高知新聞社入社、雑誌『月刊高知』編集部で小松暢に会う ― 2025/06/19 06:55
戦争が終わってしばらくのあいだ、嵩の心はむなしさでいっぱいだった。 嵩の心を深く傷つけていたのは、信じてきた「正義」が突然ひっくり返ったことだった。 正義のためなら死んでもしかたがないと思っていた自分は、いったい何だったのだろう。 戦友や弟は、何のために死んだのだろう。 考え続けた嵩は、ひとつの考えにたどりついた。 それは「ある日を境に逆転してしまう正義は、本当の正義ではない」というものだった。
もし、ひっくり返らない正義がこの世にあるとすれば、それは、おなかがすいている人に食べ物を分けることではないだろうか――嵩はそう思うようになった。 この思いは嵩の中で生き続け、長い年月をへて、誰もが知るヒーローを生むことになる。
戦友に声をかけられ、進駐軍の廃品を回収する仕事を手伝った。 アメリカの雑誌は、上質な紙にカラーで印刷され、写真やイラストは鮮やかで、皮肉のきいた漫画も載っていた。 何でもいいから文化的な仕事をしたいと思うようになった嵩は、高知新聞社で記者を募集していたので、試験を受け、昭和21(1946)年6月に入社した。 配属されたのは社会部だったが、一か月で創刊する雑誌『月刊高知』の編集部に異動した。 編集長は高知新聞の編集局次長だった青山茂、編集部員は嵩より七か月早く入社した品原淳次郎と、二か月早く入社した小松暢(のぶ)だった。 小松暢は、大正7(1918)年生まれで嵩の一つ上だが、嵩は早生まれなので、学年は同じである。 高知新聞の戦後の女性記者第一号として4月に入社していた。 年齢よりずっと若く見え、色白で一見かよわそうだが、女学校時代は「韋駄天おのぶ」と異名をとった短距離ランナーで、高知でハチキンと呼ばれる元気いっぱいの明るい女性だった。
取材や原稿依頼からレイアウト、校正、広告取りまで、このメンバーですべてやった。 目の回るような忙しさの中、昭和21(1946)年7月25日、『月刊高知』は創刊された。 新聞本体にはまだ文化記事が少なかった時代、ルポやインタビュー、座談会、小説、エッセイ、詩歌、漫画と、盛りだくさんの総合雑誌は画期的だった。 三千部で創刊した雑誌は、やがて一万二千部に達した。 部員全員が雑誌編集ははじめてで、試行錯誤をしながら型にはまらない新しい雑誌をめざして奮闘する日々。 嵩は、ふたたび青春がもどってきたような気がした。
嵩、敗戦の翌年1月に復員、弟の千尋海軍少尉は戦死 ― 2025/06/18 07:22
敗戦後、嵩たちの部隊が帰国できたのは、年が明けてからだった。 昭和21(1946)年1月23日に上海港から復員船に乗り、1月25日に佐世保港に着いた。 嵩は自分の戦争体験について、80歳近くになるまで書いたり話したりすることがなかった。 アンパンマンのヒットによって取材を受けることが増え、戦争について質問されるようになった。 その頃には戦争体験者が減っていて、嵩は自分のような者にも戦争の理不尽さを語り残す役割があるかもしれないと思うようになったのだった。
佐世保港の検疫所で、頭からDDTをかけられて全身真っ白になり、解散式があって、故郷までの切符を受け取って汽車に乗った。 途中、広島駅にさしかかったとき、街ごとなくなっていたのには、息をのんだ。 空襲で焼かれた街をいくつも見た嵩は、自分の故郷も焦土となっているのではないかと思った。 岡山県の宇野港から四国に渡り、汽車で後免駅に降り立ったとき、嵩は夢を見ているような気がした。 昔と同じ風景が目の前に広がっていたのだ。
なつかしい家にたどりつき、木戸を開けると、伯母のキミが出てきた。 「お母さん、ただいま帰りました」と言うと、伯母は泣きくずれた。 お互いに連絡する方法がなく、伯母は嵩の生死がわからないまま、ずっと帰りを待っていたのだ。 嵩の手をとって、伯母は言った。 「ちいちゃんは……、死んだぞね」
ちいちゃん・千尋は、昭和16(1941)年春、旧制高知高等学校を卒業して京都帝国大学法学部に進んだ。 当時の大学は三年制で、千尋の卒業は昭和19(1944)年3月のはずだった。 だが、修業年限が6か月短縮され、昭和18(1943)年9月に繰り上げ卒業となった。 徴兵されて陸軍に入るのでなく、千尋は海軍予備学生に志願した。 海軍予備学生は、飛行科と兵科に分かれていた。 千尋が採用されたのは兵科第三期で、第二期では五百名程度だったのが、三千五百名前後に大幅に定員が増えていた。 千尋は、大学の卒業式から一週間後の10月1日に横須賀第二海兵団に入団し、まずは海軍軍人としての基礎をたたき込まれた。 翌昭和19(1944)年2月、専門に分かれて教育を受ける術科学校に進む。 術科課程を終えて5月に少尉に任官したあと、駆逐艦・呉竹(くれたけ)の水測室に配属された。 水中音から敵の潜水艦の位置を探知する水測室は、船底に近い位置にあり、もし敵の水雷が命中すれば生き残る可能性はまずない。
