空飛ぶ侯爵・蜂須賀正氏と、絶滅鳥ドードー ― 2025/12/30 07:29
24日に書いた「阿波徳島に残る、写楽・十代藩主蜂須賀重喜説」の志摩泰子さんに教えて頂いた蜂須賀家の殿様で、侯爵になった明治以後の十八代蜂須賀正氏(まさうじ)という人物が面白い。 明治36(1903)年生まれ、昭和28(1953)年没(50歳)。 母筆子は徳川慶喜の娘だから、徳川家斉の玄孫にあたる。 鳥類学者、華族(侯爵)、貴族院議員、探検家、飛行家。 絶滅鳥ドードー研究の権威として知られる。 沖縄本島と宮古島の間に引かれた生物地理学上の線である「蜂須賀線」に、その名をとどめている。
大正7年ケンブリッジ大学モードリン・カレッジに留学し、鳥類を研究(山階鳥類研究所に貴重な研究を遺している)、アイスランド、モロッコ、アルジェリア、エジプト、コンゴ、南米、東南アジアを、探検隊を組織して踏破した。 昭和5年ベルギー探検隊とアフリカへ行き、日本人で初めて野生ゴリラと対面した。 昭和9年初のオーナーパイロットとして自家用飛行機を操縦してポーランドへ。 昭和10年~昭和14年アメリカに住み、14年には日系アメリカ人長峰智恵子と結婚、16年長女正子が生まれる。 14年にはスイス政府からエトアール・ボレール勲章が贈られた。 18年品行不良(女性関係や財産問題など)で宮内省より華族礼遇停止処分。 20年敗戦直後爵位返上。 28年日本生物地理学会会長に就任、畢生の論文ドードーとその一族、またはマスカリン群島の絶滅鳥について」を北海道大学に提出、理学博士の学位を取得するも、5月4日狭心症により熱海で没。
熱海には江戸時代から蜂須賀家別邸があり、大正12(1923)年の関東大震災でその敷地に湧いた温泉の量が多すぎたため、行政に管理を依頼したものが、熱海市営温泉の第一号となる「蜂須賀湯」。 これをきっかけに熱海では源泉の町管理が進み、住人であれば誰でも町有温泉から内湯をひくことができるようになった。 正氏は昭和初期から熱海のヴォーリズ設計の蜂須賀家別邸(現在は取壊し済)に住んでいた。
ドードーは、マダガスカル沖のモーリシャス島に生息していた絶滅鳥類。 大航海時代、1598年に航海探検したオランダ人提督の航海日誌によって初めてその存在が報告され、探検隊の食用として塩漬けにした肉が重宝され、入植者による成鳥の捕食が常態化した。 空を飛べず地上をよたよた歩き、警戒心が薄く、巣を地上に作るため、捕食が容易で、1681年で目撃例が途絶え、最初の報告から83年で絶滅してしまった。 村上紀史郎著『絶滅鳥ドードーを追い求めた男 空飛ぶ侯爵、蜂須賀正氏1903-53』(藤原書店・2016年)という本がある。
小田野直武『解体新書』の挿図を描く ― 2025/11/29 07:11
平賀源内が秋田を離れてからほぼ1か月後の、安永2(1773)年12月朔日、角館生れで角館育ちの小田野直武は秋田本藩の「銅山方産物吟味役」に任じられ、あわせて江戸勤務を命ぜられて、角館を出立した。 そのものものしい名の役職は要するに表向きのことで、「銅山」「産物吟味」の語が示すように、源内とかかわり、そのもとで「産物」の名目で蘭画を修業し、源内と藩主曙山との間の画事上の連絡役となれ、との藩主の特命だったのであろう。 直武は、源内に魅せられ、源内に見こまれただけで、この満24歳の年から、まったく思いもかけない運命の展開を迎えることとなった。 彼は十分にこの急変と圧力に耐えて、そのなかから残されたわずか7年の短い生涯の間に自分の天分を美しく開花させた。 彼を愛した主君曙山は直武よりも1歳年長にすぎなかったが、これも異様に華麗な蘭画の数々を花咲かせて、37年のやはり短い生涯を終えた。 秋田蘭画は近代日本の文化史上、小さいながらまことに心をそそる一課題なのである。 僻遠秋田にその種を播いたのが平賀源内であった。
