岡部長景元文相の「巣鴨日記」2015/08/28 06:38

『文藝春秋』9月特別号の大特集「昭和九十年」日本人の肖像。 つぎに読 んだのは、奈良岡聰智京都大学大学院法学研究科教授の「七十年目の新発見“A 級戦犯”幻の肉声」と、「抄録 岡部長景「巣鴨日記」」。

岡部長景(ながかげ)は明治17(1884)年生れ、父は元岸和田藩主長職(な がもと)、妻は岩崎彌太郎の孫悦子、弟は朝日新聞社長村山長挙(ながたか・初 代社主村山龍平の養子)と、終戦時の昭和天皇の侍従長章(ながあきら)。 父 は廃藩置県後、外交官となり、外務次官、司法大臣、枢密顧問官を務めた。 岡 部長景も、学習院高等科、東京帝国大学を出て、外務省に入る。 大正から昭 和の初年、中国との関係が悪化する中、亜細亜局文化事業部長、外務省文化事 業部長を務めた。 昭和4(1929)年、牧野伸顕内大臣の秘書官長となり、翌 年、貴族院議員に当選、院内最大会派である研究会の中心となった。 岡田啓 介内閣の陸軍政務次官、東条内閣では文部大臣に就任した。 東条とは、学習 院時代からの友人だった。 文部大臣時代に学徒出陣が行われた。 理科系の 学生の出陣を免除するなど、軍部に対して一定の自説を通していたようだとか、 金属回収が行われる中、奈良の大仏の供出を止めるよう主張したとも伝えられ ているそうだ。

岡部長景「巣鴨日記」は、昭和20(1945)年12月3日の記述から始まる。  疎開していた伊豆古奈から葬儀に出るため帰京、赤坂丹後町の自宅は被災して いたので実弟の村山長挙邸に帰る。 朝日新聞からの情報で、自身の戦犯指定 を知る。 召喚の連絡を受け、7日は叔父の岩崎久彌(80・三菱三代目社長) に挨拶、10日朝日新聞社の車に弟の長挙社長と長男長衡(ながひら)と同車し 巣鴨刑務所の終戦連絡事務局巣鴨分室に出頭する。

「真崎(甚三郎陸軍)大将を先頭に(石原広一郎石原産業社長と)三人行く と先づ所持品の検査。スートケースを二つ明けて内容を詳しく点検。文房具類 は筆紙鉛筆は差支えないが其他は大体留置。食物は一切不許可。衣類はパッス。 寝具は後廻し。着衣類も悉く(ことごとく)脱がされ備付の海老茶色のビロー ドガウンを一枚着用。スートケース一個と脱衣の籠とを持って診察室に入り体 格検査を受け、更に次の消毒室に入る。全室白煙濛々(もうもう)。下着から着 るに従って例のDDTを散布する。丁寧なものである。これならば蚤や虱(し らみ)に悩まされることもあるまいと先づ安心した。ここで着衣を終り、スー トケースと下着類丈の包をブラ下げてMPの後をついて鉄格子の戸を幾つか通 って、二階の二十八号房に入れられた。扉を閉ぢてからガチンと鍵のかかるの は不愉快だが、窓はふつうの高さ。房の大さは約二畳台目といったところ。便 器はあるが水洗式。洗面台も水道。壁は白くて教育会の会長室よりは少しきれ い。」

「同列の房には東条(英機・元首相)、島田(繁太郎・元海軍大臣)を始め閣 僚連から土肥原(賢二・陸軍大将)、本間(雅晴・陸軍中将)等の将軍も居られ た。皆から君は何の為に来たのかと質問されたのには答へに困った。」

「夕食は五時過。丼とお椀を持ち行列して炊事係の前に行き、よそってもら ひあぶない腰付で持帰る姿は、あまりみっともよくない。然し鯖の煮込で米は 食べきれぬ位の分量。蜜柑二個に紅茶。配給量よりは大分超過して居るので少 し残す位。」

12月12日 「梨本宮殿下(守正王・伊勢神宮祭主)が吾々と同様の御扱を受けさせられ る御有様を拝して只々恐懼の外はない。食事時に丼とお椀を持って御出の御姿 の如きは涙の外はない。嗚呼敗戦なる哉と長大息せずに居られない。/それに しても又よくも最高層の人をかくも引張ったものと思はせられる。非常なこと である。どうなることか、唯天祐を祈るのみ。/はからずも御国のためにこの からだ ささぐるときは来にけるらしも」

