なぜ「安政」義塾でないのか ― 2006/10/25 07:47
河北展生さんの「幕末10年間の学塾経営の苦心談」。 嘉永6(1853)年の ペリー来航の際、幕府は各藩の意見を訊いたが、中津藩は藩主の祖父(奥平昌 高(まさたか)?)が開国論を提出した後、翌月藩主(昌服(まさもと)?)が 攘夷論を提出するなど、藩内の意見が割れる、異常な状態にあった。 翌年、 福沢は蘭学を志し、家老の子奥平壱岐を頼って長崎に出る。
再来年創立150年を迎える慶應義塾は、安政5(1858)年の創立なのに、な ぜ「慶應」義塾なのか。 時の年号により慶應義塾を名乗る慶應4(1868)年 まで、無名時代があるのは、なぜだろうと河北さんは問う。 中津藩には蘭学 の伝統があった。 中津に来ての三代目藩主、昌鹿(まさか)(1744延享元~ 1780安永9)は、前野良沢に思うままの蘭学研究の志をとげさせた殿様として 『蘭学事始』にその名があり、築地鉄砲洲の中屋敷は蘭学発祥の地だ。 五代 目昌高(まさたか)(1781天明元~1855安政2)は、薩摩の島津重豪の次男、 四代昌男の死去で、急遽養子として奥平家に入った。(家臣に日蘭対訳の辞書を 編纂刊行させ、みずからも蘭名を名乗って喜んでいたという。)
奥平壱岐が江戸詰家老(家督相続から28年かかって)となっていた安政5 年、中津藩江戸藩邸の上士岡見彦三(曹)が福沢を江戸に招いて蘭学の塾を始 めさせる。 岡見はその前に、杉亨二(こうじ)や、松木弘安を雇って、藩士 に蘭学を教えてもらっていた。 薩摩の松木などは、小田原町の自宅に住まわ せ、そこで教えてもらった。 中津での勤めをせず、適塾で勉強していた福沢 が、江戸藩邸に呼ばれたのは、福沢にとって喜ばしいことだったが、それを『自 伝』には書いていない。 安政の大獄が起ころうかという時期だ。 中津の国 元でも、攘夷論が強く、それは怖い。 岡見は「目立たないように教えてくれ」 と言い、世間におおっぴらにはしない教え方を求めたのだ。
福沢諭吉「心訓小説」<等々力短信 第968号 2006.10.25.> ― 2006/10/25 07:48
「一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事で す。」で始まる、福沢諭吉の「心訓」七則については、これまでもたびたび、そ れが偽作だということを書いてきた。 『福澤諭吉全集』別巻228頁や、第二 十巻の附録「鶏肋」(その六)で富田正文先生が偽作と断じているし、手近なと ころでは慶應義塾のホームページの「慶應義塾豆百科」98「福澤心訓」を見れ ば、その旨の断り書きがある。 しかし、「福沢心訓」を有難がって吹聴したり、 座右の銘とする人は跡を絶たないらしい。
名古屋についての面白おかしい著作で知られる(といっても、読んだことは なかったのだが)清水義範さんが『心訓小説 福沢諭吉は謎だらけ。』(小学館) を出したので、さっそく読む。 特別付録に「心訓 福沢諭吉」の「大判美装ポ スター」まで付いている。 清水さんは「心訓」が偽作であるということから、 一篇の小説を紡ぎ出した。 昭和は高度成長が始まろうする頃、耕耘機セール スマンの坂本和男は売り込みに行った九州の小さな町の鮨屋で、壁にかかって いた「心訓」の額を見つける。 その文句は坂本の心にしみ込んできて、それ までくよくよしていたのが、仕事の意欲が湧き、会社での業績は上がり、すべ てがうまく転がるようになる。 坂本は福沢諭吉について勉強する。 一人息 子の文孝は「心訓」を暗唱し、父が信奉する福沢先生の話を聞いて育つ。 時 は流れ、文孝の子・大樹が慶應の商学部に入る頃になって、坂本和男がボケ始 める。 実は文孝夫人が、作者の分身である文学探偵の姪だった。 探偵はボ ケの相談に乗り、「心訓」が偽作らしいという大樹が学校で聞いてきた話に興味 を持って、探索を始める。
清水義範さんは、福沢諭吉を研究し始め、福沢が教訓の名人で、世の中の人々 は教訓が大好きだということを知る。 清水さんの福沢研究は、『全集』と『著 作集』の区別もつかないところから始めながら、バランスの取れた、よい線に まで達している。 「脱亜論」に関連し、福沢評価に相反する二つの見方があ るという福沢の「有名な謎」にも言及する。 平山洋さんの『福沢諭吉の真実』 を、福沢の書いたものの中に他人の書いた偽物がまぎれ込んでいると主張する 点で、「心訓」をめぐる疑惑にそっくりだと、丁寧に読む。 福沢の「脱亜論」 も自分で要約をしてみて、そこに他民族蔑視のような表現はない、列強による 植民地化の危機の中、(独立のために)日本は文明国をめざすべきだと言ってい るだけだと、「時代性」、時代的な背景と制約を認めている。
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