都倉武之著『メディアとしての福沢諭吉』の新機軸2026/01/31 07:18

山田博雄さんの「福沢諭吉―「両(ふたつ)ながら」の思想家」で、(安西敏三本や中村敏子論文)(都倉武之本)とある(都倉武之本)は、私も「福沢諭吉は面白い<等々力短信 第1194号 2025(令和7).8.25.>8/19発信」で取り上げた都倉武之福沢研究センター教授の『メディアとしての福沢諭吉―表象・政治・朝鮮問題』(慶應義塾大学出版会)である。

山田博雄さんは、「新機軸(ラディカルな)―「見られる自分」=福沢の発見」という見出しで、こう書き出している。 「これは福沢研究史上に画期をなす作品、または少なくともその大きな可能性を孕んだ作品である。なぜなら第一に、福沢研究の前提となる資料そのものを問い直してその範囲を拡大し、そうすることによって第二に、福沢思想を総体として理解しようとする根本的radicalで意欲的な試みだからである。しかも第三に、取り上げられる論点は、福沢研究史上の、ことさらに「当たり障りの強い」ものばかりだからである。王道をいく福沢論というべきもので、今まで見たこともない福沢が本書に躍動しているのが見られるはずだ。」

 「議論の眼目はこうである。従来の福沢研究は(思想史研究一般にもいえるだろうが)おおよそ、①福沢の思想を、ほとんどその「言論」のみによって研究することが主流であったこと。すなわち「行動」の視点の欠如。しかし福沢の場合には「行動」の側面もきわめて重要なのである。②各研究者の専門分野により細分化された福沢研究であり、断片的福沢像の提示にとどまって、全体として福沢思想を一貫するのは何かを問う視点に欠けていたこと。」

 「著者は福沢が「言論」と「行動」の活動全体を「メディアとして」(媒介者、または自分自身を「手段」として利用していたと)捉える。きわめて戦略的な思想家ともいえる。他者に向けた、あらゆる手段を使っての意思伝達表現、それらを読み解くことによって、初めて総体としての福沢理解、一貫性ある思想家としての福沢像の構築が可能になるだろう。」

 「その「言論」も「行動」も、つまるところは「交通」communicationの最大化、「文明主義」を広める目的を実現するためである、――というのが著者の主張である。「停滞不流」の「儒教主義」から「敢為活発」の「文明主義」へ。

 『福沢における文明論は、単なる理念や学術的論究に完結せず、あらゆる手段の提言、そしてさらに自らの具体的行動にもむすびつけられていくことに特徴があるのである』。」

 私は、「福沢諭吉は面白い<等々力短信 第1194号 2025(令和7).8.25.>8/19発信」で、この本で都倉さんが取り上げた、「交通」communicationという言葉と同様に思われる活動を、「福沢の手紙、演説、討論、新聞、出版、会合などの活発なコミュニケーションの重視を、福沢がsocietyを初めに訳した「人間(じんかん)交際」という言葉で、要約してきた」と書いたのだった。

山田博雄さんの「福沢諭吉―「両(ふたつ)ながら」の思想家」2026/01/30 07:08

 『福澤諭吉年鑑 52』2025年(福澤諭吉協会)、山田博雄さん(中央大学法学部兼任講師)の「研究文献案内―2024年から2025年へ―」に教えられることが多く、感心した。 冒頭の「福沢諭吉―「両(ふたつ)ながら」の思想家」では、「今年は従来の福沢研究を塗り替えるような作品が登場した。一つは、福沢の西洋思想解読を分析して、その思想の生成過程を探究する研究である。福沢諭吉はいかにして福沢諭吉となったか。同類の研究は以前から存在するが、最新の研究はかつてないほど福沢に内在した理解を示す。(安西敏三本や中村敏子論文)。二つは、福沢の「言語」と「行動」の活動総体をみることによって、福沢に一貫する思想はあるのか・ないのか、あるとすれば何か――これは古から今に至るまで福沢研究の最も根本的な問題のひとつである――を明らかにしようとする研究である。(都倉武之本)。」

 「上記の研究などを通して改めて想起されるのは、第一に、福沢の思考が――別に目新しい考えではないが――きわめて複数主義pluralism的だということである。(必ずしも二つに限らないが、福沢のいわゆる「両ながら」)。善か無かでなく、優先順位の思考であり(「今」の強調)、〝比較級〟の発想である(「悪さ加減」の選択)。その意味で福沢はたしかに「自由」の思想家といえる。「一身にして二生を経る」という19世紀日本の歴史状況が福沢を複数主義的思考に導いたのだろうか。」

「第二は、自らの経験を思想化し得る、福沢の言語能力(とその運用力)である。そして、西洋思想を理解し、それを「今」の日本社会を変革するために、自在な日本語で駆使できたのは、単に頭脳明晰なだけでなく、経験からくる強い感情的反応(「門閥制度は親の敵」)に突き動かされていたからに違いない。知と情の稀有な結合(「両ながら」)。それが福沢の言語能力をさらに鍛え、思考力を持続させた。」

