第700回三田演説会、小室正紀さんの「工場法と福澤」 ― 2015/07/13 06:33
7月3日は、三田演説会だった。 ちょうど第700回なので、清家篤塾長が 挨拶し、三田演説会と、ここは日本最初の演説館という歴史を語り、講師が小 室正紀(まさみち)さん(慶應義塾大学名誉教授)なのも嬉しい、入学式や卒 業式の式辞で福沢先生に関するものは、小室さんに目を通してもらう、家庭教 師のようなものだと。 私も楽しみにしていた小室さん、予告の演題は「福澤 諭吉と資本主義―『実業論』以降の経済思想を中心として―」だったが、80分 では収まらないので、話を絞り、「工場法と福澤」を中心に「福澤諭吉と資本主 義」にする。
明治20年代後半、日本の資本主義が稼動し始めると、さっそく、貧富、資 本家と労働者、労働条件などの問題が出てくる。 東京帝大を出て、ドイツに 留学し、ドイツ経済学を学んで帰ってきた人達が、研究会や学会をつくる。 明 治29(1896)年設立の社会政策学会は、ドイツ的講壇社会主義、国の社会政 策で問題を解決しようとする立場。 明治31(1898)年には工場法のための 講演会も開き、工場法は明治44(1911)年公布、大正5(1916)年施行に至る。 労働時間の制限、児童労働の禁止などが、規定されていた。
工場法制定の動きに対し、福澤は明治30(1897)年に『時事新報』社説で 職工条例(工場法)に反対した(福澤が書いた証拠はないが、論旨は福澤のも のと言える)。 1月20日「資本主と職工」、22日「職工条例制定の必要あり や」(『全集』15巻)、9月29日「職工条例は翻訳条例なる可し」、30日「翻訳 条例は断じて思い止まる可し」(『全集』16巻)。 福澤の反対理由は、(1)労 働者・貧民の生活を一層苦しめる、(2)情愛の温かな我が国独自の労使関係を 損なう。
これに対し戦後、研究者の福澤批判があった。 鹿野政直『日本近代思想の 形成』1956、住谷悦治『日本経済学史』1958、安川寿之輔『日本近代教育の思 想構造』1970。 批判点は、(1)労働者階級に敵対的。勃興する労働者階級へ の恐れがあり、低賃金・長時間労働で日本資本主義を守る。 (2)階級対立 を隠蔽するため、封建的主従関係を温存。⇒近代的合理主義精神から乖離し、 この時期には非合理的で反動的になっていた。
それに対し、藤原昭夫は『福沢諭吉の日本経済論』1998で、反批判し、福澤 を擁護した。 反批判点は、(1)貧困者層や労働者階級に対する冷淡、あるい は敵対的態度が読み取れるか。 (2)合理的な思想からの逸脱、後退、反動 化が認められるか。 検討を要する、というもの。 くわしくみると、藤原反 批判(1)、福澤はもっぱら現実の労働者・窮民に与える打撃(収入減)を論じ る。生産コストの問題は全く論じていない(国際競争力が低下するといった)。 他の収入を与えられるなら(「他に生活の道を与える工風」「窮民を饑餓の中よ り救う手段」)、福澤は賛成。 藤原反批判(2)、福澤は、多様な文明化のコー スがありうると考えていた(『文明論』で、ヨーロッパ文明だけでないコース。 遊牧文明は他に対して厳しく、農耕文明は優しい)。福澤は、日本の「封建制度」 が文明化に対してもつ積極的な意味を評価(資本主義の中で合理的な意味があ る。今でも、日本的経営が行われている)。
小室正紀さんは、藤原反批判(1)には賛成だが、藤原反批判(2)には疑問 があるとした。 この時期の福澤は、再度、封建的なものを批判したからだと いい、次の二つを挙げた。 『福翁自伝』(明治32年)の意義についての松崎 欣一の解釈。 日本の体制が固まってくる中で、封建制を賛美する復古的な風 潮に反対し、新しい時代に踏み出した頃の自分たちのことを思い出してもらい たい。 「修身要領」(明治33年)個人主義道徳vs「教育勅語」(明治23年) 忠孝臣民思想。 前者は、自立した自由な個人が、社会を形成していくモラル・ コード。 後者は、忠孝、天皇の臣民をつくる国のモラル・コード。