「A級戦犯」という言葉2015/08/27 06:38

 『文藝春秋』9月特別号で、つぎに読んだのは、大特集「昭和九十年」日本 人の肖像。 「父を靖国から分祀してほしい」、A級戦犯・木村兵太郎(刑死) 長男の訴え。 木村太郎さんに、中島岳志北海道大学大学院准教授が聞いてい る。 私が「A級戦犯」という言葉を、正確には知らなかったことが判明した。  東京裁判(極東国際軍事裁判)では、平和に対する罪、通例の戦争犯罪(捕虜 の撃退等)、人道に対する罪、の三つが裁かれることになった。 A級、B級、 C級の違いは、被告の地位や責任の重さによるものでなく、A級は「平和に対 する罪」、B級は「通例の戦争犯罪」、C級は「人道に対する罪」を対象とする ものだった。 しかし、インドのパール判事が主張したように、A級とC級は 事後法だった。(このことについては、中島岳志さんの『パール判事 東京裁判 批判と絶対平和主義』白水社・2007年がある)

 木村兵太郎は、平和に対する罪(A級戦犯)として裁かれる。 木村兵太郎 は、砲兵科で陸軍の中の技術系、兵器局長を務め、昭和16年4月に阿南惟幾 の後任で陸軍省次官となり、10月の東条英機内閣でも留任する。 東条内閣崩 壊後、昭和19年インパール作戦の失敗で敗色濃厚のビルマ方面司令官となる。  降伏後、巣鴨プリズンに収容され、昭和21年5月3日からの東京裁判に臨む。  長男木村太郎さんは、初めての本土爆撃となった昭和17年春のドゥーリット ル空襲で、捕虜を裁判にかけて処刑した事件のとき、次官だった木村が命じた ものとして訴追された、次官はあくまでも補佐役で歩かに大きな罪状となるも のもなく、極刑の対象となったのは謎という他ない、と言う。 今ではイギリ スによる報復だったのではないか、と感じている。 シンガポールを攻略され た屈辱と捕虜として泰緬(たいめん)鉄道建設に従事させられて虐待を受けた 恨みは極めて根強いものがあった。 最後にビルマで英軍と対峙していた父以 外に、対象者がいなかったからではないかと推測している、と言う。

 判決の昭和23年11月12日当日、当時暮していた大阪で、祖母や姉とラジ オを聞いていて、「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」には、頭から冷水を浴 びせられた程の衝撃だった。 A級戦犯は、12月23日に巣鴨で刑が執行され、 遺骨はほとんどが海に撒かれた。

 木村太郎さんは、言う。 世の中でまずいことが起きたり、失敗したりする とマスコミは、その責任者をすぐに「A級戦犯」は誰それだ、と表現するけれ ど、遺族の立場から言わせてもらえば、これほど不見識なことはない。 中島 岳志さんは、それに応え、「そもそもA級戦犯とは罪の重さではなく、「平和に 対する罪」という東京裁判でのカテゴリーを指すものです。現在の用法は、完 全に間違っていることはしっかりと伝えたいですね。」と、語っている。

又吉直樹と『文藝春秋』9月号巻頭随筆から2015/08/26 06:30

 世間が夏休みの時期に、いつもの床屋へ行った。 珍しくというか、やはり というか、少し待つことになった。 ふだん週刊誌の積んであるテーブルに、 珍しく『文學界』の9月号がある。 ピース又吉直樹の芥川賞受賞は、こんな ところにまで影響していたのだ。 又吉直樹の「芥川龍之介への手紙」を読む。  又吉さんと書くと、又吉先生と言うのと同じような気がするので、そのままに する。

 又吉は、そもそも、道徳というものを根底から疑っていたという。 芥川の 『侏儒の言葉』で、「道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。」 に出合い、ずいぶん楽になったそうだ。 『侏儒の言葉』の「芸術の鑑賞は芸 術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身 の創作を試みるのに過ぎない。」や、滝沢馬琴を描いた『戯作三昧』から、悪評 さえ創作的動機にするという創作に賭ける覚悟、創作に没頭する時間、「人生」 の輝きについて、述べていた。

