伊藤若冲と、その時代2025/07/04 06:56

 伊藤若冲の時代、1716(正徳6)年~1800(寛政12)年は、どんな時代だったのか。 1716年は徳川吉宗が第8代将軍となる享保元年だ。 享保17(1732)年、享保の大飢饉で打ちこわしが発生、享保は21年までで、1736年桜町天皇の即位で元文に改元。 元文は6年までで、1741年寛保と改元。 寛保は4年までで、1744年延享と改元。

 1745年延享2年、徳川家重が第9代将軍となる。 延享は5年までで、1748年桃園天皇の即位で寛延と改元。 寛延は4年までで、1751年徳川吉宗死去で宝暦と改元。 宝暦8年宝暦事件(尊王論者の竹内式部の追放)。

 1760年宝暦8年、徳川家治が第10代将軍となる。 宝暦は14年までで、1764年後桜町天皇の即位で、明和と改元。 明和4(1767)年田沼意次側用人となる。 明和は9年までで、後桃園天皇即位と続いて起こった火事風水害で「明和9年・迷惑年」とされ、1772年安永と改元。 この年、田沼意次老中となる。 安永3(1774)年、杉田玄白『解体新書』。 安永5(1776)年、平賀源内エレキテル(静電気発生装置)を復元。 安永は10年までで、1781年光格天皇の即位で天明と改元。 天明3(1783)年、浅間山噴火。 天明5(1785)年、蝦夷地調査隊を派遣。

 天明7(1787)年、徳川家斉が第11代将軍となる。 天明は9年までで、1789年内裏炎上(天明8(1788)年)などの災異により寛政と改元。 寛政4(1792)年、尊号事件(朝廷と幕府の間での尊号問題)。 寛政は13年までで、1801年享和と改元。

 澤田瞳子さんの『若冲』には、池大雅、与謝蕪村、丸山応挙、谷文晁などの画家、裏松光世、相国寺第百十三世住持大典顕常、木村蒹葭堂(坪井屋吉右衛門)、さらには田沼意次、松平定信、中井清太夫などが登場する。

伊藤若冲  1716(正徳6)年~1800(寛政12)年
池大雅    1723~1776
与謝蕪村  1716~1783
丸山応挙  1733~1795
谷文晁   1763~1840
裏松光世  1736~1804
大典顕常  1719~1801
木村蒹葭堂 1736~1802
田沼意次  1716~1788
松平定信  1758~1829
中井清太夫 1732~1795

 そして、大河ドラマ『べらぼう』の蔦谷重三郎も、同時代人である。
蔦谷重三郎 1750~1797

澤田瞳子さんの『若冲』を読む2025/07/03 07:04

 澤田瞳子さんの『若冲』(文春文庫)を知人から頂いて、本文385頁の長篇を吸い込まれるようにして読んだ。 2015年4月に単行本が刊行され、第153回直木賞の候補になったという。

 まず、小林忠さんの『日本大百科全書』の「伊藤若冲」の項を見て、他から多少補う。 若冲、伊藤若冲は江戸中・後期の画家。 1716(正徳6)年、京都・高倉錦小路の青物問屋「枡源」の長男として生まれる。 1800(寛政12)年歿。 本名源左衛門、名は汝鈞、字は景和、若冲居士のほか、斗米庵、斗米翁と号した。 幼少の頃から絵を好み、初め狩野派の画家に学び、やがて京都の寺に伝わる中国宋、元、明の花鳥画を数多く模写して、その写実力に感嘆、また日本の琳派の装飾画の本質をうかがうなど、和漢の絵画伝統の研鑽を重ねた。 その結果、即物写生の重要性を認識し、自宅の庭に飼った鶏から始めて身近な動植物の写生に努め、迫真的なあまりに一種幻想的ですらある独特の花鳥画の世界を創造してみせた。

 とくに鶏の絵を得意とし、米一斗の代でだれにも気軽に描き与えたという。 天明8(1788)年の大火で、家を焼失、晩年は京都深草の石峰(せきほう)寺のかたわらに居を構え、水墨略画を同寺のために多く描き、釈迦の一代記を表すべくデザインした石像群(五百羅漢)を残した。 代表作に『動植綵絵』30幅(宮内庁)、『仙人掌(さぼてん)群鶏図襖絵』(豊中市・西福寺)、『野菜涅槃図』(京都国立博物館)がある。

東京駅八重洲口前に 阪急が1300席の新劇場2025/06/27 06:56

23日発信の、小林一三の「平凡主義礼賛」<等々力短信 第1192号>の前半、小林一三についてまとめた点について、先輩から質問があったので、ブログに書いたものを、お送りした。 下記のあたりを、読んでいただくと、面白いと思う。

世田谷美術館「東急 暮らしと街の文化」展<小人閑居日記 2025.1.26.>
小林一三、私鉄経営モデルの原型を独自に創る<小人閑居日記 2025.1.27.>
小林一三は、三田の山から“初めて”海を見たのか?<小人閑居日記 2025.1.28.>
小林一三の資料保存と、小説家になる志<小人閑居日記 2025.1.29.>
小林一三の、三井銀行大阪支店、名古屋支店時代<小人閑居日記 2025.2.4.>
79歳で明かした小林一三の結婚の事情<小人閑居日記 2025.2.5.>

 小林一三が創業した阪急電鉄と宝塚歌劇団について、最新のニュースが6月3日に出た(朝日新聞朝刊・細見るい記者)。 「東京駅前 阪急が新劇場」「宝塚公演など 29年度開業予定」という見出しだ。

