江戸時代の「庄屋」という宝物2015/06/30 06:36

 磯田道史さんの『無私の日本人』(文春文庫)「穀田屋十三郎」では、江戸時 代のことで、今まで知らなかったいろいろのことを教えられた。 「徳川時代 の武士政権のおかしさは」という、司馬遼太郎さんのような書き出しで、「民政 をほとんど領民に任せてしまったことである」という話がある。 その意味で、 徳川時代は奇妙な「自治」の時代であったといっていい、というのである。

 大名家(藩)というのは、もともと軍隊であり、民政のための組織ではない。  農村に武士を送り込んで「庄屋」とし直接支配する方法もあったが、薩摩藩な どを除いて、そのような方法はとられなかった。 そんなことをすれば、百姓 の抵抗が予想された。 武士政権としては、年貢さえおさめてくれればよく、 あえて農村の瑣事に立ち入る必要はなかった。 また農民の側も立ち入られた くなかった。 それが徳川時代はじめのこの国の雰囲気であり、武士政権と農 民の双方が折り合いをつける形で出来上ったのが、<村請制><庄屋制>の二 つの制度であった、というのである。

 有力農民を選んで「庄屋」に任命し、村単位での徴税と民政を請け負わせる 制度である。 この制度のもとでは、「庄屋」の上に約十ヶ村ごとに「大庄屋」 を置いた。 仙台藩では、それぞれ肝煎、大肝煎と呼んだ。 「大庄屋」の上 には、藩の武士が務める郡奉行(こおりぶぎょう)や代官がいたが、実際の仕 事は「大庄屋」と「庄屋」が、すべて処理した。 「領内の人口を調べよ」と 命じられれば、宗門人別帳(戸籍)を作って人口を数えるのは、「大庄屋」と「庄 屋」の役目であり、郡奉行や代官は、上座に座ってまったく動かず、報告を聞 くだけだった、という。

 江戸時代の日本人口は三千万人、家数は六百万軒。 村は日本中に五万あっ て、ふつうは「庄屋」が一人ずついる。 村に数人の領主がいる場合や、大き な村には、一つの村に、「庄屋」が数人いることもある。 「庄屋」は家族もひ っくるめて五十万人前後いて、百姓のうち、およそ五十人に一人ぐらいが「庄 屋」である。

 お侍の家族は百五十万人ほどだから、「庄屋」よりも人数はずっと多い。 武 士は合戦が本務だから、平時には役に立たず、民政担当になるものは少なく、 日本中に五十万人いた「庄屋」の家族たちが、民のめんどうをみていた。 そ の意味では、明らかに「庄屋」たちが、この国を支えていた。 それほどまで に「庄屋」は重要だった、と磯田さんはいうのである。

 「知識」という点でも、「庄屋」は、この国の宝物だった。 幕末、日本が目 覚めようとしたとき、「学がある」ものは少なかった。 漢文で読書ができ、自 分の考えを文章にまとめることの出来る人口は、意外なほど少なかった。 武 家が百五十万、「庄屋」が五十万、それに神主や僧侶を加えた一割たらずが、洗 練された読書人口だった。 とりわけ農村にいた「庄屋」の五十万人が、文化 のオーガナイザーになっていた。 「庄屋」は、百姓たちにとって、行政官で あり、教師であり、文化人であり、世間の情報をもたらす報道機関でさえあっ た。 国というものは、その根っこの土地土地に「わきまえた人々」がいなけ れば成り立たない。 「五十万人の庄屋」、この人々のわきまえがなかったら、 おそらく、この国は悲惨なことになっていたにちがいない、と磯田道史さんは 指摘しているのだ。

 「等々力短信」にはスペースがなくて書き切れなかったのだが、磯田道史さ んの師、速水融先生から、私は学生時代に「日本経済史」の講義を聴いていた。  たしかまだ助教授で、留学前だった。 宗門人別帳から人口を調べる話を聞い た記憶がある。