讃岐の浪人男の江戸の住まいに秋田の藩主お気に入りの青年がころがりこんで来て、一緒に洋風の明暗や遠近の画法を研究していたということ自体が、考えてみればすでになかなか面白い。 田沼意次の時代の社会的また精神的可動性(モビリティ)をそのまま図示するような情景であったといえよう。 と、芳賀徹さんは書いている。
源内は、秋田から戻ると、しばらく深川に住んだあと、神田大和町代地(豊島町と隣合わせ)に家を借り、そこで二七の日には「産物会」を催し、直武のほかに4人ほど職人もおいて「本草細工人」と呼ばれる、一種の源内工房を営んで暮らしていたらしい。 直武は初めから源内方に同居の体で住み込んでいたようで、ときおりは大和町から大した距離のない下谷竹町の佐竹藩邸に挨拶や報告、給金を貰いに参上したろうが、もっぱら画業に精を出し、江戸の自由な空気を享受したと見える。
源内が長崎にいた明和8(1771)年3月に開始された杉田玄白をはじめとする、源内の親友たちのグループの画期的大著述が、当時仕上げの段階を迎えていた。 杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の『解体新書』――ドイツの医学者ヨハン・アダム・クルムス著の蘭訳本『解剖学表』(ターヘル・アナトミア)の翻訳作業である。 この書の生命というべき重要さをもつ、解剖図の木版下絵作成の仕事が、江戸にポッと出てほんの数カ月の、満25歳の無名画学生小田野直武にまかされ、彼によってみごとに遂行されたのである。 杉田玄白と源内の信頼関係と、源内の直武の画才に対する高い評価が、そこにはあったのだろう。
クルムスの解剖図をはじめ、玄白が『解体新書』の「凡例」にあげているだけでも、トンミュス、ブランカール、カスパル、コイテル、アンブルと「解体書」と称する蘭書から、どの図をどのくらいの大きさに写してくれ、と注文されたのだろう。 その精緻な銅板挿図の刻線を一本一本、極細の面相筆で写しとっていった。 『解体新書』は、安永3(1774)年8月室町三丁目須原屋市兵衛から出版された。 安武が江戸に着いたのは前年12月半ばだから、直武に何十日の余裕が与えられたのか、当の安武にとってはまことにやり甲斐がありすぎるほどのきつい忙しい仕事であったろう。
慶應義塾が名誉博士号を授与したEU委員長 ― 2025/11/14 07:06
7月28日の慶應義塾のX(旧ツイッター)で、7月23日に欧州委員会委員長のウルズラ・フォン・デア・ライエン氏に、三田の演説館で慶應義塾大学名誉博士号を授与したことを知り、スピーチのさわりも聞いた。 ウルズラ・フォン・デア・ライエン氏は、その直後27日には、スコットランドを訪れていたトランプ米大統領と会談し、欧州連合(EU)と米国との関税を一律15%とすることで大筋合意していた。
ウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州連合(EU)委員長は、主要な国際会議などのニュースで、いつも、その中心に同氏の姿を見るが、どういう経歴の人か知らなかった。 『三田評論』11月号「講演録」にスピーチの全訳が出ている。 ドイツの国防大臣などを務めた後、2019年に欧州委員会委員長に選出された。
もともとは医師としてキャリアを歩み始めたが、30年前、公衆衛生学の修士号を得るために大学に戻った。 医師としては、目の前の患者、その症状と治療法、個々のニーズに集中するよう訓練された。 しかし、公衆衛生学では視点を広げるよう求められ、患者個人でなく、より広いパターンを見る。 「どうやったらこの人を助けられるのか」から「どうやったら皆を助けられるのか」へと視点を変えるのだ。 そこで学んだ最初の教訓の一つを今でも覚えている。 「あなたの健康は私の健康に、私の健康はあなたの健康に依存している」というものだった。
