池田弥三郎の生涯、日本の未来<等々力短信 第1195号 2025(令和7).9.25.>2025/09/25 07:03

 池田光璢さんから、その「池田彌三郎の生涯に日本の未来を見る」所収の『高岡市万葉歴史館紀要』第35号(3月29日発行)を頂いた。 近年は光璢と名乗る池田光さんは、池田弥三郎さんのご長男で日本文化研究家、昭和35年に大阪で開かれた第125回福沢諭吉先生誕生記念会に私が志木高から派遣された時に、幼稚舎から桑原三郎先生の引率で参加していて、知り合った。 高岡市万葉歴史館館長は藤原茂樹さん、10年ほど前は三田の教授で折口信夫・池田弥三郎先生記念講演会を主催されていた。 「小人閑居日記」2015年11月8日~10日には、その会での光さんの講演「銀座育ち」などを、「池田弥三郎さんの育った家、芸能と宗教」、「岡野弘彦さんの「折口信夫・池田弥三郎」思い出話」、「『折口信夫芸能史講義 戦後篇』(上)」に書いていた。

 光璢さんの今回の論考、父池田弥三郎(大正3(1914)年~昭和57(1982)年。以下、敬称略)の人生全体の流れを見て、それがどのような方向を目ざしていたかを考察し、その方向に日本の未来を見出すことが出来るということを示そうとする。 昭和26年慶應義塾大学助教授、35年常任理事、36年教授(「助十」と言っていた)、38年文学博士と、おかしな順序だ。 ラジオのニュース解説やテレビの推理クイズ番組「私だけが知っている」で、「タレント教授」といわれていたことが、否定的な評価をされたのだ。 本人は、自分のしていることが、講義や論文執筆、放送だろうが、「日本人の幸福のために役立ち、日本をすこしでもよくするために、力をそえるものでないなら、自分の一生をそれにかける気などはしないのである」と。(初出版の著書『芸能』(岩崎美術社))

 光璢さんは、角田忠信著『日本人の脳』の「日本語人」という言葉を使う。 日本語人は、虫の声、鳥の鳴き声、雨だれの音、川のせせらぎが、左脳に入る。 論理と感情が一体で、「人間と自然が一体」であり、さらに「人間と社会が一体」に通じる。 池田弥三郎の世界は、間違いなく「日本語人的」な世界である。 まず、ことばの本、つぎにふるさと随筆、東京、銀座、日本橋、『三田育ち』、『魚津だより』、その世界は自分の「体験」なしにはあり得ない。 その意味では、弥三郎の書いたものは、すべて「私小説」であり「自伝」であったと言っても過言ではないだろう。 「体験」には、弥三郎の芸能的素質と、池田家の宗教的素質が関係する(上記「池田弥三郎さんの育った家、芸能と宗教」参照)。 折口信夫の方法は、人間と自然が一体ではなく、明らかに、観察者と対象とが離れた世界である。 池田弥三郎の体現した、人間と自然が一体の世界は、日本独自の世界で、今、行き詰っている「非日本語人」的世界の今後に、必要なのだ。

 「これから民俗学をやる」67歳の死、古今亭志ん朝、中村勘三郎を思う。

等々力短信 第1194号は…2025/08/25 07:16

<等々力短信 第1194号 2025(令和7).8.25.>福沢諭吉は面白い は、8月19日にアップしました。 8月19日をご覧ください。

戦争を語り継ぐ、白井厚編の『大学とアジア太平洋戦争』2025/08/20 07:03

 白井厚先生が、3月9日に94歳で亡くなったことを、『三田評論』8・9月号の追想(坂本達哉名誉教授)で知った。 私は、1997(平成9)年の終戦記念日の「等々力短信」に、白井厚先生とその編著『大学とアジア太平洋戦争 戦争史研究と体験の歴史化』(日本経済評論社・1996年)のことを書いていた。 享年94歳と知り、10歳上でしかなく、学生時代にフランス語の原書講読の授業を受けた時は、31歳か32歳であられたことに、あらためて驚いた。

