目に飛び込んだ「本の広告」2008/09/06 06:42

 ご承知のように8月、日本文化の起源というようなことを、あれこれ考えて いた。 そうしたら、新聞の本の広告に、関連したものがいくつか出た。 ア ンテナを張っていると、何か引っかかってくる一つの例である。

 岩下尚文さんの『芸者論』では、議論を進める土台に、折口信夫を使ってい た。 しかし、折口信夫の学問を体系的に概説することは、とても難しいらし く、参考にするような本が見つからなかった。 そこへ出たのが、  ○上野誠(奈良大学文学部教授)『魂の古代学 問いつづける折口信夫』(新 潮選書)…マレビト、万葉びと、神と天皇、芸能と祭祀―迷宮的で、限りなく 魅力的な「折口学」。その核心に迫る野心的評論。

 戦争直後の教育を受けて、神話を知らない世代だ、と書いた。 すると、  ○長部日出雄(作家)『「古事記」の真実 戦後日本の最大のタブーを解く』 (文春新書)…『古事記』は日本語、日本の成り立ち、列島人の心が濃縮され たタイムカプセル。記紀神話の世界をより刺激的、実証的に読み解く好ガイド。

 西岡秀雄先生の『寒暖700年周期説』に関連して、  ○丸山茂徳(東京工業大学大学院教授)『「地球温暖化」論に騙されるな!』 (講談社)…地球温暖化の原因はCO2ではない!驚愕の「科学的事実」の数々 を豊富なデータで詳説。

 ついでに、伊藤正雄さん(今はなき現代教養文庫)以来の口語訳、  ○佐藤きむ訳 坂井達朗解説『福沢諭吉「学問のすすめ」』(角川ソフィア文庫・ ビギナーズ 日本の思想)

後醍醐天皇の「怨霊」を鎮める為の寺2008/09/07 09:12

 後醍醐天皇という天皇が気になる。 網野善彦さんは14世紀の南北朝動乱 期を境として、それ以前は社会のあり方が異質であることを指摘したが、その 境目に重要な役割を果した人物であるらしいからだ。

 NHKの“知るを楽しむ”月曜「この人この世界」の8-9月は、民俗学者で 国際日本文化センター教授の小松和彦さんの「神になった日本人」を放送して いる。 その第3回8月18日が「北朝の寺、南朝の社―後醍醐天皇」だった。  「鎌倉幕府を滅ぼし、建武政権を樹立した後醍醐天皇は、その専横的な政治か ら、南北朝の並立・抗争をまねき、結果的に室町幕府の開設という事態を引き 寄せてしまった。その後醍醐天皇の陵墓とでもいうべきものが京都の嵐山にあ る天龍寺である。建立したのは室町幕府を開いた足利尊氏であり、その目的は、 後醍醐天皇の「怨霊」を鎮めるためのものであった。戦う天皇が、足利尊氏に 敗れ、怨霊として恐れられるまでになった背景をさぐる」というのが、その番 組の趣旨だった。

 学生時代に天龍寺に行ったことがあった。 縁先に座って、庭を見た記憶も ある。 でも、こういう意味のある寺だとは知らなかった。

天皇家、兄弟二つの血筋2008/09/08 07:11

 小松和彦さんの解説である。 鎌倉時代後期、天皇家は兄弟二つの血筋が対 立し、両統が交互に皇位を継承することを取り決めていた。 持明院統は兄の 後深草→伏見(後伏見・花園の父)、大覚寺統は弟の亀山→後宇多(後二条・後 醍醐の父)というふうに。 順番でいうと、後深草→亀山→後宇多→伏見→後 伏見→後二条→花園→後醍醐となる。 1301年、皇位が持明院統から、大覚寺 統に移り、後醍醐の兄の後二条天皇が即位した。 兄の後二条天皇が若くして 亡くなり、皇位は持明院統の花園天皇に移る。 大覚寺統では、次の天皇を誰 にするか、候補者を指名することになり、後二条天皇の皇子がまだ幼かったの で、つなぎで第二皇子で皇位継承権のない後醍醐にする。 そこから歴史の歯 車が狂い始めた。

 1318年、後醍醐天皇が31歳という当時としては異例の高齢で即位した。 す ると、父の後宇多上皇から権力を譲り受け、積極的に政務に乗り出す。 鎌倉 幕府は、蒙古襲来以来求心力を失い、時の執権北条高時は享楽に耽り、内部に 不協和音が生じていた。 後醍醐は、腐敗しきった幕府を倒し、武士の政権で ない、天皇中心の政権をつくりたいと考えた。 悪党と武装集団を集めて、武 力を蓄えるのだが、企ては二度にわたって発覚し、いずれも失敗。 1332年、 後醍醐天皇は隠岐に流刑になる。