当時は理論として理解しただけだったが、政治家に転身して、30年後、その教訓が現実となり、切実かつ個人的なものとなった。 新型コロナウイルスのパンデミックが欧州を襲った時、何百万人もの欧州市民が袖をまくり上げ、隣人を助けようとした。 欧州の人々は自身のコミュニティを守ったのだ。 パンデミック発生から最初の2年間で、欧州連合(EU)域内に10億回分のワクチンを届け、同時に、域外150カ国に14億回分を提供した。 私たちEUは世界最大のCOVID-19ワクチンの供給者となった。 このアプローチが私たちの責任だったのだ。 世界的なパンデミックを克服するために欧州が結束した結果、この慶應義塾大学名誉博士号を今日ここで、皆さんの前で受けることになった。 それは(先に述べた)公衆衛生学で最初の教訓の一つを学んだ時には、思ってもみなかったことだった。
(講演録の冒頭で、土屋大洋慶應義塾常任理事は、「医学・公衆衛生学の専門知識と経験を基盤にしながらも目の前に現出するさまざまな政策課題に果敢に取り組むフォン・デア・ライエン委員長の姿は、総合的な視点で政策を研究し、提言する大学院政策・メディア研究科の目指すところに合致するとの認識から、委員長来訪に際して同研究科から名誉博士号を授与することになった」と述べている。)
池田弥三郎の生涯、日本の未来<等々力短信 第1195号 2025(令和7).9.25.> ― 2025/09/25 07:03
池田光璢さんから、その「池田彌三郎の生涯に日本の未来を見る」所収の『高岡市万葉歴史館紀要』第35号(3月29日発行)を頂いた。 近年は光璢と名乗る池田光さんは、池田弥三郎さんのご長男で日本文化研究家、昭和35年に大阪で開かれた第125回福沢諭吉先生誕生記念会に私が志木高から派遣された時に、幼稚舎から桑原三郎先生の引率で参加していて、知り合った。 高岡市万葉歴史館館長は藤原茂樹さん、10年ほど前は三田の教授で折口信夫・池田弥三郎先生記念講演会を主催されていた。 「小人閑居日記」2015年11月8日~10日には、その会での光さんの講演「銀座育ち」などを、「池田弥三郎さんの育った家、芸能と宗教」、「岡野弘彦さんの「折口信夫・池田弥三郎」思い出話」、「『折口信夫芸能史講義 戦後篇』(上)」に書いていた。
光璢さんの今回の論考、父池田弥三郎(大正3(1914)年~昭和57(1982)年。以下、敬称略)の人生全体の流れを見て、それがどのような方向を目ざしていたかを考察し、その方向に日本の未来を見出すことが出来るということを示そうとする。 昭和26年慶應義塾大学助教授、35年常任理事、36年教授(「助十」と言っていた)、38年文学博士と、おかしな順序だ。 ラジオのニュース解説やテレビの推理クイズ番組「私だけが知っている」で、「タレント教授」といわれていたことが、否定的な評価をされたのだ。 本人は、自分のしていることが、講義や論文執筆、放送だろうが、「日本人の幸福のために役立ち、日本をすこしでもよくするために、力をそえるものでないなら、自分の一生をそれにかける気などはしないのである」と。(初出版の著書『芸能』(岩崎美術社))
光璢さんは、角田忠信著『日本人の脳』の「日本語人」という言葉を使う。 日本語人は、虫の声、鳥の鳴き声、雨だれの音、川のせせらぎが、左脳に入る。 論理と感情が一体で、「人間と自然が一体」であり、さらに「人間と社会が一体」に通じる。 池田弥三郎の世界は、間違いなく「日本語人的」な世界である。 まず、ことばの本、つぎにふるさと随筆、東京、銀座、日本橋、『三田育ち』、『魚津だより』、その世界は自分の「体験」なしにはあり得ない。 その意味では、弥三郎の書いたものは、すべて「私小説」であり「自伝」であったと言っても過言ではないだろう。 「体験」には、弥三郎の芸能的素質と、池田家の宗教的素質が関係する(上記「池田弥三郎さんの育った家、芸能と宗教」参照)。 折口信夫の方法は、人間と自然が一体ではなく、明らかに、観察者と対象とが離れた世界である。 池田弥三郎の体現した、人間と自然が一体の世界は、日本独自の世界で、今、行き詰っている「非日本語人」的世界の今後に、必要なのだ。