まだ時間があったので、映画『この国の空』の女優二階堂ふみが語っている のを読む。 若いのに、いろいろな本を読み、古い映画も見て、深く考えてい るのに、感心する。 映画のラストで二階堂が朗読する詩、茨木のり子の「わ たしが一番きれいだったとき」も、あらためてグラビアで読んだ。

 その流れで、芥川賞発表の『文藝春秋』9月特別号を買ってしまった。 近 くの本屋さん、一軒は売り切れだったが、もう一軒にはまだ残っていた。 こ れがヒットで、いろいろな読みどころがあった。

 まず巻頭随筆。 立花隆さんは、千葉県野田市の鈴木貫太郎記念館にある最 後の御前会議を描いた白川一郎画伯の絵は、写真一枚記録がない中で、出席者 を一人一人まわって、誰がどのような服を着て、どのように並んだか、絨毯の 繊維まで採取して、現場を精密に記録した労作だという。 世界一の「戦争国 家」が世界一の「平和国家」に生まれ変わった、現代日本の出発点は、あの御 前会議の天皇の決断にあるのだから、吹上御文庫附属室と玉音放送が録音され た宮内省政務室を一体型のミュージアムとして、完全公開すべきで、世界遺産 に申請すべきだといっている。

 「指輪に込められた思い」の、マリコ・テラサキ・ミラーさん、肩書は「平 和活動家」だ。 父寺崎英成さんが中国在勤中、上海租界で生まれたマリコさ ん、身の回りの世話をする使用人に囲まれ、豊かな暮らしをしていたが、租界 を一歩出ると、そこには貧困と不正にまみれた悲惨な光景が広がっていたとい う。 ハバナへ代理公使として赴任することになった1936年春、引っ越しの 手伝いにきた中国人労働者の中に、手が赤く腫れ、水ぶくれになった若い男が いて、重労働には慣れていなかった。 昼時、一人だけ残ったのは、ご飯を買 う金がないらしかった。 父は、彼を食卓に招き入れた。 戦争によって自身 と家族の運命が翻弄された元役人だった。 母のグエンさんが彼の指に、素敵 な指輪を見つけて褒めた。 四つ輪のパズルリングで、銀の花模様で装飾され ていた。 母はすぐに後悔する。 彼が指輪を外し、手渡そうとしたからだ。  固辞する母に、彼は「私のことを忘れないでほしいのです」と言った。

 マリコさんが21歳になったとき、母はそのパズルリングを贈ってくれた。  「それから60年間、私は少なくとも月に一度はそれを身につけてきた。母は、 彼のことを決して忘れなかったし、私も死ぬまでこの思い出を胸に抱き続ける だろう。」「指輪をはめるたび、労働者のことを思い出し、また愛と平和に生き た両親の姿に思いを馳せる」と、まもなく83歳になるというマリコさんは書 いている。                               轟亭

六日六晩の憲法2015/08/24 06:33

 8月、続いているブログの流れで、日本国憲法や戦争直後のことにも、ふれ なければならないだろう。 14年前に、こんなことを書いていた。

等々力短信 第905号 2001(平成13)年7月25日

ことの発端は、白洲正子さんの夫君白洲次郎氏の伝記『風の男 白洲次郎』 (青柳恵介著、新潮文庫)を読んだことだった。 白洲次郎は、福沢諭吉の書 簡集にもその名がみえる摂州三田九鬼藩の重役・家宰白洲退蔵の孫にあたる。  豊かな家に育ちケンブリッジに留学、滞英9年、プリンシプルを重んじ、物事 の筋を通し、強者に追従しない、反骨精神あふれる独立自尊の人となった。 正 子夫人の父は樺山愛輔といい、牧野伸顕(その女婿が吉田茂)と親しかった。  共に薩摩出身の明治の元勲の息子、親英米派でもあった。 そんな関係で吉田 茂と親しかった白洲次郎は、吉田の側近として戦後史の重要な時期に、さわや かな一陣の風となって駆けぬけ、大きな足跡を残すことになる。 『風の男 白洲次郎』に加え、そこに引用されている江藤淳『落葉の掃き寄 せ 一九四六年憲法-その拘束』(文藝春秋)や安藤良雄編著『昭和史への証言 5』(原書房)、近刊でお薦めの五百旗頭(いおきべ)真『戦争・占領・講和 1941-1955』(中央公論新社)から、現在の日本をも規定している、以下の衝撃 的な事実が浮び上がってきた。

