療養の時間』、『農村に送る夕』『漁村に送る夕』『炭鉱に送る夕』などがあった。 私が記憶しているのは『人権の時間』、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で始まり、切羽詰まった音楽にのせて、「〇〇労働基準監督署は、……」と「労働基準法」など労働三法の趣旨を、ケーススタディで紹介する番組だった。
昭和21年4月10日の総選挙のあと、20日に第一回が放送された『放送討論会』は、テーマが〝国民は新議会に何を期待すべきか〟、二回目は〝幣原内閣は存続すべきか〟、三回目は〝食糧問題の解決はどうすればよいか〟で楠見義雄(農林省食糧管理局長官)、平野力三(日本社会党)、伊藤律(日本共産党)が出席した。 司会は河西三省アナ、進行のさばきが名人芸だったという。 昭和20年9月29日からの『街頭にて』は、翌年5月『街頭録音』になってからのを覚えている。 この司会で一躍花形アナとなったのは藤倉修一だ。
鴨下信一さんが忘れられないという『東京裁判判決の生中継』は、昭和23年11月12日だった。 小学1年生だった私も聴いていた。 「起訴状中の訴因に基づき極東軍事裁判所は、被告〇〇を絞首刑に処す」「デス、バイ、ハンギング」という宣告を覚えて、繰り返しやっていた。 Death by Hangingが、直截で残酷な言葉だということは、後に知る。
出陣学徒壮行会、和田信賢と志村正順 ― 2026/03/18 07:09
ラジオ放送による「電波戦」が始まる<小人閑居日記 2023.10.13.>
ドラマ『アナウンサーたちの戦争』、「言葉には力がある。言葉で世界を変える。それはラジオ。」と始まる。 災害の危険をいち早く知らせて、人を守るアナウンサー、声が兵器に変わっていく。 昭和14(1939)年5月、日本放送協会は愛宕山から日比谷の新会館に移り、情報は同盟通信社に依存することになった。 翌年12月には、情報局が設立され、日本放送協会はその傘下に入る。
昭和15(1940)年2月、夜8時に靖国神社招魂祭の全国放送を実況した和田信賢は、遺族を綿密に取材して、「母ァさん、今年の米の出来はどうです。だけど母ァさん、嘆いていてはいけないよ、俺は故国の英霊となって、永遠に御国の為に生きているんだから、母ァさん、元気を出して生きていっておくれ。俺はいつまでも見守っているよ。」と、放送した。 それを聞いて、第五期新人アナウンサーで、研修を受けていた大島実枝子は感動し、和田が町を歩いたり、電車の中で、市井の人々や情景を、即時描写(実況)している姿に惹かれていく。
昭和16(1941)年12月8日、午前2時には「西の風、晴れ」と放送していた天気予報が、午前4時から気象管制に入り、天気予報の放送は一切中止となった。 午前6時53分、和田は電話で布告の原稿を書き取る。 「大本営陸海軍部発表、今8日未明帝国陸海軍は西太平洋に於て、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」。 午前7時、それを館野守男が「臨時ニュースを申し上げます」と放送した。 館野は、思わず息んだので、その言葉が国民の熱狂を生むことになった。 川添照夫(中島歩)は、憎しみを植え付けるように読むことに反対したが、情報局との連絡を担当する上司は、マイクが運ぶのは、国家の意志だ、と申し渡す。
ラジオ放送による「電波戦」が始まった。 ナチスドイツが行うプロパガンダを手本に、戦意高揚や国威発揚を図り、時には虚偽の情報を発信して敵を攪乱させるのだ。
日本放送協会は、南方へ170名の「電波戦士」を派遣し、放送局を開設した。 100を超える放送局が、言葉の力で戦意を高揚させ、敵軍を惑わす「謀略放送」で「電波戦」を行うとともに、日本文化の普及にも努めた。 フィリピンへは、松内則三(古館寛治)が局長、ナンバー2として米良忠麿(安田顕)が、ビルマへは、館野守男(高良健吾)が、仏印、ベトナムへは、今福祝(浜野謙太)が派遣された。 ジャワでは「謀略放送」で敵を欺き、言葉で勝利した。