     戦争を語り継ぐ<等々力短信 第781号 1997.8.15.>

 塾員文庫主宰の栗原嘉明さん(等々力短信733号「奇特な人」)から、白井厚編の『大学とアジア太平洋戦争』(日本経済評論社)をいただいた。 慶應義塾大学経済学部の白井厚教授のゼミナールは、学徒出陣を始めとする「太平洋戦争と大学」をテーマに研究したことで、マスコミにも取り上げられ、有楽町のマリオンで展示を行なったりしたから、憶えておられる方が多いかもしれない。

 私は学生時代、白井さんのフランス語の原書講読の授業を受けた。 今やフランス語など、数や曜日でさえ怪しい状態だが、当時は確かソレルの『暴力論』というのを読んだのだから、恐ろしい。 もっとも級友のひとりが、マルクス・エンゲルスを「マルクスと天使達」と訳して、教室は爆笑、白井さんを唖然とさせたことがあった。 あとの実力は推して知るべし。

 『大学とアジア太平洋戦争』は白井さんの退職記念論文集として編まれたもので、ご自身の「戦争体験から何を学ぶか」という最終講義も含まれている。 白井さんは90年にオックスフォード大学に出張して、イギリス人や欧米人が歴史を克明に記録し、それを後世に伝える努力をしているのに、日本人は、あまりにも忘れっぽいということを痛感した。 それから太平洋戦争を大学の場で考える試みが始まった。

 白井ゼミでは、戦争中に慶應の大学・予科・高等部の学生だった人で住所のわかる7千名にアンケートを出し、1,698名の回答を得た。 大先輩たちから、孫は全然戦争の話を聞いてくれないのに、あなたのゼミの学生は聞いてくれるから有難い、と白井さんはよく言われたそうだ。 三年をかけて大学関係の戦没者を調査し、約1,528名を確認して名簿を作成した。(等々力短信680号「五十回忌」に書いたように、『慶應義塾百年史』は、昭和16年以降の繰り上げ卒業塾員と学徒出陣塾生の戦没者数を八百余名としていたから、この調査まで、人数も名前も約半分しか分かっていなかったことになる)

 学生結婚した夫を学徒出陣で送り出し、戦死公報を幼い息子と受け取った小山市の田波文江さんの、三田と銀座の隣には戦場があったという体験談など、胸のつぶれるものがある。 彼らの死も、生き残った人々の体験も、非常に貴重で、それを歴史として書き残し(歴史化)、同時に外国人にもわかってもらえるように努力しなければならない(国際化)、それによって21世紀の世代に理解されなければ、歴史と世界情勢を学ばなかった日本人の悲劇は再び繰り返されるだろう、と白井さんは訴える。

福沢諭吉は面白い<等々力短信 第1194号 2025(令和7).8.25.>8/19発信2025/08/19 07:09

     福沢諭吉は面白い<等々力短信 第1194号 2025(令和7).8.25.>

都倉武之福沢研究センター教授の『メディアとしての福沢諭吉―表象・政治・朝鮮問題』(慶應義塾大学出版会)を読み始めている。 福沢が二度目のアメリカから帰った翌慶応4年4月、後に三菱の重役になった荘田平五郎が、入学するために慶應義塾を訪ねたら、町人風の野郎頭、書生風の縞の羽織の福沢が、何処で買ったのか、葱を一束持って帰って来たので、非常に無造作な先生だと仰天したと、回想している。 都倉さんは、「福澤は極めて意識的にネギを買っている。身分相応とか、男たるものとか、学校の先生たるもの、などという常識を軽蔑して一顧だにしない自分の姿を見せている。それが周囲を感化して、やがて自由や平等を日常に変えることを福澤は知っていた。」「「メディアとして」とは、「見られる自分」を最大限活用して「文明主義」を目指した全く新しい福澤の読み解き方を意味しているのである。」と。(『三田評論』7月号「執筆ノート」)