天下一、名高い浪人・細井広沢のことなど ― 2015/07/04 06:37
まず『広辞苑』の、ほそい-こうたく【細井広沢】「江戸中期の儒学者・書家。 父は掛川藩士。江戸に出て程朱学を修め、王陽明の説をとり、文徴明の書法を 学ぶ。柳沢吉保・水戸家・幕府に仕え、山陵の修築に尽力。(1658~1735)」
磯田道史さんの「中根東里」に戻る。 還俗の身で、家郷には戻れず、途方 にくれている東里を、細井広沢が訪ねてきた。 文武の道に練達した天下一、 名高い浪人で、齢六十に到らんとするこの国最高の書の大家が、二十そこそこ の若者のまえに手をつき、わが家に居候してくれと、懇請した。 住職の慧岩 がひそかに細井に相談し、東里の超絶の文才を知っていた細井が、飛んできた のだった。 細井は義人としての名も高い。 あの赤穂浪士たちも、この細井 広沢には、事前に、討ち入りの計略をもらした。 浪士たちは細井と相談を重 ね、義士たちが吉良邸の地面に突き立てた「浅野内匠頭家来口上」も、彼が筆 をいれたものである。 東里は、本郷の細井の家に転がりこみ、その蔵書に驚 く。 拓本・金石文はもちろん、満洲文字まで、あらゆる書跡と文字があり、 細井はラテン詞というものまで知っていて、星座と十二ヶ月の名前ぐらいは、 阿蘭陀詞でもラテン詞でも言えた。 細井の思惟のひろがりは広大であり、こ れに比べれば、荻生徂徠など遙かに小さいかもしれなかった。
もともと、細井広沢は権勢比類なき柳沢吉保の臣、二百石の鉄砲頭だったが、 あることから、おのれの筋を通して、その身上を一日にして捨てた。 いきさ つは、こうだ。 浪人して窮した知人が仕官の口をさがしてくれというので、 側用人松平右京大夫の家老に紹介した。 その知人が所持していた名剣・獅子 王を献上すれば、仲立ちをするというので、そのようにしたが、いくら待って も、音沙汰がない。 待つこと三年、思い余って、細井が談判に行くと、右京 大夫は「そんなことは知らぬ。仕官を約束した家老はすでに死んだ。そんな話 なら剣は返す」と言った。 細井は怒った。 大名である右京大夫にむかい、 屋敷中に響きわたる大音声で、「右京大夫殿! ならずのことをなされ候」と、 一喝して去った。 当然、ただではすまない。 右京大夫は、いやらしく、細 井の主君柳沢吉保に手をまわした。 柳沢もずるい。 大名である右京大夫の 顔をたてて家来の細井を捨てることにした。 細井はそういう主君の性格をよ く知っていて、いわれるまでもなく、主家に累が及ばぬよう、みずから柳沢家 を辞した。 以来、細井は浪人の身となっている。
そもそも、中根東里の師、荻生徂徠を世に出したのは、この細井だった。 細 井は31歳まで巷間でくすぶっていた徂徠の学才を見抜き、柳沢侯に推挙した。 十五人扶持で召し抱え、嫁まで世話をした。 ところが、細井が放逐されるに あたり、徂徠は救いの手をさしのべるどころか、知らぬ顔をした。 いまや、 徂徠は五百石で柳沢家にあり、彼を推挙した細井は素浪人となって、貧苦にあ えぎ、幼い娘がばたばた死んでいる。
東里は、細井広沢の家で、その生活を目の当たりにした。 朝夕二度の食事 はいたって質素で、酒も飲まない。 異常に蕎麦好きでも三日に一度は蕎麦を 食べる。 細井は少しも寝なかった。 終夜、読書し、著述をし、暁ちかくな ってから寝に就く。 ところが日が昇ると、ちゃんと起きていて、また書見を しているのである。 誰に教えるというでもなく、また書をかくといっても、 それで金品を得ようというのではない。 仕官する気すらないようだった。 東 里が一度だけ、思い切ってきいてみた。 「先生は、学問、書、剣、槍、弓馬、 柔術、鉄砲から天文測量にいたるまで諸芸の達人でいらっしゃいますのに仕官 はなさらぬのですか。あまりに、もったいない気もしますが……」 すると、 細井は意外な顔をして、「わしは書きたいから書をかき、読みたいから書を読む。 それでよい。技をきわめれば道がみえてくる。わしは技を暮らしのたつきにせ ぬときめた。『技をもって道とし、道をもって技となす』。その生き方に徹した いと思うておる」と、優しく、ほほ笑んだ。
