追悼・阿川弘之さん、海軍提督三部作2015/08/21 06:35

8月3日、阿川弘之さんが亡くなった。 94歳だった。 阿川さんの名前を 知ったのは、私が高校を卒業して大学に進んだ1960(昭和35)年だと思うの だが、読売新聞に『ぽんこつ』という小説が連載されたのを、面白く読んだか らだった。 墨田区竪川に多くあった、ぽんこつ屋の話である。 ぽんこつ屋 といっても、お分かりにならないかも知れないが、廃車になった自動車を解体 して、部品を再利用したり、鉄板その他の金属を回収したりする商売だ。 乗 り物好きの阿川さんらしい作品で、挿絵ともどもユーモラスで軽快な感じが気 に入った。

その後、小泉信三さんの『海軍主計大尉小泉信吉』を読んだ影響もあって、 『山本五十六』『米内光政』『井上成美』の海軍提督三部作を読むことになった。  「等々力短信」には、『米内光政』から、1982年3月25日の第246号「終戦 時、日本本土が戦場にならず、国も分割されず、に果した米内の役割。」、4月 5日第247号「閑職時代、楽しみにした読書が、後に役立つ。」、4月15日第 248号「支配的意見は必ずしも正しくないという開戦の教訓。」を書き、これは ちょうど一年前、8月13日~15日の当日記に「阿川弘之さんの『米内光政』 執筆動機」以下としてデジタル化して再録した。 今回は、追悼の意味を込め て、『井上成美』を読んで書いた「等々力短信」を再録することにする。

         「ゆとり創造月間」に

 等々力短信 第408号 1986(昭和61)年11月5日

  秋風や函入りの本二冊買ふ

 阿川弘之さんの『井上成美』(新潮社)を買って本屋を出る時、こんな句が口 をついて出た。 読み始めると、旧仮名遣いなので、びっくりした。 六三制 の二期生だから、旧仮名は苦手だ。 俳句や和歌が、旧仮名をルールとしてい ることの意味は、頭では理解できるのだが、本心を言えば、新仮名でもいいの ではないだろうか。 海軍提督三部作の前二作は、『山本五十六』も『米内光政』 も、新仮名だった。 井上成美という硬骨の武人には、旧仮名が似合うと、阿 川さんは考えたのだろう。

 五月に小泉信三さんの歿後二十年の会が三田であって、阿川さんの「小泉先 生と海軍」という講演を聞いた。 初めて見た阿川さんは、スマートな長身の 背筋をピンと伸ばし、真面目な顔で愉快な話をした。 その時も聞き、『井上成 美』にも出てくる、杉田主馬さんのいくつかのエピソードは、よき時代の海軍 の姿を伝えている。 海軍は、ユーモアや遊び、事に当っての柔軟な対応を尊 重し、こちこちの精神を嫌った。

 満州事変の前年の昭和五年、東大法学部を出た杉田さんは、穂積重遠先生の 推薦で、海軍省の書記官、法律顧問になった。 一年間大学院で学ぶと、約束 通り、ケンブリッジに留学させてくれることになった。 大臣室に挨拶に行く と、時の海軍大臣安保清種(あぼきよかず)大将が、気さくに「君、訓令もら ったか、何と書いてあった」と聞く。 「英国ニ於テ英語国際法並ニ軍事行政 ヲ研修スヘシ」と書いてあったと、答えると、「そんなことはな、何ァんにもや らんでええぞ。ただ、彼らがどういうものの考え方をするか、それだけ、どう か、しっかり身につけて帰ってきてくれよ」と言われた。

 終戦の時、この杉田さんが、米内海軍大臣に、ポツダム宣言の、天皇と日本 政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官に「隷属する」、あるいは「制限の 下に置かれる」という、例の shall be subject to という文章を見せられて、「天 皇のご地位はこれで大丈夫か、杉田」と言われる。 「研究の上お答えしたい」 と言うと「いや、即答してくれ」。 十五年前に安保大将が「何も勉強せんでえ えぞ」と言って英国へ送り出してくれたのは、この日のためかなと思って、背 筋が凍るような思いをしたと、現在八十歳を越してご健在の杉田さんが、阿川 さんに語っている。 その時の杉田書記官の答を聞いて、米内さんは、「よしわ かった」と言って、閣議に出ていくのだ。

