季題と季語2006/06/18 07:19

 本井英先生のお話をうかがっていて、どきりとした。 「季語」「季語」と言 っていたが、本来は「季題」なのだそうだ。 最初だからということで、高浜 虚子が昭和18年2月号の『ホトトギス』に書いた「俳句会」という文章をプ リントして、句会の心得を話して下さった。 句会では本来、全員同じ句数を、 投句し、選句する。 採らなかった句の句評はしない。 そういう句は忘れろ、 ということだ。 という話になって、水原秋桜子は違う、全句講評をやった。  それは「虚子ならざるようにしよう」という気持からで、無鑑査同人を作った のも、「季題」を「季語」と言い出したのも、同じだという。 高浜虚子は「季 題」としか言わなかった、というのである。

 私は「季題」と「季語」を、区別することなく使ってきた。 『広辞苑』の 「季題」には、(1)季語に同じ。(2)俳句を作る詠題としての季語、とある。 漠 然としたものだが、(2)のニュアンスを感じていたかもしれない。 小林恭二さ んの『俳句とは何か』(福武文庫)に抄録されている高浜虚子の『虚子俳話』を みたら、俳句は「季題を最も活用する詩」であるとあった。 詠おうとするも のは、人間でも社会でも、いかなるものでも差し支えないが、ただ「季題」が 必要である。 その「季題」の有しているあらゆる性質、あらゆる連想、それ らのものを研究し、作者が満腔の熱情を傾けて詠おうとするものの中に溶け込 まして、その思想とその「季題」とが一つになって、十七字の正しい格調を備 えて詩となる。 それが俳句であると、高浜虚子は言う。 そして、「無季の句、 若しくは季の働きの無い句は俳句ではないのである」と、断じている。

 「伝統俳句」という題の文章の冒頭には、上の水原秋桜子の話を連想させる 次のような記述があった。 「大野林火君が「次代の俳句は虚子を乗越えた処 に樹立せられねばならぬ」と言った。最近、中村草田男君は「新時代の俳句」 という言葉を使って次代の俳句というものを自己の主張の方向に置いている。 私はそれ等の「りきみ」「あせり」の態度を見て少し危ぶむ心持もある。」