東里が、いつまでもここに居るわけにはいかぬ、と感じ始めた頃、加賀前田 家の臣、「程朱の学」つまり朱子学の大家で、幕府に仕え、徳川吉宗の政治に影 響を与えた室新助鳩巣(きゅうそう)から、加賀に誘われた。 藩主前田綱紀 は、当代随一の学者大名、国内外の珍書典籍を買いあさり、室鳩巣はじめ文人 もあつめた。 鳩巣は、東里を追放した荻生徂徠への最も有力な反対者と目さ れていた。 23歳の東里は、鳩巣に貞右衛門の名を付けてもらい、当代きって の学識者である鳩巣について、正統の学問をおさめる。 だが、「学問をして禄 をもらうわけにはいかぬ」と、加賀百万石の御儒者の道を、みずから捨てて、 江戸に帰り、八丁堀の裏長屋でひたすら読書の日々に戻るのだ。
磯田道史さんの荻生徂徠像 ― 2015/07/03 06:30
磯田道史さんが『無私の日本人』「中根東里」で書いた、荻生徂徠である。 荻 生徂徠ほど政治臭のある学者はいない、という。 その性格は、学者というよ りも派閥作りにたけた周旋家であった。 生い立ちがそうさせていた。 徂徠 の父は、のちに将軍となる徳川綱吉の侍医であったが、罪によって上総の茂原 に流されている。 徂徠は14歳から浪人の子となり、辛酸をなめた。 身を 立てるには、学問をせねばならない。 とぼしい書物で、ひたすら励んだ。 25 歳で江戸へ出ると、政府高官へのつてが得られるよう、芝増上寺門前に塾をひ らき、その高僧の知遇を得て、柳沢吉保の儒臣となる。 生まれつきの政才と いうものが、この男には備わっていた。
さらに、肝心の学問のなかに、はったりがあった、というのだ。 徂徠は他 人の学問を「曲解」とする以上、自身が儒教を「正しく」解釈してみせる必要 があった。 ほんものの孔子の教えを知るには、その時代に近い言葉、古文辞 (こぶんじ)に通暁すべきだ、といった。 「おれは唐語(中国語)がわかる」 と豪語した。 しかし徂徠自身は、それほど、唐語に通じていたわけでなく、 岡島冠山という元長崎通詞の中国語の達人を知恵袋として使っていたにすぎな い。
中根東里に会いたいと言った時期の徂徠は、おのれの学派を伸張させるため に、ひたすら動いていた。 諸侯・寺院あらゆる方面に出入りし、学問に興味 をもつ者を誘い、とりわけ、若年の英才を探し出して、門弟にし、おのれの脇 をかためた。 東里は、のどから手がでるほど、欲しい弟子だった。
徂徠は、東里の学才を激賞して、入門を許した。 東里は、平仄を守り、正 しく韻を踏んだ、珠玉のごとき詩文十数首を、徂徠に示した。 だが徂徠は黙 殺し、いやしくも文章を学ぼうとする者は、左史伝と史記と漢書を読むがよろ しい、といった。 東里は、くる日も、くる日も、左伝を読み、その序文を書 いた。 徂徠は一読し、「善し」と言い、「また昔日の阿蒙にあらざるなり」と 後題を付けた。 阿蒙とは、無学を笑われた、いにしえの呂蒙のことで、「昔の ような無学ものではない。見違えたぞ」という意味だった。 東里は雀躍し、 呂蒙の一伝をつくって、徂徠に献じた。 徂徠はそれを激賞して、満座の客た ちに「このようにしてはじめて、ほんとうに左伝を学びつくしたといえる」と 宣した。