ポツダム宣言と天皇制の問題2015/08/20 06:28

 スチムソン陸軍長官は、戦後の1947年2月『ハーパー』誌に発表した論文 「原子爆弾使用の決断」で、「われわれはこの目的達成のために、二枚の切り札 (マスターカード)を持っていた。一つは、日本皇軍に対して威力をもつ天皇 であり、もう一つは原爆であった。この原爆によって、天皇およびその側近た ちをして、無条件降伏を余儀ないものと感じさせ、天皇の日本国民に対する測 り知れない力をもって、日本軍をしてわれわれの命令に従わせるということを 達成すべきだと考えた」と書いているという。

 この観点からスチムソンは、一昨日書いたようにして、ポツダム宣言原案と なっていく「対日計画案・覚書」と「共同声明案」を、1945年7月2日にト ルーマン大統領に提出した。 「覚書」には、「われわれが現在の皇室の下にお ける立憲君主制を排除するものでないと付け加えるならば、日本側の受諾の可 能性を相当高めることになると個人的に思っている」と書かれていた。 「共 同声明案」は、対日声明案起草小委員会の検討を経て、「12. われわれの諸 目的が達成せられ、かつ日本国国民を代表する平和的傾向を有し、責任ある政 府が確実に樹立されたときには、連合国の占領軍は、ただちに日本国より撤収 されるものとする。/このような政府は、再び侵略を意図せざることを世界が 完全に納得するに至った場合には、現皇室の下における立憲君主制を含みうる ものとする。」となっていた。

 新任のバーンズ国務長官は、ポツダムに出発する前、ハル元国務長官に意見 を求めたところ、この12項は連合国軍の爆撃が頂点に達し、かつソ連が参戦 するまで待つのが得策だとした。 グルーも必死で、ポツダムに向かうバーン ズ国務長官に自己の所信をしたためたメモを渡したり、マックロイ陸軍次官補 を通じてヨーロッパにいるスチムソン陸軍長官にも伝えさせたりした。

 ポツダム会談(7月17日~8月2日)開始の一日前、米国ニューメキシコ州 の砂漠で行われた人類最初の原爆実験の成功を伝える機密電報が、スチムソン の手元に届いた。 これを知ったトルーマンは、会談でスターリンに対して、 強硬な姿勢に転じたという。 問題の12項で、首脳会談の結果、ポツダム宣 言草案にあった「現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする。」とい う文言は、バーンズや軍部の強硬な反対によって削除されたのである。

 7月26日、全世界に向けてポツダム宣言が発表された。 これを受け取った 日本政府は、7月28日、鈴木貫太郎首相の「黙殺」談話をもって応えた。 ト ルーマンは、これを原爆投下の口実に利用した。 8月6日の広島、8日のソ 連対日参戦、9日長崎と、悲劇が繰り返されることになった。

 8月10日、日本政府は「国体護持」を条件にポツダム宣言を受諾することに 決めた。 日本側の対応は、まさしくグルーが、そしてスチムソン自身が予想 していたとおりのものであった。 同日のホワイトハウスの米首脳で、スチム ソンは日本政府申し入れの線で回答するよう主張したが、トルーマンとバーン ズは、アメリカ国民の激しい反発を恐れて、明確な言質を日本政府に与えるこ とに反対した。 ギャラップ世論調査は、アメリカ国民の7割以上は日本国天 皇を処刑ないし終身禁固にせよと苛酷な処遇を要求していたし、国際的にも、 オーストラリア、ニュージーランド、中国などで天皇を戦争犯罪人として取り 扱うべきであるという声が高まっていた。 数時間の議論の末、フォレスタル 海軍長官の妥協案が出され、結局、ポツダム宣言の言い回しの線に沿って回答 文をまとめ、できるだけ世論の反発を避けるという方針に落ち着いた。 「降 伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従 属する」として、天皇の地位の保証をもとめた日本政府の要求に直接応えては いないが、他方で「日本国の最終的な政治形態は『ポツダム宣言』にしたがい、 日本国国民の自由に表明する意思により決定されるべきである」と述べること によって、もし日本国民が望めば占領後でも天皇制は残りうることを、それと なく示したのである。