昭和19(1944)年12月30日、千尋を乗せた呉竹は、台湾とフィリピンのあいだにあるバシー海峡で、米潜水艦レザーバックの雷撃を受けて沈没した。
戦地、1000キロの行軍、マラリアと飢え ― 2025/06/17 06:59
昭和19(1944)年7月25日、いよいよ嵩たちの部隊は戦地の中国に向けて輸送船で門司港を出港する。 釜山をへて、8月7日に上海に着いた。 しばらく上海付近で警備などを行ったあと、台湾の対岸の福州(現在の福建省福州市)に上陸した。 すでに日本軍の主力部隊が、一週間ほどの戦闘で福州を占領しており、嵩たちの部隊は中心地を離れた農村地帯に何の抵抗もなく上陸し、米軍の上陸を食いとめる要塞を築き、大砲を据える役割だった。 敵がやってくる気配もなく、嵩はビラやポスターなどで、占領地の住民の敵対心をやわらげる宣撫班の仕事を手伝って、紙芝居をつくったりした。 (昨日の朝ドラ『あんぱん』、漢字を学んだ国、現地の人の前で、「宣撫班」などという腕章をしていたのだろうか?)
嵩たちは福州で年を越したが、米軍はやってこないし、中国軍との戦闘もない。 昭和20(1945)年5月、日本軍は福建省の福州、厦門(アモイ)、浙江省の温州にいた部隊のすべてを上海に集め、そこで決戦にそなえることを決定した。 米軍は4月1日に沖縄本島に上陸していて、この先、台湾やその対岸に上陸することはないと判断したのだ。 嵩たちの部隊も、上海に移動することになり、大砲は船で海路を運び、人は陸路を行軍する。 一日40キロの道のりを重い装備を背負って歩いた。
途中で何度か中国軍の襲撃があった。 そのたびに人が死に、まだ息のある者を置き去りにしながら、行軍は続いた。 1000キロにおよぶ苦しい行軍の途中で、嵩は何度か父のことを思った。 嵩が歩いた道は、父が30年前に上海の東亜同文書院の調査旅行で通ったルートと重なっていたのだ。 長い行軍を生き延びたあと、嵩は父が自分を守ってくれたのだと思った。
嵩たちの部隊が駐屯したのは、上海の近郊、江蘇省松江県(現在の上海市松江区)にある泗渓鎮(しけいちん)で、上海決戦の準備をすることになった。 着く早々、嵩にマラリアの症状が出たが、二週間ほどで起き上がることができた。 軍医は、軽症だといったが、行軍中なら死んでいた。 上海決戦はなかなか始まらず、いったん始まれば長期戦になる見込みというので、食糧をぎりぎりまで切りつめることになった。 ひもじさのあまり、嵩たちはそのへんに生えている草をゆでて食べ、最後は、上官が飲んだあとの茶がらも食べた。 空腹があまりにもつらく、腹にたまるものなら、もう何でもよかったのである。 食べるものがないと、からだがつらいだけではなく、心もみじめになる。 精神がけずられ、気力がなくなってしまうのだ。 飢えが人間の尊厳を奪うことを、嵩は心の底から実感した。
小倉の野戦重砲聯隊に入隊、一年半で軍曹になる ― 2025/06/16 06:41
だが、そんな宣伝部での日々は一年も続かなかった。 昭和16(1941)年1月、嵩のもとに召集令状が届く。 本籍地の高知で徴兵検査を受けると、「第一乙種合格」、乙種となったのは近眼のためである。 検査官は、戸籍に嵩がたった一人なのを見て、「係累がないならどこへ行ってもいいな、心おきなく忠誠をつくせ」と、高知の部隊ではなく、福岡県小倉の陸軍第十二師団野戦重砲第六聯隊の補充隊(通称・西部第七十三部隊)第一中隊に配属した。 満年齢21歳で入営したこの日から、終戦をはさんで昭和21(1946)年1月に復員するまで、嵩は5年間に及ぶ軍隊生活を送ることになる。
初年兵は、年齢も学歴も職業も関係なく、まずは軍という組織の最下級に位置づけられる。 そして全員が、毎日のように殴られる。 平等といえば、これほど平等なことはなかった。 訓練でミスをしたり、命じられたことができなかったりして上官に殴られることもあったが、それとはべつに、消灯前の点呼のとき、毎晩のように古兵から「精神を鍛え直すため」に殴られる。 「一歩さがって足をひらけ! 眼鏡をはずせ! 奥歯をかみしめろ!」