磯田道史著『無私の日本人』<等々力短信 第1072号 2015.6.25.>2015/06/25 06:35

 いろいろと活躍の目立つ若い歴史学者の磯田道史さんは、慶應の学生時代、 図書館中の本を読む勢いで読書したことと、江戸時代の宗門改帳から人口動態 や経済を読み解いた速水融(あきら)教授のもとで、全国津々浦々、様々な時 代の古文書にふれたことが、いまの自分を形づくったという。 2012年に8 年いた茨城大学から、静岡文化芸術大学(浜松市)に移ったのは、東海地震の 恐れの高いこの地で、災害に関する古文書を全国から集めて研究するためだっ た。 13年春から朝日新聞に連載したコラム「備える歴史学」で、災害から生 き延びる知恵を伝え、『歴史の読み解き方 江戸期日本の危機管理に学ぶ』(朝日 新書)、『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)を出した。

 文春文庫に入った『無私の日本人』を読む。 穀田屋十三郎たち、中根東里、 大田垣蓮月の三人の評伝だ。 蓮月尼だけしか名前を知らなかった。 穀田屋 (こくだや)十三郎は、伊達藩の仙台に近い吉岡という宿場町、年貢と賦役で 町が潰れていくのを、なんとか救えないかと悩んでいた。 同じことを考えて いた菅原屋が奇手を提案する。 主な商家が身売り破産覚悟で金を出し、千両 の基金をつくって、財政難の藩に貸し、一割の利息を全住民に配分する仕組み だ。 仙台藩領では肝煎と呼ぶ庄屋、苗字をもち傘がさせて絹や紬が着られる 黒川郡の大肝煎・千坂仲内が賛成してくれるが、その上に代官、郡奉行、出入 司の壁がある。 願書を出すと、役所は事なかれ主義、先例尊重で、勤番代官 はこの異例の訴願を同役の山越え難路の中新田代官橋本権右衛門へ「たらいま わし」した。 だが、この橋本、上へよろしく取り計らうといい、酒に吸い物 まであるご馳走をしてくれた。 しかし、なかなか返事はなく、二か月後、「吟 味しにくい」と却下されてしまう。 及び腰になり再びお上の方を向く大肝煎 千坂を、菅原屋が拳を握り涙を流して粘り強く説得、再び橋本代官に掛け合う ことになる。 一人の男が、前々から心掛けていた切ない嘆願だったと知った 橋本は「それほどまでの深切の儀であったか」と、吉岡の民に味方した。 末 端の役人が、六十二万石の大藩をつかまえて、近代の福祉国家のごとき、ふる まいをする。 仙台に行き、直属上司の郡奉行に話を通したあと、藩財政の実 権を握る大物、百年に一度の能吏といわれる出入司・萱場杢を説得した。 さ すがは萱場、銭でなく金に直せと裁可した。 吉岡の民は必死になって、五百 万枚の銭を金千両の相場で八十万枚上乗せする。 嘆願書を出した九人は、褒 美の賞金も宿場の者たちに分け与えた。 江戸時代を通じ、吉岡の人口は減ら なかった。

 磯田さんは、関係の古文書を読んで、泣いたという。 災害も政治も歴史は 繰り返す。 子供が生まれて、将来の日本を生きる子や孫に、伝えたいことを 書いた。

なぜ山形県鶴岡に慶應の先端生命科学研究所か2015/06/23 06:34

 18日は、6月第3金曜日毎年恒例の、慶應三高校新聞部OB・OG会、「ジャ ーミネーターの会」だった。 今年は昭和39・40年女子高卒のOGが幹事で、 会場を東京銀行協会ビルの銀行倶楽部に移し、講師に冨田勝慶應義塾大学先端 生命科学研究所長を迎え、「慶應鶴岡キャンパス15年目の挑戦~メタボローム と人工クモ糸で山形県に一大産業を」というスピーチを聴いた。 山形県鶴岡 は、私の父の故郷で、懐かしさと思い入れがあったので、楽しみにして出かけ た。