東里の名声は、都下に鳴り響いた。 だが文名があがるにつれ、東里の心は 落ちていく。 ついに病に臥した。 たまたま手にした「孟子」の浩然の気の 章を読んで、電戟に撃たれ、生涯を大きくかえる。 なんらかのこだわりが落 ちて、還俗を決意した。 蓮光寺の慧岩は、すこぶる鑒識(かんしき)があり 「ならば、寺中の別舎で髪をのばされるがよい」と言ったが、徂徠は不快感を あらわにした。 僧院にいて、諸宗の僧と交わり、唐音を研究し、漢籍に注釈 をつけ、徂徠学を陰で支えてもらえれば、それでよい。 東里は、徂徠が怒っ ていると知り、全身全霊をこめて弁明の文章をしたためた。 徂徠は自らは手 をくださず、門弟の太宰春台に反駁を命じ、徂徠一門はよってたかって、東里 の排斥をはじめた。 東里は驚きの挙に出る。 一日、竈に火をおこし、作る ところの文章をすべて、火中に投げ入れた。 一時とはいえ、徂徠の虚名をた のみ、文名をあげたおのれを恥じたからである。
東里は途方にくれた。 寺を出ても行くあてがない。 あらためて、荻生徂 徠の隠然たる力を思い知らされた。 朋友は、あれこれと言って、遠ざかって いった。
そう、磯田道史さんは書いているのである。 そこに、細井広沢(こうたく) という人物が登場する。 以前住んでいた近くの、等々力の満願寺に、その墓 があるので、名前は知っていた。
天才儒者・中根東里、知られざる大詩人 ― 2015/07/02 06:34
磯田道史さんの『無私の日本人』で、二人目は中根東里(なかね とうり) という儒者である。 「詩文において中根にかなうものはおらぬ」というのが、 享保(1716~36)ごろの江戸文人の常識であったし、寛政(1789~1801)に 入ると、わずかに遺された詩稿を目にした諸家が「慶元以来(慶長元和、つま り江戸時代になって以来)、稀有絶無の天才であろう」と驚愕したという。
これほどの天才が世に知られなかったのは、みずからつくった文章を、こと ごとく竈(かまど)の火の中に投じてしまって、おのれの形跡をひたすら消そ うとし、村儒者として生き、村儒者として死んだ人物だったからである。
伊豆下田の医師の家に生れ、禅寺に入り、唐音(中国語)を学びたいと宇治 の黄檗山萬福寺に行き、唐音を習得した。 萬福寺の経蔵には、中国渡来の万 巻の書があったが、禅の修業は書見ではないといわれ、山を下りる。 「江戸 に徂徠なる者がいる。博学であり、文章をもって後進を誘い、新しい学問をや っている。唐音については、自分の右に出る者はいないと自負している」と聞 いた。 江戸駒込の浄土宗蓮光寺の僧、慧岩(えがん)が詩文にすぐれ荻生徂 徠の門下と知って、そこを訪ねた。 黄檗山で唐音を学んだと聞くなり、慧岩 は身を乗り出した。 江戸文人の中国への憧憬の強さは、我々の想像を絶する。 江戸の日本人は、庭も書画も、かの国のものを尊んだ。 東里は蓮光寺で、こ の世にある一切の経典をあつめた大蔵経五千余巻を、比叡山をひらいた伝教大 師最澄と同じ19歳で読破した。 博覧強記で、学びの姿勢は真摯そのもの、 書物を読んで字句の解せないところがあると、五年でも十年でも憶えており、 事にふれて、解がひらめく。 東里の噂が、荻生徂徠に届き、慧岩に「会わせ てもらえないか」と、丁寧に言ってきた。
正徳から享保にかけて(1711~36ごろ)、江戸の儒学界には荻生徂徠の嵐が 吹き荒れていた。 徂徠は、儒学は宋代の学者・朱熹の朱子学によって曲解さ れた、わしが本物の儒学を教える、と過激な説を唱え、多くの門人を集めてい た。
実は、この後、磯田道史さんは荻生徂徠について、あまり善く書いていない。 むしろ、悪く書いている。 そこで、ちょっと脱線する。 私は、荻生徂徠に ついて、まったく知らない者だが、最近その名前を二つのところに書いていた。 2014年12月『福澤手帖』第163号の「青木功一著『福澤諭吉のアジア』読書 会に参加して」に、講師の平石直昭東京大学名誉教授が質疑応答の中で儒学に ついての質問に、こんな興味深い見解を述べられたと、こう書いた。 「勝海 舟は本物の儒学者ではない、福沢は本物の洋学者。日本に近代を樹立したのは 荻生徂徠で、人類史、文明史全体を括弧に入れ、人類の文化の外に出た。儒教 的枠組みをとっぱらって、事物そのものを見た。陰陽五行説は、聖人が作り出 したもの。蘭学(福沢のやった)も、国学も、学問の方法としては、徂徠学か ら出ている。最近の中国でも戦略家は『春秋左史伝』を参考にしているのでは ないか。福沢は『春秋左史伝』が得意で全部通読し、十一度も読み返して面白 いところは暗記していたと『自伝』にある。」
