「ヘルンさん言葉」、「神々の国の首都」松江2025/10/09 07:16

        「等々力短信」第208号1981(昭和54).2.25.

 「パパサマ、アナタ、シンセツ、ママニ、マイニチ、カワイノ、テガミ、ヤリマス。ナンボ、ヨロコブ、イフ、ムヅカシイ、デス」。 明治37年夏、焼津にいるハーンにあてて、東京の妻節子が送った手紙の一節である。 追伸は「ミナ人 ヨキコトバイイマシタ パパサマノ、カラダダイヂスル、クダサレ」

 最近出た『小泉八雲 西洋脱出の夢』という本に平川祐弘さんは、「普通の日本語の手紙を書くのに不自由はなかったはずの一日本婦人が、夫のためには『ヘルンさん言葉』を話し、『ヘルンさん言葉』で手紙を書いたのが尊いのである」と書いている。

 夫人が小泉八雲を語った「思い出の記」という文章がすばらしい。 筑摩書房の明治文学全集48『小泉八雲集』に収められているのが一番入手しやすい。 ぜひご一読を。

         「等々力短信」第209号1981(昭和54).3.5.

 朝、川ばたから、かしわ手を打つ音が聞えてくる。 松江の人たちは、だれもかれもみな、朝日にむかって「こんにちさま。どうか今日も無事息災に、けっこうなお光を頂きまして、この世界を美しくお照らし下さいまし。ありがたや、かたじけなや。」と、拝む――。 ハーンの『日本瞥見記』、「神々の国の首都」の中にこんなくだりがある。

 ハーンを読んで、いたく心を動かされるのは、そこに描かれた明治の日本が、貧しいけれど、おだやかで、美しく、あたたかい心に満ちあふれているからだ。 その後の日本がなしとげてきた近代化、とりわけこの二十年ほどの高度経済成長が、たしかに物質的な豊かさをもたらしはしたが、ハーンが好意をもって記述したことどもを、どこかに忘れてきてしまった。

 ハーンを読むたびに、どちらが人間にとって幸せなのだろうか、という思いにかられるのだ。

小泉八雲、ラフカディオ・ハーンと、その妻節子2025/10/08 07:12

 小泉八雲、ラフカディオ・ハーンの妻セツをモデルにした、朝ドラ『ばけばけ』が始まった。 ふじきみつ彦脚本、松野トキ(高石あかり、幼少期・福地美晴)、父司之介(岡部たかし)、母フミ(池脇千鶴)、祖父勘右衛門(小日向文世)、親友サワ(小山愛珠)、裕福な親類タエ(北川景子)、その夫・傳(堤真一)、そしてヘブン(トミー・バストウ)。

 小泉八雲、ラフカディオ・ハーンと、その妻セツについては、以前いろいろ書いていた。 少し、振り返っておきたい。

       「等々力短信」第159号 1979(昭和54).9.25.

 小泉八雲が明治23年の日本の第一印象を記した「極東第一日」(『日本瞥見記』所収)にこんなくだりがある。 店先に並んだちょっとした細工物の一つーつに魅せられて買いたくなる。 あれこれ買う内に店全体を、店の主人まで含めて買いたくなる。 街並みを、木を、風景を、そして、日本全体の四千万の愛すべき人々も含めてほしくなる。

 ミキモトでレイモンド・ブッシェル氏の根付のコレクションを見た。 一口に、ものすごいものだ。 「自分と顧客のみを満足させればよかった」職人の自由で創造的な発想、気の遠くなるような技術と根気。

 根付の美を発見したのは明治以後日本を訪れた西洋人であった。 今日その名品の多くは諸外国にあって日本ではなかなか見られない。 日本人は根付について1781(天明元)年に最初の本を出したあと、二冊目の本を出すまで150年以上も間をあけた。 この冷淡と無関心の間に、根付はどんどん海外に流失していった。

         「等々力短信」第207号 1981(昭和54).2.15.