出陣学徒壮行会、和田信賢と志村正順<小人閑居日記 2023.10.14.>
和田信賢(森田剛)は、戦況の悪化に、「何が本当で、何が嘘かわからなくなった」と洩らす。 「信用のない言葉ほど、みじめなことはない」「自分に、吐きそうだ」「言葉の使い方を間違えた?」「原稿を読む以外に、何ができる」と苦悩するが、情報局に繋がる上司は「最後のアジテーターは、その役割を全うせよ」と迫る。
和田は、出陣学徒壮行会の実況の準備に入る。 妻の実枝子(橋本愛)は、「招魂祭、衝撃だった、あの声に私は惹かれた。遺族と会って、その言葉を拾い集めていた。一人一人が掛け替えのない人だった。虫眼鏡で調べて、望遠鏡で見るように、分かり易く伝える。調べていたから、あなたの言葉は信頼できた」と、励ます。 和田は、早稲田大学野球部の合宿所へ行き、朝倉寿喜主将(水上恒司)など選手たちの声を聞く。 初めは通り一遍の答を並べ、「言いたくない」としか話さなかったが、「戦争は殺し合いをするところだ、君たちの本心が聞きたい」という和田に、「死にたくない、僕は生きたい、野球がしたい、家族に恩返しがしたい、だが社会が許してくれない」と話す。
昭和19(1943)年10月21日、明治神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会は、雨だった。 和田は、駄目だと、倒れる。 学徒を戦地に送るやり切れない思いが、酒を過ごさせて体調不良に陥った。 用意していた原稿には、「かあちゃんよーー、かあちゃんの声が聞きたい、行きたくないよーー、私が聞いた学徒の声であります。誰にも言えないその思い、雨は一層激しく学徒たちを打ち付けております。二十年生きて来たのに、いま泥鰌のことしか思い出せない。お父さん、正直怖い、死にたくない、生きたい。この言葉を、私はどのように聞けばよかったのでありましょうか。今、粛々と行進するのであります。壮士ひとたび去りて、復(ま)た還らず。国民の皆様、どうぞお聞きください、若者たちは命を受け、彼らは二度と、もう二度とここに戻らないのであります。」と、あった。
後輩の志村正順(大東駿介)が、当日欠席した和田に代わって実況中継を担当し、名声を得た。 志村と同じ後輩アナウンサーの刈屋富士雄によると、和田が「学生を戦地に送る壮行会を盛り上げることは出来ない」と上層部に主張して激しく対立したためだという。
後に私は子供の頃から、志村正順は、「まぁ、何と申しましょうか」の小西得郎解説とのコンビのプロ野球実況で、刈屋富士雄は大相撲の実況で聴いていた。
「日曜美術館50」和田信賢アナの娘 ― 2026/03/17 07:07
先週8日と、今週15日のNHK「日曜美術館」が「日美50」特別アンコールということで、50年半世紀の番組アーカイブスの中から選りすぐりを放送していた。 1980(昭和55)年9月「私とベイコン 大江健三郎」、1980年2月「私とピカソ 岡本太郎」。 20世紀イギリスを代表する画家というフランシス・ベーコンは、知らなくて、絵を見たこともなかった。 大江健三郎さんが、(ロンドンで?)展覧会を見る機会があったのに、見るのを止めたことがあったと話していたが、とても気持の悪い絵で、それで私も見る機会がなかったのだろうと思った。 番組が終わっても、気持の悪さが残った。 岡本太郎さんは、若い時ピカソの静物画に感激して、抽象へ向かったが、ピカソを越える、感激したものを越えなければならないと話していた。 子供のような絵も、一律にピカソだからと有難がるのも、批判していた。
その両方の番組の、司会者とアシスタントが、西橋正泰アナと藤堂かほるさんだった。 藤堂かほるさん、当時一年ほどアシスタントを務めているが、あの和田信賢さんの没後に生まれた娘だという。