「これから民俗学をやる」67歳の死、古今亭志ん朝、中村勘三郎を思う。
前向きのバランス感覚で、人生の困難を切り拓く福沢 ― 2025/09/21 07:32
Eテレ「100分de名著」『福翁自伝』第3回は「人生の困難を切り拓く」、斎藤孝明治大学教授の解説。 幕臣でない福沢は、咸臨丸渡米の情報を知ってアメリカへ行きたいと、蘭学仲間の桂川が軍艦奉行木村摂津守の親戚なので手紙を書いてもらい、木村摂津守宅を訪れ、従者にしてくれと交渉する。 命懸けの船旅で、木村の家臣も躊躇しているところの申し出で、木村は即承知する。 斎藤孝さんは、相手に勝つことではなく、双方が満足のいく合意を目指す「ハーバード流交渉術」だと言う。 BATNAバトナ(最高の代替案) Best Alternative To a Negotiated Agreement。 「ハーバード流交渉術」は、交渉のカギを握る7要素として、BATNA、コミットメント、コミュニケーション、関係、関心利益、オプション、正当性、を挙げる。 その中で、斎藤さんが重要だと考えるのは、関心利益、オプション、BATNAの三つだ。 福沢は、経験値が得られる。 木村は、従者が得られる。
まず、入り込まないと、咸臨丸に乗らないと、いけない。 船が40度傾くような大変な航海、福沢は牢屋で地震に遭うようだと言い、平然と乗り切る。
サンフランシスコに着いて、まず3、4月(1860(万延元)年)というのにコップに氷が入っているのに驚く。 カルチャーショック。 新婚の花嫁のように小さくなっていた。 女尊男卑、医者の家で奥さんが座っていて、夫が給仕等しきりに働く。 社会が変われば、人の考え方も変わる。 人間の摂理ではない、あくまでもその国のことだ。 20代の体験はフレッシュだ。 ホテルの豪華な絨毯を土足で歩くのに驚く。 工場の設備など、本で読んでいることは「驚くに当たらない」けれど、というバランス感覚。 福沢は、本で読んでも分からないことを、リストアップしていた。 経験値をあげることに、価値を置く。 それが福沢のスケールを大きくした。 少しずつ、成功体験を積んでいく。 物事を決断する時、成功か失敗かで考えない。 前を向く力が強い、自転車が倒れないのと同じ。
文久2(1862)年、遣欧使節団に幕府の通訳としてヨーロッパへ行く。 日本の独立を保つため、日本のためという大局観に立って…。 英国議会で与野党が言い争っても、議事が円満に進行されていること、血を流さずに政権交代することを見る。
帰国する4か月前に生麦事件があり、2年後には禁門の変が起こる。 攘夷論の最盛期で、洋学者には命の危険が迫る。 福沢は、外出を控え、もっぱら著書、翻訳に努める。 幕末の幕府軍、新政府軍の争いでは、双方に朋友がいて、極端なことをしないで、それなりに両方と付き合う、どちらかに肩入れすることはなかった。 正義感で熱くなり過ぎると、極端に走ってしまう。 大局観を持って、冷静に進めていかないと、物事は進まないとわかっている。 一つ芯が通っている物差しがあると、大抵の事は判断できる。 35歳、福沢には世の中の事情をよく知った上で、浮世に流されないバランス感覚があり、動乱の時代を生き延びた。
新政府は福沢に、再三出仕するように要請するが、福沢は断る。 政治と啓蒙では、世界が違う。 新しい思想・知識を、世の中に広めることに、軸足を置いた。
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