グルーの奮闘と、原爆計画の影2015/08/19 06:28

 グルーは、5月31日に予定されているトルーマン大統領の演説に対日声明を 含ませたいと考え、部下のドゥーマンに声明案をつくらせた。 グルーは天皇 制の廃止でなく、立憲君主制の発展が、平和的な日本を再建するための礎石と なると考え、無条件降伏の緩和を主張したが、28日のお膝元の国務省幹部会の 反応は厳しいものだった。 アチソンとマクレイシュの両次官補が反対の急先 鋒だった。 グルーは、へこたれず、すぐトルーマン大統領に直談判した。 「対 日戦争の目的は、『日本が二度と世界平和を脅やかすことができぬよう』、その 戦争能力を破壊することにある。この目的を、『アメリカ人生命の犠牲が最も少 ない方法で達成すること』こそ肝要である。『最後の一人』まで戦う能力を持つ 日本人にそうさせては、アメリカ人の犠牲は計り知れない数に上るだろう。『日 本人が無条件降伏する上での最大の障害』は、彼らが天皇と天皇制を永久に破 壊されてしまうと信じていることにある。もしいま、将来の政治体制は日本人 自身の決定に任されると保証してやれば、二日前の東京大空襲の直後であるだ けに、大きな心理的効果を持つだろう。」

 こう述べたあと、グルーはドゥーマンが作成した対日声明案を大統領に渡し て、演説にこれを含めることを考慮して頂きたいと言った。 このときグルー は64歳、トルーマンは60歳だった。 トルーマンは、ルーズベルトの急死(4 月12日)によって、副大統領から大統領に昇格してから、ほんの1ヵ月半し かたっていなかった。 グルーは老練な職業外交官として40年のキャリアを 持ち、日本人の考え方や心理に最もよく通じていると自他ともに任じていた。

 大統領は、自分の考えも同様な線にそったものだが、陸・海軍長官、参謀総 長、海軍作戦部長とよく討議してから、全員でホワイトハウスにきてほしいと いった。 グルーは連絡を取り29日、ペンタゴンのスチムソン陸軍長官の執 務室で会合が開かれたが、グルーの提案は「ある軍事上の理由」で退けられた。  原子爆弾のことである。 原爆計画の責任者だったスチムソンは、グルーのい う天皇制の効用を十分承知していたが、いまは「時期が悪い」と大統領声明を 出すことすら先送りになったのだ。

 壮絶な沖縄地上戦が展開中の6月16日、グルーはふたたび大統領に、沖縄 陥落時に対日声明を出すべきだと進言した。 草案をといわれたグルーは、少 なくとも米軍の日本本土侵攻作戦前に声明が出されるようにと、草案を提出し た。 大統領の返事は、アイデアは結構だが、対外的に発表するのはやはり、 三大国首脳会談まで延期したいというものだった。

 18日、大統領はホワイトハウスで軍首脳との軍事会議を開いた。 11月1 日を期して九州上陸作戦(オリンピック作戦)を展開すること、ソ連の対日参 戦、原爆投下、対日声明が論議された。 こうしてグルーの天皇制保持により 日本の早期降伏を誘導するという構想は、大きな軍事戦略(とくに原爆投下) との関連で練り直すことが、必要になってきた。 いまや米政府の戦争終結戦 略はグルーの手を離れ、スチムソン陸軍長官の手ににぎられることになったの である。

ポツダム宣言草案の起草者はグルーではない?2015/08/18 06:20

 昨日書いた「歴史秘話ヒストリア」のホームページに、参考文献があった。  番組を見られなかったので、岩波新書の中村政則著『象徴天皇制への道―米国 大使グルーとその周辺―』が読みたくなって、本屋に行ったが版元絶版とのこ とだった。 幸い、近くの図書館にあった。 新赤版89、1989(平成1)年 10月20日発行で、中村政則氏は一橋大学経済学部教授とある。

 「ポツダム宣言―奮闘するグルー―」の章に、「歴史秘話ヒストリア」のあら すじとは、少し違うことが記されていた。 ポツダム宣言草案の起草者は、グ ルー国務次官でなく、スチムソン陸軍長官だというのである。 ポツダム宣言 原案となっていく重要な文書は、1945年7月2日にスチムソンがトルーマン 大統領に提出した「対日計画案・覚書」とそれに添えた「共同声明案」の二つ だという。 この「覚書」を基礎にマックロイ(陸軍省)、ドゥーマン、バラン タイン(国務省)らの入った対日声明案起草小委員会が手を加えてポツダム宣 言草案となっていったというのである。