 宝塚歌劇団を傘下に持つ阪急電鉄は、JR東京駅前に約1300席の劇場を新設する。 開業は2029年度を予定し、同歌劇団の自主制作公演のほか、ミュージカル、コンサートなどでの利用を見込む。

 新劇場は東京駅八重洲口と地下で直結し、徒歩3分の場所につくる。 鹿島や住友不動産、阪急阪神不動産など6社と再開発組合が建設中の複合高層ビル(地上43階、地下3階)の3~6階部分に入り、2階層分の高さを持つ構造にする。 運営は阪急子会社の梅田芸術劇場が担う。 多様な演出ができるよう最新の技術をとり入れる予定だという。

別の鉄道会社でも、新人に駅員や車掌を経験させるか2025/06/26 07:08

 23日発信の、小林一三の「平凡主義礼賛」<等々力短信 第1192号>に、「私の会社に入ると、工学士、法学士、電気技師も、一遍は必ず車掌運転手をさせられる。 自らが平凡な民衆の一員となって働かねばならないということが、阪神急行のモットーである。」と、書いた。 家内が中学のクラス会で、同級の男性が大学卒業後、東急電鉄に入って、戸越公園駅でホームの掃除をしていたのを、同級の女性に目撃されたという話を聞いていたので、このことも小林一三が阪急で始めたことが、東急その他の鉄道会社にも波及したのかと思った。

 それで大学の同級生で、等々力短信の読者、LINEの仲間でもある、かつて帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)に就職した友人に、駅員や車掌運転手をさせられたかどうかを、聞いてみた。 すると早速、返信があった。

 「もちろん、駅員、車掌、運転手を、半年位の間に、経験させられました。 当時、駅に、簡易ベッドも無く、机の上に、蒲団を敷いて、寝させられました。」 「正社員に成ってから、(ということは、教育研修期間は正社員ではなかったのか)、簡易ベッドを設置させました。 食事当番も大変だったので、弁当造りの事業もさせました。」「懐かしい想い出を蘇えらせてくれた、等々力短信有難う」と。

 新入社員から、待遇改善の提案をするまで、どのくらいの時が経ったのかわからないが、実行力のある優秀な社員だったことは、確かだろう。 その提案と実施が、小林一三式の「提案したのを、上役が自分の説にしたら、それを実行する。」だったかどうかは、わからないけれど。

小林一三の「平凡主義礼賛」<等々力短信 第1192号 2025(令和7).6.25.>6/23発信2025/06/23 07:16

   小林一三の「平凡主義礼賛」<等々力短信 第1192号 2025(令和7).6.25.>

 『三田評論』6月号が通巻1300号記念号で、「三田評論と昭和100年」を特集している。 昭和になってまもなくの昭和3(1928)年11月号に掲載された、小林一三の「平凡主義礼賛」という慶應義塾大学最上学年の学生に対する講演が再録されている。 小林一三は塾員で、阪急東宝グループの創始者、電鉄を中心にした多角経営のモデルを創案した。 今年1月世田谷美術館の「東急 暮らしと街の文化―100年の時を拓く―」展を見て、小林一三が、渋沢栄一の田園都市株式会社の経営に参画しており、小林一三を通じて五島慶太がこの事業に協力し、それが今日の東急につながったことを知った。 それで改めて、阪田寛夫著『わが小林一三 清く正しく美しく』を読み、何日かのブログに、小林一三は三田の山から初めて海を見たか、三井銀行入行、大阪支店、名古屋支店での遊びぶり、79歳で明かした愛人との結婚の事情などを、綴ったのであった。

 さて、「平凡主義礼賛」である。 就職を東京でするか、大阪でするか、大阪だとこういう御利益があると、手前味噌の話から始める。 入社してくる連中に、平凡主義を鼓吹している。 毎日平凡に平凡に暮らす間に、一頭地を抜くと云うことの外に、名案はないと信じている。 大阪は民衆の大都会だが、すべてのリーダーが実業に興って、コツコツと仕上げた人である。 事業としての電気鉄道の経営は、将来は一般乗客の為に利益の大部分を犠牲に供すべきものだ。 毎日出入りする公衆に便利を与えて、そしてウマイ商売をして見たい。 ターミナルで老舗の大きなデパートメントを経営する計画だ。 民衆芸術論、大劇場論を東京でもやって見たい。 民衆相手の仕事を研究すればするほど、これからの世の中は平凡主義でなければならぬ。 私の会社に入ると、工学士、法学士、電気技師も、一遍は必ず車掌運転手をさせられる。 自らが平凡な民衆の一員となって働かねばならないということが、阪神急行のモットーである。

 具体的なアドバイスもある。 学校を出て会社に入ると、何も彼も新進の知識を得ているので、みな馬鹿に見える。 いろいろなことが馬鹿に見えるが、下らないことが諸君には分からない。 この時そこに共通の欠点が現れてくる。 誰にも聞かない、聞くのをいやがるのだ。 「聞くに越したことはない」。 「議論をしてはいけない」。 もし実行を伴わない議論ならば三文の値打ちもない空論である。 提案したのを、上役が自分の説にしたら、それを実行する。 それは福澤先生の「縁の下の力持は必要である」という教えに一致する。 これが一番成功の秘訣だと考える。 結局、実行せしめれば宜しい。 「盛んな時には行くな」「人の前では力(つと)めて敬語を使え、二人の中では言い度いことを言え」。 残念、この講演、就職する前に聞きたかった。