嵩が入隊した野戦重砲聯隊は、大砲で戦う部隊であり、要塞攻撃で用いられる十五センチ重砲を扱う訓練をしたが、これが素人の嵩が見てもわかるほど旧式のものだった。 タコツボ(一人用の塹壕)の中にひそみ、敵の戦車が来たら、竿の先につけた爆雷をキャタピラーの下に差し込む訓練もあった。 昭和14(1939)年のノモンハン事件の教訓からの、対戦車作戦だった。 だが、高価な戦車が部隊にあるはずもなく、大砲を乗せる木製の大八車(大型の荷車)を戦車に見立てていた。
兵隊としてやっていくには要領、つまりコツがある。 それは、言われたことだけはきっちりやり、自分の頭で考えないことだ。 考えるのをやめて上に従うことで、初年兵は一人前の兵隊になっていく。 まじめに訓練に取り組んでいるうちに、ひょろっとした細身のからだに筋肉がついてきた。 そんなふうにして軍の生活に順応できるようになると、まわりが見えてくる。 上官や古兵もいろいろで、殴らない人は決して殴らない。 どんな環境にあっても、自分を保つことのできる人がいることにも、嵩は気づいていった。
野戦重砲聯隊は、大砲をトラックで運ぶ機械化部隊と、馬で運ぶ馬部隊に分かれていた。 嵩が配属されたのは馬部隊で、馬の世話が日課だった。 輓馬(ばんば)という種類の、力が強くがっしりした馬である。 はじめて厩舎に行ったとき、たてがみや尻尾にリボンをつけている馬がいるのに、驚いた。 聞けば、かみつく癖のある馬や、人を蹴る馬に、注意するためだった。
軍隊に入ると、全員が二等兵でスタートするが、旧制中学や実業学校以上の学歴がある者は、二等兵を4か月経験すると、幹部候補生の試験を受けることができる。 嵩も上官の勧めに従うことにした。 試験前夜、病気の馬の厩舎で不寝番を担当していて、嵩が居眠りしたのを、見回りの士官に見つかってしまう。 試験の翌日、中隊長に「君は試験の成績では甲幹に合格だが、居眠りをしたので乙幹だ」と告げられた。 教育期間を経て甲幹は士官(少尉→中尉→大尉)に、乙幹は下士官(伍長→軍曹→曹長)に進む。 実はこれは幸運なことだった。 甲幹に合格して士官になった嵩の同期は満州や中国の前線に送られ、多くの戦死者が出た。 生き残ったものの、戦後、シベリアに抑留された者もいる。
嵩は伍長となって内地に残り、暗号班に配属された。 暗号手になった嵩は、昭和17(1942)年8月、軍曹に昇進する。 営内では班長として新兵の教育も担当することになったが、嵩は絶対に兵たちを殴らなかった。
伯父・寛の死、製薬会社の宣伝部に就職 ― 2025/06/15 07:21
卒業を控えた昭和15(1940)年3月、卒業制作のポスターを描いていた嵩のもとに一通の電報が届く。 「チチキトク スグカエレ」 伯父・寛の危篤の報せだ。 嵩は徹夜でポスターを仕上げ、翌日、後免町に向ったが、伯父はすでに棺の中だった。 まだ50歳、突然の死である。 まもなく高知高等学校三年生になる千尋は、「兄貴、遅い!」と厳しい声をかけた。 嵩が東京に戻る日、千尋は「兄貴は好きに生きていいよ。おれはこの家を見なければならない」と言った。
4月、嵩は日本橋の製薬会社・田邊元三郎商店(三年後に東京田邊製薬)の宣伝部でデザイナーとして働き始めた。 製薬会社に就職を決めたのは、世話をかけてきた伯父の役に少しは立てるかもと考えたのだが、それも意味がなくなったのだった。 会社はスポーツ薬の「サロメチール」、ビール酵母剤「エビオス」、肝油製剤の「ハリバ」、ビタミンC剤の国産化、栄養剤や生理用品のタンポンの発売など、新薬や新製品を次々に世に送り出していた。
宣伝部は活気にあふれ、嵩の仕事は新聞や雑誌に載せる広告やポスターなど、平面の印刷物をデザインする、いまでいうグラフィックデザイナーだった。 当時、この会社の経営陣に、新薬開発に手腕を発揮した内藤豊次がいて、のちに製薬会社エーザイの創業者となるのだが、宣伝を重視し、陣頭に立って指揮をしていた。 広告のキャッチコピーや原稿、企画に徹底的にダメ出しをし、自分の手で朱筆を入れる。 出来が悪いと大声で叱り、インキ瓶を投げつけることもあった。 「内藤広告塾の鬼のシゴキ」と恐れられた。
当時の広告にはしばしば漫画が使われ、宣伝部にはイラストレーターや写真家だけではなく、漫画家も出入りしていた。 さまざまな才能に出会い、嵩は大きな刺激を受ける。 駆け出しの嵩にもどんどん仕事が回ってきて、知識や技術が身についていく実感があった。 世の中は戦時色が濃くなっていったが、広告の世界にはかつての華やかさの名残りがあったし、ポスターに横文字を使うこともまだ許されていた。
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