 中村政則氏は、こう指摘している。 つぎの本は、いずれもグルーがポツダ ム宣言原案を書いたかのように記している。 五百旗頭真『米国の日本占領政 策』(下)中央公論社1985年、エマーソン『嵐の中の外交官』朝日新聞社・1979 年、小堀桂一郎『宰相鈴木貫太郎』文藝春秋・1982年、平川祐(示右)弘『平 和の海と戦いの海』新潮社・1983年。 しかし、山極晃氏の論文「ポツダム宣 言の草案について」(『横浜市立大学論叢』人文科学系列、1986年)が明確に実 証したように、それは明らかに間違っており、中村政則氏自身も資料にあたっ てみた結果、山極氏のスチムソン原案説のほうが正しいことを確認した、とい う。

 これより先、5月7日にナチス・ドイツ軍が無条件降伏した。 翌8日ころ グルーは、スチムソン陸軍長官からヤルタ秘密協定と原爆開発計画を知らされ た。 ヤルタ秘密協定で、スターリンはドイツ降伏から3ヵ月後に対日参戦す ることを米英首脳に約束していた。 5月末までに東京は3回にわたって猛爆 撃を受け、宮城の一部も焼けた。 このうえ原爆が落とされることになれば、 和平交渉の主体となるべき穏健派も焼き殺されてしまうかもしれない。 そう なれば、日本を早期に無条件降伏に引き出すことはますます困難になろう。 グ ルーは一刻も猶予できないと判断し、1945年5月下旬から6月中旬にかけて、 日本の早期降伏を引き出すために行動を開始した。

「日本を愛した外交官グルーの闘い」2015/08/17 06:25

 12日「終戦を決めた鈴木貫太郎首相と天皇」を書くことになったNHK総合 「歴史秘話ヒストリア」だが、5日の「天皇のそばにいた男 鈴木貫太郎 太平 洋戦争最後の首相」の前の週、7月29日に「もうひとつの終戦~日本を愛した 外交官グルーの闘い~」が放送された。 私は録画の予約をしたつもりでいた のだが、録画出来ていなかった。 NHKのホームページの「歴史秘話ヒスト リア」でバックナンバーを見たら、グルーは「ポツダム宣言」の草稿作成に関 わっていて、それが発表直前に書き換えられていたという。 まことに興味深 い事実で、見られなかったのは残念だった。

 ジョセフ・クラーク・グルーは、アメリカの外交官、1880年ボストンに生れ、 1965年マサチューセッツ州マンチェスターで亡くなった。 1902年ハーバー ド大学卒業、カイロのアメリカ領事館を振出しに外交官生活に入った。 パリ 講和会議にはアメリカ代表団の一員として活躍。 1920年デンマーク駐在公使、 21年スイス駐在公使、27年トルコ駐在大使。 32(昭和7)年日本駐在大使 となり、41(昭和16)年日米開戦まで日米関係の平和的打開に努力した。 42 (昭和17)年帰国し44(昭和19)年までハル国務長官の特別補佐官。 44~ 45(昭和20)年国務次官。 対日終戦工作では天皇制の廃止に反対した。 45 年引退。 多くの著書があるが、特に『滞日十年』Ten Years in Japan(1944) は、在日中の日記や公文書、私文書などに基づくもので、日米関係史にとって 貴重な資料である。

 「歴史秘話ヒストリア」のホームページの「あらすじ」には、こうある。

 エピソード1「日本開戦を防げ!」 昭和7年アメリカの大使として日本に 赴任したグルーは、愛犬に起こった出来事を通じて、昭和天皇を敬愛するよう になる。 日本の政治家と親交を結び、日米の緊張緩和に努める頃、二・二六 事件が発生する。 そして開戦が迫るなか、グルーは戦争回避のための日米政 府首脳の会談実現に奔走するのだが……。

 エピソード2「平和のために立ち上がれ!」 昭和20年、グルーは日本の 深い知識と経験を買われ、国務次官として終戦工作を任される。 日本本土侵 攻によって、日米両国が破滅的な被害を出す前に、外交交渉によって戦争を終 わらせようと考えたグルーは、天皇の地位の保証を条件に、日本の降伏を求め る声明案、のちの「ポツダム宣言」の草稿作成を始める。

 エピソード3「書きかえられたポツダム宣言」 グルーたちのポツダム宣言 草稿は、「皇室の下での立憲君主制」を日本に認めていた。 しかし、発表直前 に、草稿は書きかえられ、それらは削除された。 日本は初め、天皇に触れて いないこの宣言を受諾しなかった。 原爆投下、ソ連の対日参戦など、絶望的 状況が続発するなか、グルーは立ち上がる。