天皇家、兄弟二つの血筋2008/09/08 07:11

 小松和彦さんの解説である。 鎌倉時代後期、天皇家は兄弟二つの血筋が対 立し、両統が交互に皇位を継承することを取り決めていた。 持明院統は兄の 後深草→伏見(後伏見・花園の父)、大覚寺統は弟の亀山→後宇多(後二条・後 醍醐の父)というふうに。 順番でいうと、後深草→亀山→後宇多→伏見→後 伏見→後二条→花園→後醍醐となる。 1301年、皇位が持明院統から、大覚寺 統に移り、後醍醐の兄の後二条天皇が即位した。 兄の後二条天皇が若くして 亡くなり、皇位は持明院統の花園天皇に移る。 大覚寺統では、次の天皇を誰 にするか、候補者を指名することになり、後二条天皇の皇子がまだ幼かったの で、つなぎで第二皇子で皇位継承権のない後醍醐にする。 そこから歴史の歯 車が狂い始めた。

 1318年、後醍醐天皇が31歳という当時としては異例の高齢で即位した。 す ると、父の後宇多上皇から権力を譲り受け、積極的に政務に乗り出す。 鎌倉 幕府は、蒙古襲来以来求心力を失い、時の執権北条高時は享楽に耽り、内部に 不協和音が生じていた。 後醍醐は、腐敗しきった幕府を倒し、武士の政権で ない、天皇中心の政権をつくりたいと考えた。 悪党と武装集団を集めて、武 力を蓄えるのだが、企ては二度にわたって発覚し、いずれも失敗。 1332年、 後醍醐天皇は隠岐に流刑になる。