 モースが明治10年最初に出会って好きになった日本人達は、数年後の再来日の時には本当に消滅してしまっていたのだろうか。

 明治24年の松江。 日本におしよせた近代化の大波からは、ちょっとかくれた入江であった。 貧窮した士族の娘で、23歳の小泉節子が中学の英語教師で、17歳年上のお雇い外国人の妻になった噂が広がったぐらいだった。

 「ママさん、あなた女中ありません。その時の暇あなた本よむです。ただ本をよむ。話たくさん、私にして下され」。 夫人が家事をするとラフカディオ・ハーンは不機嫌になったという。 節子は日本の古い伝説や怪談の本をあさり読んでは、ハーンに物語った。

 われわれが幸福にも心のふるさとともいうべき共有財産として、「耳無芳一の話」「食人鬼」「安芸之助の夢」「雪女」「力ばか」といった数々の物語を持っていられるのは、ハーンと、彼が松江で出会った日本人妻のおかげである。

#ブログサイトの火を消すな!!!2025/10/07 07:10

 私が驚いたこの9月25日の記事を読んだ天声人語氏は、10月2日にそれを取り上げた。 「俳誌の「ホトトギス」は、明治の一時期、読者から1週間分の日記を募って掲載していた。ある教師は「十一日 六時が鳴りました、妻に驚かされて起く。急ぎて行く。八時前五分学校に着く」▼事件が起きたわけでも、有名人が日常をのぞかせるわけでもない。鋳物師や病気の子のいる親など、じつに多くの市井の人が、己の行状を他人の目にさらした。これは何なのか▼でもよく考えれば、日々感じたことや何げない光景を記録し、多くの人に見てもらいたいというのは、今も変わらぬ心理だろう。ネット社会で、その実現を飛躍的に簡単にしたのがブログだった。2000年代初頭に広まり、日記などを発信できるツールとして人気に。匿名で書かれた「保育園落ちた日本死ね!!!」は社会を動かした。」

 天声人語は、この後、記事にふれて、「ブログの時代は終わった」そうだ、としつつ、「子育てで、仕事で、病床で。同じような境遇で奮闘しているブログの書き込みに励まされた人も少なくないだろう。自分と誰かをつないだ見えない言葉の糸。そんな記録が丸ごと消えてしまうとしたら、何とも残念だ」とした。

 実は、9月25日の記事では、「現在残るサービスは「はてなブログ」「ライブドアブログ」のほか、「Amebaブログ」「FC2ブログ」などだ」として、朝日新聞にルーツを持つASAHIネットの「アサブロ」に言及がなかった。  朝日新聞「天声人語」のブログに対する評価と応援を得て、ぜひASAHIネットは「アサブロ」を続けて欲しいと思う。 多くのブロガーも、読者も、ブログの存続を希望する意見を発表して、一大運動に盛り上げて欲しい。 我田引水の感はあるけれど、ぜひ皆様に拡散していただきたい。 #ブログサイトの火を消すな!!!

朝日(ASAHI)ネットは、ぜひブログを続けて欲しい2025/10/06 07:08

 恐ろしい記事が、9月25日の朝日新聞朝刊の経済面に出ていた。 こうなっているとは、ぜんぜん知らなかった。 見出しは、「消えゆくブログサイト」「アクセス数1/3に 運営撤退相次ぐ」。 「闘病記や被災体験…「消えるのは惜しい」」「保存議論は進まず」。 SNSの普及などに伴い、ブログサイトの閉鎖が相次いでいる。 閉鎖されたブログの記事は消滅する。 保存の動きもあるが、無数の私的な記録を後世に残すべきなのか、議論は深まっていない、とある。

 ブログの全盛期は2000年代前半、03年に「はてなダイアリー(はてなブログに統合)」が開始、「ライブドアブログ」などが相次いで参入した。 だが、05年ごろからmixi、Twitter(現X)やFacebookといったSNSの台頭で、ブログの存在感は急速に薄れていった、という。 2019年に「Yahoo!ブログ」、23年には「LINE BLOG」がサイトを閉じ、「gooブログ」は今年4月に11月でサイトを終了させると発表した。