 「第三は、福沢研究の専門家と非専門家との間で、福沢にかんする情報・知識が必ずしも共有されていないのではないかという、素朴な疑問である。もし、この150年の日本社会を考えようとするならば、その「思想的原点」ともいえる福沢について、まずは最小限の共通理解(事実問題についての、解釈問題についての、ではない)が持たれてしかるべきではないだろうか(その点『福沢諭吉事典』は大変便利)。専門家と非専門家との相互交通communicationの重要性と必要性は、非専門家にとってだけでなく、専門家にとっても有益なはずである。」

伊藤塾長年頭挨拶、石破茂さんの戦後80年所感2026/01/16 07:18

 伊藤公平塾長は次に、『三田評論』1月号で、石破茂前首相、佳子夫妻と、「慶應義塾での学びと戦後80年―無知を知ること」という新春対談をしたことを述べた。 石破さんと佳子夫人は、1979(昭和54)年法学部法律学科卒の同級生である。 石破さんは辞める直前に「戦後80年所感」を出した。(石破茂前首相の駆け込み「戦後80年所感」<小人閑居日記 2026.1.6.>)

 『三田評論』の対談での、石破さんの発言を、以下に紹介する。 先の戦争の開戦にあたって、なぜ政治家が歯止めたり得なかったのか、政治家がそれを考察しなければ駄目だという意識があった。 「なぜ政治家が歯止めたり得なかったのか」をきちんと総括した上で、「では今の日本において歯止めたり得ているか?」ということを問いたかった。 当時は、政府、議会、メディアの三つにおいて、それぞれがなぜ機能しなかったのか。 では、今なら本当に機能するかと。 根源は「文民統制とは何か」という、ギリシャ、ローマからずっと問いかけられてきた問いに対する答えを、少しでも書きたかった。

 ここ20年ほど考えているのは、今の日本国は、インデペンデントでも、サスティナブルでもない、独立していないし、持続可能性も低い。 食糧もエネルギーも人口構成もそうで、自衛力だって、はっきりいえばそうだ。 もちろん日米同盟は大切で、日中の信頼関係も大切だ。 しかし、その前提として、インデペンデントな日本とは何かということを突き詰めて考えたことがない、ということは恐ろしいことだと思う。 福沢先生のおっしゃる「独立自尊」というのは何なんだというのは、常に塾員、塾に学ぶ者が問いかけなければならないことだ。

 生涯学び続けられるのも、慶應のすごいところだなと思う。 勉強すればするほど「なんて自分はものを知らないんだ」ということがあって、でもそれに打ちのめされて、くじけてはいかんのだと思う。 世の中に知らなければいけないことが千あるとしたら、多分自分が知っていることは百もないなと思うからこそ、日々学びなのだと。 先の戦争で、フィリピンのマニラ市街戦、シンガポールにしたことなど、知らないことが山ほどある。 無知の恐ろしさだ。 「何があったのか」ということをきちんと記憶しておく責任は、やはり引き継いでいるのだと思う。

 伊藤公平塾長は最後に、今年の抱負として、3年で人間中心のAIキャンパスを実現すると述べた。 学生のSNSとのつながり、人間同士の付き合い、人と人とのつながり、好奇心は大切だ。 精神的自立は、最も大切だ。 好奇心を育てるのに、中等高等教育で、さまざまな分野の本物にふれ、幅広い教養を身につける。 リベラルアーツに触れて、自分の進む道がわかる。 小中高大の一貫校では、AIも好奇心の対象として示す、沢山の寄り道の場、最高のリソースを用意する。 そして、さまざまな社会貢献に尽くしてもらいたい。

空飛ぶ侯爵・蜂須賀正氏と、絶滅鳥ドードー2025/12/30 07:29

 24日に書いた「阿波徳島に残る、写楽・十代藩主蜂須賀重喜説」の志摩泰子さんに教えて頂いた蜂須賀家の殿様で、侯爵になった明治以後の十八代蜂須賀正氏(まさうじ)という人物が面白い。 明治36(1903)年生まれ、昭和28(1953)年没(50歳)。 母筆子は徳川慶喜の娘だから、徳川家斉の玄孫にあたる。 鳥類学者、華族(侯爵)、貴族院議員、探検家、飛行家。 絶滅鳥ドードー研究の権威として知られる。 沖縄本島と宮古島の間に引かれた生物地理学上の線である「蜂須賀線」に、その名をとどめている。

 大正7年ケンブリッジ大学モードリン・カレッジに留学し、鳥類を研究(山階鳥類研究所に貴重な研究を遺している)、アイスランド、モロッコ、アルジェリア、エジプト、コンゴ、南米、東南アジアを、探検隊を組織して踏破した。 昭和5年ベルギー探検隊とアフリカへ行き、日本人で初めて野生ゴリラと対面した。 昭和9年初のオーナーパイロットとして自家用飛行機を操縦してポーランドへ。 昭和10年~昭和14年アメリカに住み、14年には日系アメリカ人長峰智恵子と結婚、16年長女正子が生まれる。 14年にはスイス政府からエトアール・ボレール勲章が贈られた。 18年品行不良(女性関係や財産問題など)で宮内省より華族礼遇停止処分。 20年敗戦直後爵位返上。 28年日本生物地理学会会長に就任、畢生の論文ドードーとその一族、またはマスカリン群島の絶滅鳥について」を北海道大学に提出、理学博士の学位を取得するも、5月4日狭心症により熱海で没。