 私は、福沢の手紙、演説、討論、新聞、出版、会合などの活発なコミュニケーションの重視を、福沢がsocietyを初めに訳した「人間(じんかん)交際」という言葉で、要約してきた。 都倉さんは、この本で「交通」communicationという言葉を取り上げ、福沢は幅広い「交通」を、常に最大化しようとする志向性を持って行動していた、とする。 「交通」の最大化、「文明主義」を目的として見据えた福沢が、それを実現するための「媒介者」もしくは自らが自らを「手段」として利用していた――すなわちメディアだった――と、捉えている。

 福沢の本籍地は「教育者」であり、その多彩な活動には、人間の成長への強い関心が貫かれている。 人を成していくのは「学問」であり、それが変わることで社会が、ひいては国も世界も変わっていくと見る。 「文明」の社会は、実証的「学問」の日新月歩の変動の影響から「敢為活発」な人間を生み出す。

 日本や東洋諸国の特質を、学問のあり方に着目して「儒教主義」と呼び、先進世界の潮流を「文明主義」と呼ぶ。 そして「交通」こそが、「儒教主義」と「文明主義」を分ける。 「交通即ち文明開化civilizationなり」、「交通」の意味を「人の智見を交換し有形無形のものを相互に通ずること」とし、学校教育、家庭教育、会議、討論、集会なども皆「交通」だ。 産業革命以降、人は「交通」の発達で芋虫と蝶の違いくらい変わってしまった。 かの「脱亜論」の二日後の社説で、清国と西洋文明国との大差を、福沢一流の強烈な比喩で、「人足に大八車を引かせて蒸汽車と競走するに異ならず」と。 「脱亜論」で「交通」を鍵とする文明認識によって、「儒教主義」を脱したその主義は、いうなれば「脱亜」の二字であると説くのに通じている。 都倉さんは、これは従来十分認識されていないことだとして、第八章「脱亜論再考」で詳述する。

矢野誠一著『新版 落語手帖』の「代書屋」2025/08/09 07:10

 矢野誠一さんの『新版 落語手帖』(講談社・2009年)、「落語事典の決定版!」を愛用している。 全274席を、梗概・成立・鑑賞・藝談・能書で、解説している。

 7月11日の第685回TBS落語研究会で聴いて、戻ってきた権太楼の「代書屋」<等々力短信 第1193号 2025(令和7).7.25.>に書いた「代書屋」を、見てみよう。

   『代書屋』だいしょや

 【藝談】わたしの師匠4桂米團治が、まだ米之助を名乗っていた1938年頃の新作です。いろんな人が演りますが、うちとこでは『代書』いう題にしています。 桂米朝。

 【成立】4桂米團治(中濱賢三)作。その後桂米朝、桂春團治、桂枝雀などが演じ、東京には立川談志が移植。

 【梗概】代書屋に、就職用の履歴書をたのみに来た男、目に一丁字もないうえに、二人いた兄貴が死んだから長男になったとか、誕生日と旅順陥落の日を混同したり、とんちんかんなやりとりで代書屋を悩ませ、訂正だらけの妙な履歴書ができあがる。署名だけは自分でするようにいったのだが、それも書けないというので、「自署不能ニツキ代書」と判をおしてやる。

去年から中気のかげんで手がふるえて字が書けないという老書家が、結納の受け取りをたのみに来るが、墨が悪いの看板の字が気にいらないのと、けちだけつけて帰ってしまう。ぼやいている所に、先程の老書家の所から、なにがしかのお邪魔料を丁稚がとどけにきて、受け取りを書けという。代書屋が署名すると、やれ肩があがりすぎだとか心棒がゆがんでいると、丁稚がけちをつけるので丁稚に書かせると、これが達筆。「ほな、この下に判だけお願いします」と丁稚にいわれ、「おおきに」と判をおそうとすると、名前の横に小さな字で、「自署不能ニツキ代書」。