「魂魄ハ常ニ北闕(ケツ)ノ天ヲ望マン」2008/09/09 07:14

 後醍醐天皇は隠岐に流されたが、全国に倒幕の機運が広がった。 その混乱 の中、幕府から討伐のために都に遣わされた有力御家人の足利尊氏が、一転、 倒幕側に寝返った。 1333年、鎌倉幕府滅亡。 後醍醐天皇は隠岐を脱出して、 都に戻り、再び御所の主となった。 後醍醐天皇と足利尊氏が力を合わせ「建 武の新政」が始まる。 天皇が実権を握り、天皇専制の色の強く表れた、平安 中期の時代を再現したような政権だった。 それで武士たちの不満があらわれ、 尊氏も平定に出たまま、後醍醐の命に従わず、鎌倉に留まり続けた。 南北朝 の動乱の始まりである。 一時は尊氏も九州まで追われたが、1336年決戦とな った湊川の戦いで楠木正成を破って、都に攻め込んだ。 後醍醐天皇は奈良・ 吉野の山中に逃げ延び、修験の僧たちに守られて仮の御所、吉水院を営んだ。  これが南朝である。 これに対抗して、尊氏は都に持明院統の光明天皇を立て る。 これが北朝である。

 1339年、吉野で後醍醐天皇崩御。 息子の後村上天皇は、父を偲んで木像を 吉水神社に奉納し、その霊を祀った。 普通天皇陵は南向きだが、後醍醐の墓、 塔尾陵(とうのおのみささぎ)は、都に向って北向きに建てられている。 「玉 骨ハタトヒ南山ニ埋ルトモ魂魄ハ常ニ北闕(ケツ)ノ天ヲ望マン」 吉野・賀 名生(あのう、古くは穴生)の南朝は、後村上→長慶→後亀山と四代、57年間 続き、1392年和議が調い後亀山は帰京した。

 室町幕府を構えた足利尊氏に、夢窓国師が「後醍醐天皇の霊をきちんと鎮め れば、守護神にもなってくれる」と進言し、天龍寺を建立、多宝殿に後醍醐天 皇の霊を祀ったのだった。

葉山の「秋野不矩展」2008/09/10 07:09

 気持よい秋晴れとなった9日、生誕100年記念「秋野不矩(ふく)展」を見 に、神奈川県立近代美術館葉山まで行った(10月5日まで)。 秋野不矩さん の絵は、家内がどうしても見たいというので、閑居を始めたばかりの2001年9 月8日、天竜市二俣の秋野不矩美術館まで出かけたことがあった。 建築探偵 藤森照信さん設計の木造の建物も、なかなか素敵だった。 その翌月、秋野不 矩さんが93歳で亡くなり、びっくりしたのだった。

 さて、今回の展覧会は、会場も広く、秋野不矩さんの全貌はもとより、とり わけインドを描いた作品群を、十分に堪能することができる。 秋野不矩さん は、54歳になった1962年、ビスバーバラティ大学(現・タゴール国際大学) に招かれて、一年間インドに滞在した。 以来、亡くなるまでに十数回もイン ドに足を運び、意欲的な制作活動を展開した。 それによって、彼女の画業は よりスケールの大きなものに変貌し、厳しくも雄大なインドの大地を、やさし く生命力あふれる作品に結実し、それまで見られなかった日本画の新境地を開 いた、といわれる。

 秋野不矩さんの絵は、気持いい、清々しい、というのが、展覧会を見ての印 象だ。 水牛が数頭、夕焼けの大河を渡っていく「ガンガー」、シネマスコープ のような(古いね)横広の大画面に三つの寺院を絶妙に配置した「オリッサの 寺院」、四本の角柱の前面に広大な浜と海が開けた「海辺のコテージ」、遠近法 で描かれた柱の間から入る光のコントラストとリズムが楽しい「廻廊」など。

 秋野不矩さんの言葉。 「絵画とは、その作家の魂の象徴であり、その表現 は、作家の生涯の研鑽の道程として追うべきものであります。容易にその道は 展開されませんが、努力を重ねて全うする、そのことが作家の使命であり、よ ろこびでもあります。」  亡くなる前年、秋野不矩さんは92歳で、アフリカに出かけている。