和田信賢さんのことは、2023年8月14日に放送されたNHKのドラマ『アナウンサーたちの戦争』を見て、いろいろ書いていた。 日本のラジオ放送は二年後の2025年に百周年、そして「等々力短信」は五十周年を迎える、「思えば長く続けてきたものだ、何とかそれまで元気で続けていたいと、思う。」とあった。 それを二回に分けて再録する。
『アナウンサーたちの戦争』のアナを知っていた<小人閑居日記 2023.10.12.>10/11発信
敗戦記念日の前日、8月14日に放送されたNHKのドラマ『アナウンサーたちの戦争』(脚本・倉光泰子、演出・一木正恵)を録画しておいたのを、ようやく見た。 日本のラジオ放送は1925(大正14)年に始まったから、二年後には百周年を迎える。 実は「等々力短信」の前身「広尾短信」は1975(昭和50)年に創刊したから、それで二年後には五十周年を迎えることになる。 ラジオ放送の半分、思えば長く続けてきたものだ、何とかそれまで元気で続けていたいと、思う。
私は長く生きているので、『アナウンサーたちの戦争』に登場するアナウンサーたちの内、知っている名前が何人もあった。 戦後、物心ついた頃は、ラジオ放送の時代だったからだ。 主人公の和田信賢(森田剛…宮沢りえの夫と聞いていたが、顔は馴染がなかった)、妻になる大島(和田)実枝子(橋本愛(語りも)…大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢栄一の妻)、館野守男(高良健吾)、今福祝(浜野謙太)、志村正順(大東駿介)、松内則三(古館寛治)だ。 和田信賢は「話の泉」の司会で、志村正順、今福祝(はじめ)はスポーツ中継で、和田実枝子は子供番組などで、館野守男は解説委員として記憶している。 これは当然聴いていなかったが、ワダチン和田信賢は、「双葉破る!双葉破る!双葉破る! 時、昭和14(1939)年1月15日! 旭日昇天、まさに69連勝。70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す! 双葉70連勝ならず!」と叫んで実況、松内則三は、戦前の六大学野球で「夕闇迫る神宮球場、ねぐらに急ぐカラスが一羽、二羽、三羽」の決まり文句で有名だったという。(なお、「前畑ガンバレ」は河西三省アナウンサー)。
和田信賢アナは、酒豪で知られ腎盂炎を患っていたが、1952(昭和27)年ヘルシンキのオリンピック中継に派遣され、実況を終えて帰国する途中、五輪期間中に白夜で睡眠不足となっていた疲労の治療で入院したパリ郊外の病院で8月14日に客死した(享年40歳)。 診察した日本人医師は加藤周一で、容態はかなり重篤、和田はその直後に亡くなったと、加藤周一の『続 羊の歌』にあるそうだ。
「復員野球―幻影も一緒にプレーしていた」 ― 2026/03/16 07:12
鴨下信一さんの「復員野球―幻影も一緒にプレーしていた」の本題である。 〈国民皆兵〉の戦時中に、体格屈強のプロ野球選手は当然続々と徴兵された。 川上哲治少尉。 山本(鶴岡)一人(かずと)中尉。 川上と山本は、復帰した時27歳、ギリギリのところだ。 本来ならもっと長く活躍出来たはずだが、打撃の神様、右翼席に突き刺さるホームランは〝弾丸ライナー〟と言われた川上もすぐ〝テキサスの哲〟になってしまった。 別所昭見習士官、豪球投手、打撃も凄かったが、プロ野球復興の年には25歳になっていた。 同じ年齢の大下弘(セネタース-西鉄)、青バットの打撃の天才、学徒出陣から帰還して明大、すぐ辞めてプロ入りした。
これらはそれでも幸せな数例で、続々復員した選手たちのほとんどは戦争のおかげで最盛期をフイにしていた。 兵役ばかりではない。 〈産業報国戦士〉の名のもとに徴用されて軍需工場や土木建築現場で働いていた選手も大量にいた。 彼らも活躍時期を失った。