 熱海には江戸時代から蜂須賀家別邸があり、大正12(1923)年の関東大震災でその敷地に湧いた温泉の量が多すぎたため、行政に管理を依頼したものが、熱海市営温泉の第一号となる「蜂須賀湯」。 これをきっかけに熱海では源泉の町管理が進み、住人であれば誰でも町有温泉から内湯をひくことができるようになった。 正氏は昭和初期から熱海のヴォーリズ設計の蜂須賀家別邸(現在は取壊し済)に住んでいた。

 ドードーは、マダガスカル沖のモーリシャス島に生息していた絶滅鳥類。 大航海時代、1598年に航海探検したオランダ人提督の航海日誌によって初めてその存在が報告され、探検隊の食用として塩漬けにした肉が重宝され、入植者による成鳥の捕食が常態化した。 空を飛べず地上をよたよた歩き、警戒心が薄く、巣を地上に作るため、捕食が容易で、1681年で目撃例が途絶え、最初の報告から83年で絶滅してしまった。 村上紀史郎著『絶滅鳥ドードーを追い求めた男 空飛ぶ侯爵、蜂須賀正氏1903-53』(藤原書店・2016年)という本がある。

小田野直武『解体新書』の挿図を描く2025/11/29 07:11

 平賀源内が秋田を離れてからほぼ1か月後の、安永2(1773)年12月朔日、角館生れで角館育ちの小田野直武は秋田本藩の「銅山方産物吟味役」に任じられ、あわせて江戸勤務を命ぜられて、角館を出立した。 そのものものしい名の役職は要するに表向きのことで、「銅山」「産物吟味」の語が示すように、源内とかかわり、そのもとで「産物」の名目で蘭画を修業し、源内と藩主曙山との間の画事上の連絡役となれ、との藩主の特命だったのであろう。 直武は、源内に魅せられ、源内に見こまれただけで、この満24歳の年から、まったく思いもかけない運命の展開を迎えることとなった。 彼は十分にこの急変と圧力に耐えて、そのなかから残されたわずか7年の短い生涯の間に自分の天分を美しく開花させた。 彼を愛した主君曙山は直武よりも1歳年長にすぎなかったが、これも異様に華麗な蘭画の数々を花咲かせて、37年のやはり短い生涯を終えた。 秋田蘭画は近代日本の文化史上、小さいながらまことに心をそそる一課題なのである。 僻遠秋田にその種を播いたのが平賀源内であった。

 讃岐の浪人男の江戸の住まいに秋田の藩主お気に入りの青年がころがりこんで来て、一緒に洋風の明暗や遠近の画法を研究していたということ自体が、考えてみればすでになかなか面白い。 田沼意次の時代の社会的また精神的可動性(モビリティ)をそのまま図示するような情景であったといえよう。 と、芳賀徹さんは書いている。

 源内は、秋田から戻ると、しばらく深川に住んだあと、神田大和町代地(豊島町と隣合わせ)に家を借り、そこで二七の日には「産物会」を催し、直武のほかに4人ほど職人もおいて「本草細工人」と呼ばれる、一種の源内工房を営んで暮らしていたらしい。 直武は初めから源内方に同居の体で住み込んでいたようで、ときおりは大和町から大した距離のない下谷竹町の佐竹藩邸に挨拶や報告、給金を貰いに参上したろうが、もっぱら画業に精を出し、江戸の自由な空気を享受したと見える。

 源内が長崎にいた明和8(1771)年3月に開始された杉田玄白をはじめとする、源内の親友たちのグループの画期的大著述が、当時仕上げの段階を迎えていた。 杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の『解体新書』――ドイツの医学者ヨハン・アダム・クルムス著の蘭訳本『解剖学表』(ターヘル・アナトミア)の翻訳作業である。 この書の生命というべき重要さをもつ、解剖図の木版下絵作成の仕事が、江戸にポッと出てほんの数カ月の、満25歳の無名画学生小田野直武にまかされ、彼によってみごとに遂行されたのである。 杉田玄白と源内の信頼関係と、源内の直武の画才に対する高い評価が、そこにはあったのだろう。

 クルムスの解剖図をはじめ、玄白が『解体新書』の「凡例」にあげているだけでも、トンミュス、ブランカール、カスパル、コイテル、アンブルと「解体書」と称する蘭書から、どの図をどのくらいの大きさに写してくれ、と注文されたのだろう。 その精緻な銅板挿図の刻線を一本一本、極細の面相筆で写しとっていった。 『解体新書』は、安永3(1774)年8月室町三丁目須原屋市兵衛から出版された。 安武が江戸に着いたのは前年12月半ばだから、直武に何十日の余裕が与えられたのか、当の安武にとってはまことにやり甲斐がありすぎるほどのきつい忙しい仕事であったろう。