圓太郎の「悋気の火の玉」2006/07/23 06:32

 橘家圓太郎の「悋気の火の玉」。 花川戸の立花屋という履物屋が、妾を根岸 に狆と住まわせる。 月に十日ぐらい、家に帰らない内は、「悋気をしてはいけ ない」という圓太郎のいわゆる「昔の教育は正しかった」教えに従っていた本 妻も、月に二十日ともなると、このドロボウ猫めということになり、杉の大木 に藁人形を五寸釘で打ちつける。 それを聞いた妾が六寸釘を打ちつける。 七 寸釘、八寸釘、九寸釘とエスカレートし、儲かった釘屋が妾を囲った。 お妾 と本妻は、きりきりとなって、絶命。 人を恨まば穴二つ、タブル・プレー、 ゲッツー。 お妾の葬式の次の日が、本妻の本葬。

 初七日、大音寺前(台東区竜泉1丁目)で、火の玉同士がぶつかりあった。 そ れが江戸中の評判になり、立花屋は谷中木蓮寺のご住持に経を読んでもらい、 二つの魂を浮かばせようと、九つ(午前零時) 大音寺前に出かけるのだが…。

 火の玉のぶつかり合いだけでは、短い話なのだ。 圓太郎は、立花屋が一人 息子でひとり籠もって詰め将棋をしていた今でいうオタクの頃から、嫁をもら ってごく仲良く暮していたあたり、さらにお妾さんを囲うまでを丁寧にやった。  曰く、寄り合いがあっても、「家内が待っておりますから」と、まっつぐ帰るの だった。 それが、無理矢理連れて行かれた吉原で「帰りたくないでちゅ」と なって、寄り合いが楽しみになり、自分から回状を出すようになった。 議題 は「履物業界は今後どうあるべきか」「原監督でいいのであろうか」。 いつも は明るく楽しい芸風なのだが、悋気や火の玉では、その調子では語れず、印象 が薄かった。 「昔の教育は正しかった」という主張も、賛成するにはリスク が大きすぎて、説得力を持たないものだった。