伝説の名投手、沢村栄治、昭和9年に来日したベーブ・ルースもルー・ゲーリックもいた全米オールスターズを相手に、静岡草薙球場で快投を見せ、全米は1対0でようやく勝った。 その沢村は、三度目の召集で乗った輸送船が台湾沖で米潜水艦に撃沈され散華した。 沢村の相手役の捕手として巨人に入団した吉原正喜は、熊本工業で川上哲治と同期だったが、インパール作戦の露と消えた。 阪神の四番打者だった景浦将、リリーフ投手もやって、ピンチになるとセンターからマウンドにのっしのっしとやってくる二刀流の逸材はフィリピンで戦死。 黒鷲イーグルスの中河美芳一塁手、どんなに送球が逸れても、片足をベースにつけたまま、もう一方の足を地面にピタッとつくまで伸ばして、難なく捕ってしまう、タコの異名で呼ばれたが、ルソン沖で戦死した。
これら戦死した名選手たちはファンの記憶の中の幻の球場で生き続けた。 当時のファンはその記憶を次の世代に伝えることに熱心だった。 雑誌にしても新聞にしても、野球の記事は亡くなった名選手、あるいはもういまは全盛でない選手の栄光時の業績を伝えることを義務にしていた。
終戦直後のプロ野球リーグ戦 ― 2026/03/15 07:24
グレートリング
巨人
阪神
阪急
セネタース
ゴールドスター
中部日本
パシフィック
グレートリングはすぐ南海ホークスと名が変る。 なんでも進駐軍の兵士がこの名を聞いて大笑いしたからだそうで、日本人が〝大きな車輪〟(親会社が電鉄だから)の意味でつけたこの名前、あちらでは何やらアヤしい意味があるらしい。 いまは福岡ソフトバンクホークスだ。 阪急ブレーブスはいまのオリックスにつながり、セネタースは親会社が東急・東映・日拓と変って、そのたびチーム名も変るのだが、現在の北海道日本ハム・ファイターズがその流れをくむ。
ゴールドスター、ここは毛色が変っていて親会社のスポンサーを持たずに出来た新チームだった。 このゴールドスターの金星が、「国民リーグ」(国民野球連盟、昭和22(1947)年に生まれた4チームの、それまでのプロ野球組織とはまったく別のリーグ。)の大塚アスレチックスを吸収して、それをまた映画会社の大映を親会社とするチームが吸収合併して……この時代のプロ野球は目まぐるしく変る。
パシフィック、この球団は太平パシフィックから太陽ロビンスとなり、大陽ロビンスとなる。 大阪の糸ヘン問屋(繊維を扱う)の田村駒次郎(駒鳥=ロビンス)がオーナーで「太」から「大」にしたのは、これで〝点がとれる〟というオマジナイ。 昔はこんなトボケタところがあった。 ここにやはり映画会社の松竹が資本参加して松竹ロビンスとなる。
松竹・大映・東映と、この時期隆盛をきわめていた映画産業が積極的にプロ野球経営にのりだしてくる。
「国民リーグ」は、昭和22(1947)年の1年しかもたなかったそうだが、4チーム。
宇高レッドソックス…自動車のクラクションを一手に製造して大いに金を儲けた宇高産業が母体。
唐崎クラウンズ…戦時中海軍に清涼飲料水をおさめて財をなした唐崎産業が親会社。
大塚アスレチックス…ここは洋傘の骨で儲けていた。
その他、グリーンバーグという、どう調べてもわからないが広島の鯉城園というクラブ・チームから生れた球団らしい。 これはすぐ茨城県結城の実業家がひきとって結城ブレーブスとなる。
「国民リーグ」が1年しかもたなかったのは、球場難や観客動員にも問題があったのだが、それよりも親会社が続々経営難になった。 なんでも、プロ野球を持てるくらいならさぞ儲かっているだろうと税務署が多額の税金を課したからだという。 なんとなく当時の世相がほうふつとしてくる。
ウィキペディアの「国民野球連盟」に詳しいことが書いてある。 夏季リーグ30試合、秋季リーグ21試合が行われ、夏季の順位は結城ブレーブス、大塚アスレチックス、宇高レッドソックス、唐崎クラウンズ、秋季の順位は大塚アスレチックス、結城ブレーブス、熊谷レッドソックス、唐崎クラウンズとなっている。 7月15日に試合のあったルー・ゲーリック・メモリアム・スタジアムは、進駐軍接収中の横浜公園球場だ。
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