 敗戦から半年、昭和21(1946)年2月3日、マッカーサー連合国軍最 高司令官(SCAP)は総司令部(GHQ)民政局に指令(特に天皇の地位、 戦争の放棄、封建制度の廃止の3点を含む)を発し、日本政府を指導(guide) するため、独自の憲法草案の起草を命じた。 日本政府に命じた憲法改正作業 が進まず、11か国代表から構成される極東委員会の活動開始が26日に迫っ ていたからである。 民政局長ホイットニー准将は、3人の幕僚ケイディス陸 軍大佐、ラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐に、起草作業案の作成を命じた。  25人が参画、その内21人による9つの起草委員会は、たった6日6晩の特 急作業によって、総司令部憲法草案の起草を完了する。

 2月13日、麻布市兵衛町の外務大臣官邸でホイットニーと3幕僚は、日本 側(幣原喜重郎内閣)の吉田茂外相、松本烝治憲法担当国務相、白洲次郎外相 秘書官、長谷川元吉通訳に、英文の憲法草案を手渡した。 その時ホイットニ ーは、この草案を日本側の発意によるものとして発表すること、日本政府がこ の草案の基本原則を受け入れない場合には、マッカーサーは「政府の頭越しに」 草案を日本国民に提示するだろう、またその場合にはGHQは「天皇の御身柄」 を保証しかねると明言した。 幣原内閣は3月5日の閣議で受諾のやむなきに 至ったことを決意し、天皇の御裁可を得る。

ハンモック・ナンバー2015/08/22 06:29

 等々力短信 第409号 1986(昭和61)年11月15日

 阿川弘之さんは、海軍予備学生の採用試験の面接で、「お前はなぜか海軍を志 願したか」と聞かれ、「はい、陸軍が嫌いだからであります」と、答えたそうだ。  試験官は、ニヤッとしただけで、文句は言わなかった。 結果は、採用であっ た。

 何となく泥くさい陸軍とは対照的に、海軍には、まず短剣と白手袋に象徴さ れる「清潔さ」と「かっこよさ」がある。ただ「かっこいい」だけでなく、「ら しくあれ」の貴族教育や、理数系に重点をおいた教育によって、スマートなジ ェントルマン、合理主義的な技術者集団として、育て上げられてもいた。 海 軍士官には、豊富な海外経験から、国際情勢に明るく、リベラルな考え方をす る者も多かった。 海軍が、近代日本にあって、卓越した人材、技術、国際認 識を持った集団であったのは、確かである。

 昭和十二年十月からの二年間、海軍が、米内光政大臣、山本五十六次官、井 上成美軍務局長のトリオで、日独伊三国軍事同盟の締結に、「こんな条約を結べ ば、対米戦争になる」という認識のもとに、文字通り命を賭けて、反対し続け たのは、そうした海軍のよき伝統の、もたらしたものだったのだろう。 その 海軍がなぜ、陸軍の独走にブレーキをかけられず、陸軍に引きずられるような 形で、戦争への道を歩んでしまったのだろうか。

 「戦前の事はすべて悪」という時代に育った私などが、欠落した日本海軍史 を概観するのに、かっこうの本がある。 二十歳の海軍中尉として、呉軍港で 敗戦を迎え、今は東北大学の教授をしている池田清さんの『海軍と日本』(中公 新書・昭和五十六年)だ。 この本に海軍兵学校中心の学閥、とくに兵学校の 卒業席次(いわゆるハンモック・ナンバー)の重視が、海軍のひよわな、もろ い体質を作ったという指摘がある。 井上成美は兵学校校長時代、ハンモック・ ナンバーと最終官職の関係を研究し、「兵学校三-四年間の成績が、卒業後二十 五年間の勤務成績に匹敵する」という結論を得た。 池田清さんは「計算外の 事態が発生した場合、とっさに臨機応変の対応ができる人物は、模範解答づく りのうまい学校秀才からは生まれにくい。『独断専行』をより重視した野戦派の 陸軍将校に比べ、学校秀才型の海軍将校はスマートすぎて野性味に欠けていた」 と言う。

 これは、偏差値だけを重視し、日本全国に東大亜流の学校ばかり作って、よ しとしているかに見える、現在の教育体制への、強烈な警告である。 あれほ どの犠牲を払って得た教訓を、今日に、まったく生かしていないように思われ るのだ。