 なぜ慶應が山形県鶴岡に研究所をつくったのか、という質問があった。 冨 田勝さんは、土地、建物、運営費、三十五億円の基金と、山形県と鶴岡市半々 での総額百数十億円のdonationがあったからだと答えた。 研究所を誘致し ても、すぐに効果は出ない。 1999年当時の富塚陽一鶴岡市長(2009年10 月まで5期18年務めた)は、次の20年を考えると必要なのは産業で、多くの 自治体は既にあるものを持って来ようとするが、ゼロから産業を立ち上げる気 概が必要だと言った。 いいモノ、いいサービス、いい技術を生み出す知的産 業、その核になる研究所が重要だ。 反対派議員の質問に、次の世代に何を残 すのかが、この研究所だ、何%かの種まきをしなければ、庄内に20年後、30 年後はあるのか、慶應と心中するつもりだ、と感動的な答弁をした。 2001 年研究所が開設され富田さんが所長に任命された時、富塚市長は、地元に貢献 とか、経済効果とか言われるだろうが、そういうのはファンサービスだと思え ばいい、ただ一つ「世界が振り向く研究をして下さい」と言ったそうだ。

 地方創生、地方再生というけれど、「地方」という言葉には格下感があり、地 方に転勤というと「飛ばされた」感じがぬぐえない。 それでは、創生も再生 もしない。 大学の研究室は首都圏に集中している。 欧米の研究所は、アメ リカのボストンやシリコンバレー、イギリスのケンブリッジやオックスフォー ドも、みんな田舎の都市や郊外にある。 鶴岡の先端生命科学研究所は、歩い ても、自転車でも、車でも、10分の距離を通ってくる。 民家を借りると、庭 があって、スローライフを楽しめる。 一粒で、二度美味しい。 春夏秋冬、 春は鶴岡公園に桜が咲き、夏は湯野浜温泉の海に夕日が沈む、秋は庄内平野に 庄内米が実り、冬の雪の中も美しい羽黒山の五重塔はミシュランの東北must visit二つの一つに選ばれた。 2014年12月、鶴岡市はユネスコの食文化創造 都市に認定された(当日記2015.2.17.「「三州屋」と「おいしい山形プラザ」」 参照)。 鶴岡の人は、素材を重視し、旬のものしか食べない。

鶴岡市の人口は13万人で、十分に小さく、十分に大きい。 先端生命科学 研究所は、200人の雇用を生み出した。 被雇用者7万人の0.3%だ。 鶴岡 市の種まきは、想定以上のスピードで実を結びつつある。 日本はコスト競争 ではもはや新興国に勝てない。 生き残るには科学技術を駆使し、高くても売 れる高付加価値のモノやサービスを生むことが鍵になる。 科学技術、新産業 の創出、地方活性化、人財(?)育成、健康長寿を五つの柱に活動を続けたい。

日本美術は印象派・表現主義・抽象画を先取り2015/06/15 06:32

 ピーター・ドラッカーは大学(カリフォルニア州クレアモントのボモナ・カ レッジ)で5年間、日本(東洋)美術のゼミを開き、自らのコレクションを見 せながら、学生と話し合った。

 ドラッカーは、近年話題になっている奇想の画家たちの作品も、いち早く蒐 集している。 伊藤若冲《梅月鶴亀図》を抽象画のよう、曾我蕭白《雪景山水 図》の白く輝く山間の光景を、静かな中にわずかな人の気配がする独自の山水 画と賞賛する。 日本の画家は個性的だとして、「日本美術への恋文」で、こう 述べる。 「どんなに長く日本美術の個人主義に感銘させられてきたか。日本 における一様性、即ち日本人は個人として存在するより家や会社の形で組織化 されていると耳にするが、一方、日本の画家たちは極端なまでの個人主義者な のである。」

 西洋を先取りした画家たちの感性として挙げるのが、谷文晁《月夜白梅図》。  光をとらえた西洋の印象派のような絵だとする。 長沢芦雪《娘道成寺図》は、 まさに抽象画だと、うなる。 クローズアップした釣鐘の下から、娘の袖が出 ている。

 「芦雪は鐘を描いたが、それは西洋に150年先立つ抽象画である。谷文晁が 描いた梅は、半世紀後にターナーやモネが試みたように、光を絵の主題とした ものだった。白隠の達磨は、ピカソ、マチスらにあらわれる表現主義のあらゆ る可能性を蔵し、仙厓は150年も前にピカソの後半の活動を行っていた。過去 一世紀の西洋が展開してきた近代的な視覚や感性は、日本にとっては近代どこ ろか、古くからのものであったということである。」