 私は、1991(平成3)年3月から、パソコン通信ASAHIネットに電子フォーラム「等々力短信・サロン」を設けてもらい、「等々力短信」を配信し始めた(ASAHIネットは、2019(令和元)年5月31日に電子フォーラムのサービスを終了した)。 パソコン通信からインターネットのプロバイダーとなったASAHIネットは、2005(平成17)年5月にブログサイト「アサブロ」を開設したので、私は同月14日から「轟亭の小人閑居日記」http://kbaba.asablo.jp/blogを始めた。 少し経って、ブログの内容に個人名を書くことも多いので、パソコン通信時代のASAHIネットの実名公開の方針に従い、「轟亭の小人閑居日記 馬場紘二」と表題に実名を加えて、現在に至っている。

 2005年5月から、20年間、ブログは毎日約1200字、原稿用紙3枚、A4判一枚ほどの分量を書き続けている。 ブログは生き甲斐だ。 どんなことを綴っているか。 毎月月末に、その月の分のINDEXをアップしているので、欄外「索引」のカテゴリーをクリックして頂くと、ヅラヅラと出て来る。 主なテーマは、福沢諭吉、落語、俳句。 膨大な蓄積ができ、しかも、どなたでも読むことができる。 たとえば落語だけでも、明治時代からという伝統ある落語会、落語研究会を毎回、マクラからオチまで書いている。 この20年の平成から令和にかけての落語家がどんな噺をしていたか、後の世に参考になることもあるのではないだろうか。

 今のところ、そんな動きはないけれど、ASAHIネットは、ぜひ「アサブロ」を続けてもらいたいものだ。 気がつけば84歳になった、一老ブロガーの切なる願いである。

「地獄に落ちても、落語と心中なら本望だ」2025/09/27 07:08

 日之出荘の部屋。 菊比古は助六に、「一人の方がいい、助といると楽しい、楽なことはない。でも手前の落語と向き合えない。私はお前さんとは違う。お前さんといて、どんだけ苦しいか(と言い、助六の顔を叩く)。落語は好きなのは、変わらない。客に受ける噺がしたい。」 助六は、「俺は、客に合わせて変える。変わらない落語は、お前さんの仕事だ。二人で新しい落語をつくり続けるんだ」。 菊比古は、「みの吉を忘れ、手前の落語に打ち込みたい」。

 雨竹亭、7月1日「納涼落語会」。 お栄が、みの吉に「行かなくていいのかい、菊さんの大きな日だろう」と。 みの吉は、駆け出して行き、雨竹亭の前で倒れる。 助六は「死神」、菊比古に「地獄に落ちても、落語と心中なら本望だ」と。 楽屋で協会会長(辻萬長)は、八雲に、「まくら、なしかい」と。 テンポがよくて、客に受ける。 菊比古は、「助、俺にはできねえ落語だ、これが私の心底欲した落語だ、助、やんなさった」。

 昭和30年春、二人の真打披露、三本締め。 協会の会長は、八雲のツラをつぶすといけないからと、二人同時の昇進を認めた。 だが、助六は披露目で毎日違うネタをかける。 そして、八代目八雲になるために生きてきた、と。 ついに会長の十八番、「居残り佐平次」を始めた。 喧嘩、売ってやがる。 会長は、席を立つ。 スピード感があり、明るい佐平次、助六は大受け。

 真打披露目の夜、菊比古は、けじめを付けなければならないことがあると、みの吉に会う。 「いくらでも、責めてくれ、一晩それを聞きに来た、殴るなりなんなりしてくれ。」 「そんなこと、出来っこないわ、田舎に帰ろうかな、爺イの妾にでもなって、一人で生きなけりゃあ。」 「居場所は、自分でつくるものだ。」 「絶対に、復讐する。死んだら、化けて出るから、今度会う時は地獄で。」

 七代目は、助六に、「会長の前で「居残り」をかけるなんて。落語を壊すな。」 「落語を壊すんじゃない、変えるんだ、師匠の落語は…。」 「八雲の名は、菊にやる。幹部会にも話してる。品のない野郎にやれる名前じゃない。帰えれ! この際、破門してやる。手前で勝手に生きろ!」

 夜桜の下に、みの吉と助六。 「ねえ、桜っていつも、いつの間にか散っちゃうんだよね。私、振られちゃった! 何があったの、話をきいたげる。」 二人は、抱き合う。