宮川幸雄さんの大連帰還2008/02/04 06:34

 昭和19年1月15日大連生れの宮川幸雄さんが、平成19年8月16日に、昭 和22年の引揚げ以来60年ぶりに、その誕生地に立った。 短く「感慨多し」 と書いているが、さぞやと思われる。 宮川さんから、ご自身の「大連に帰還 せり―私の満洲旅愁紀行―」が載った『うらら』(同人誌のようなもの)第54 号を頂いた。 8月16日から21日まで「慶大俳句研究会・満洲合宿」という 旅行があり、「夏潮会」の本井英主宰が研究会の指導をなさっている関係で、宮 川さんたちも参加したのだった。

 16日、成田から大連に飛び、旅順周辺の日露戦蹟。 17日、大連市内、瀋 陽へ。 18日、瀋陽(奉天)見学、ハルビンへ。 19日、ハルビン市内観光。  20日、ハルビンから長春へ、市内見学し、瀋陽に戻る。 21日、撫順へ、瀋 陽空港から帰国。 この旅程で、高浜虚子の昭和4年の満洲旅行の跡を追っか けようというのが、主たる目的である。 かつての満鉄、南満洲鉄道の鉄路を たどる、その旅は、私が10月にテレビで見た「関口知宏の中国鉄道大紀行」 に重なるものだった。

 昭和16年に結婚した宮川さんのご両親は、統制経済で本土での起業がかな わず、満洲・大連に渡って婦人服製造販売の事業を起こし、満鉄消費組合の取 引業者として成功、郊外の別荘地・夏家河子に住宅を持ち、母上のいわゆる「貴 族的な生活」をしていた。 昭和20年5月に34歳で「根こそぎ動員」の現地 召集を受けた父上は、終戦後、北へ向う列車を怪しみ、関東軍から脱走して炭 鉱に入って、シベリア抑留を免れた。 夏家河子の家は掠奪に遭い、母上は宮 川さんの生誕地対馬町の会社に逃げ込み、赤ん坊の宮川さんをかかえて白系ロ シア人の家でメイドのようなことをして500日の「難民の生活」を送り、昭和 22年1月、志ん生と円生と同じ船で佐世保港に引揚げることができた。 宮川 さんは、母上の強い力で「残留孤児」とならなかったことを、「人生の幸運」と 思っている、という。 これより先、父上は山口県仙崎港に引揚げていて、母 上・宮川さんとの上野駅での再会となる。 『流れる星は生きている』の新田 次郎・藤原てい夫妻のケース、藤原正彦さんと同じ経過である。

コメント

_ やまもも ― 2008/02/04 21:35

私が学生の時、下宿していたのは、目黒にある、ある医院の家。そのご主人は、もちろんお医者さんであるが、もと、海軍の軍医。で、その奥さんは、大連の女学校を出たと言っていた・・・かすかかな記憶である。
大連が、かつて、日本であった時代、その名残をとどめた古い家屋は、もうなくなってしまった。(実は、そのご主人のお医者さんが亡くなって、家をとりこわさざるをえなくなって、引っ越したのであるが。)

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