 ピーター・ドラッカーは、2005(平成17)年に95歳で亡くなった。 200 点のコレクションは、その日本美術への愛の結晶である、といわれる。 私は、 先日の世田谷美術館の石井幸彦学芸員の講話を思い出した。 速水御舟は百年 に一人という画家、日本画で20世紀は速水御舟、ほかの時代だと雪舟、蕪村 というように、という話だったが、その雪舟、蕪村を、ドラッカーはきちんと 評価していた。 千葉市美術館の河合正朝館長も、偽物の多い浦上玉堂のコレ クションについて、ドラッカーの眼力は素晴らしいと話していた。

ドラッカーの愛した禅画、そして文人画・南画2015/06/14 07:10

 ピーター・ドラッカーは1950年代、大学で講義するとともに、アメリカ大 企業のコンサルタントを務め、1954(昭和29)年『現代の経営』を出版、「マ ネジメントの発明者」とも言われた。 ちょうど日本の高度経済成長の始まり の時期に当たり、1959(昭和34)年初来日、経営者セミナーで講演し、ソニ ーの井深大、オムロンの立石一真と出会って、日本の成長を確信した。

 この時、出合って魅了されたのが、禅画である。 古美術商の薮本宗四郎を 指南役に、コレクションを進めた。 白隠慧鶴《半身達磨》、仙厓義梵《蛙図》。  驚くほど強靭な作品で、欧米人の目には、それが持つ精神性と抽象性という特 徴が、殊に魅力的に映るという。 仙厓の《鍾馗図》の自由奔放は、300年も 先に西洋の表現主義の絵を先取りしていた。 白隠は臨済宗中興の祖、沼津市 松蔭寺を拠点に活動、前半生は苛酷な修行でノイローゼにもなるが、42歳で大 悟に至り、人々を救うことに全力を注ぐ。 《蓮池観音図》など多くの観音図 を描いたが、それは微笑む、民衆に支持された観音菩薩だった。 《半身達磨》 など白隠の達磨は、60代、70代、80代と、年取る毎に力がみなぎり、見る者 に迫って来る。 白隠は、大きな達磨図を描くのにどのぐらい時間がかかるか 聞かれ、「十分間と八十年」と答えた。 ドラッカーは、レンブラントやモネも 同じような答えをするだろうが、西洋人が「八十年の歳月」という時、その技 術の習得に必要な年数をいうのに対し、日本人の言う「八十年」は、まず達磨 図を描くことのできる人間になること、精神的な自己体得を意味する、達磨図 の精神性は、技術などではごまかせない、とした。

 1969(昭和44)年の『断絶の時代』は、ドラッカーの名声を不動のものと する。 情報化の進展、グローバル経済の出現など、根源的変化が起りつつあ ることを指摘した。 この時期に蒐集したのは、文人画・南画である。 俳人 でもある与謝蕪村の《山水図》。 岡山藩士で50歳で脱藩、放浪しながら琴を 弾き絵を描く気ままな生涯を送った浦上玉堂の《山声松音図》。 田原藩家老で 幕府の異国船打払令に反対し投獄され蟄居、絵を売りながら暮しを立てたのが 露見、藩主に迷惑をかけることを懸念して自決した渡辺崋山の《蓮花遊魚図》。  番組で舞踏家・田中泯さん(映画『たそがれ清兵衛』で真田広之と斬り合った、 朝ドラ『まれ』では能登の塩の職人をやったらしい)が朗読したドラッカーの 「日本美術への恋文」には、こうある。

 「文人画家には侍出身の人が多くいた。投獄された果てに自殺に追いやられ た崋山に至るまで、文人になった侍たちは、体制と問題を起し、反抗し、脱藩 したりする者があった。文人の間では、士農工商など階級の区別はなかった。 学問と芸術にもとづく日本における最初の近代社会であり、今日の日本のモデ ルとも言えよう。ペリーの黒船が下田に現われる頃には、文人とその南画が、 生れや財産でなく教育によって地位や尊敬が得られる社会、武士ではなく市民 の階級制から自由になった社会を、築いていた。文人は自己の絵画様式と流派 を発展させることによって、徳川政権崩壊後の日本が築かれる基礎を据えたの である。」