もう一つは、落語に「徂徠豆腐」というのがある。 入船亭扇辰が3月の国 立小劇場の落語研究会で演じたのを、この日記の3.16.に前半、3.17.に後半を 書いた。
磯田道史さんが、荻生徂徠について、どう書いているかは、また明日。
江戸期の通貨発行、家意識、庶民の輝き ― 2015/07/01 06:39
磯田道史さんの『無私の日本人』に教えられた「江戸時代」の続き。 これ また司馬遼太郎さんのように「江戸時代の奇妙さは」で始まる。 「江戸時代 の奇妙さは、国家の大権であるはずの通貨発行の実務を、国家みずからが行わ ず、ちまたの商人にゆだねたことである」。 「寛永通宝」という銭を、銅また は鉄で鋳る「鋳銭」であるが、中央政府たる徳川幕府は、この基本的通貨の発 行を一手におさめなかった。 親藩はもちろん、外様大名にまで、「鋳銭」を許 した。 もちろん、幕府の許可のもとで行われるのであるが、それは建前であ って、「鋳銭」を許された大名は、もとより財政難だから、野放図に、銭を鋳た。 しかも、この鋳造作業は、藩が直接に手を下すのではなく、豪商などに請け負 わせた。 商人が、銭を鋳ることを「鋳銭御用」という。
国家の一大事である通貨発行を、幕府から藩へ、藩から商人にゆだねてしま う、徳川幕府のこのやり方は、幕末にいたり、悲劇につながった。 薩摩藩な どの諸藩が、贋貨幣を発行して、おおいに藩庫を肥やした。 「寛永通宝」は、 一枚つくっても一文(いまの五十円)にしかならないが、「天保銭」は一枚で百 文(同五千円)に通用する恐るべき銭であり、この「天保銭」を「私鋳」する ことで、幕末、諸藩は大いに儲けた。 諸藩に銭を鋳させた幕府にも脇の甘い ところがあり、それが幕府のいのちを縮めた。
江戸時代も後半にさしかかっていた『無私の日本人』穀田屋十三郎の時代に なると、「家意識」は、この吉岡のような小さな宿場町の人間にもすっかり浸透 していたそうだ。 「家意識」とは、家の永続、子々孫々の繁栄こそ最高の価 値と考える一種の宗教である、と磯田道史さんは言う。 この宗教は「仏」と 称して「仏」ではなく先祖をまつる先祖教であり、同時に、子孫教でもあった。 子孫が絶え、先祖の墓が無縁仏となることを極端に恐れた。 江戸時代を通じ て、日本人は庶民まで、この国民宗教に入信していった。 室町時代までは、 家の墓域を持つことはおろか、墓に個人の名を刻むことさえ珍しかったが、江 戸時代になると、「誰が墓を守るのか」が問題になり、「墓を守る子孫」の護持 が絶対の目的となった。 それゆえ、「現世のおのれか、末世の子孫か」と、迫 られれば、たいていの人間は後者をとった、と磯田道史さんが書いている。
「無私の日本人」の主題にも関係のある、江戸時代人の姿も引いておく。 「江 戸時代、とくにその後期は、庶民の輝いた時代である。江戸期の庶民は、/― ―親切、やさしさ /ということでは、この地球上のあらゆる文明が経験した ことがないほどの美しさをみせた。倫理道徳において、一般人が、これほどま でに、端然としていた時代もめずらしい。」
「苗字をもち、武士並みの身分をもつ千坂よりも、菅原屋と十三郎のほうが、 切腹の覚悟が定まっていたのは、別段、驚くにあたらない。この時代の百姓町 人は、いざとなれば、そういうものであった。/いってみれば、/――廉恥 / というものが、この国の隅々、庶民の端々にまで行き渡っており、潔さは武士 の専売特許ではなかった。」
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